また暑くなってきましたね。あと一週間ほどの辛抱でしょうか。(哲




2012ソスN9ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0492012

 照らし合ふことなき星や星月夜

                           片山由美子

の光は太陽のように自ら発しているものと、地球や月のように太陽の光を反射させているものがある。掲句の通り、天体の光はあくまで一方通行なのだ。星月夜とは、月のない晩、満天に広がる星がまるで月明かりのように輝いている様子をいう。星の光がいつ放たれたかという光年の時間と距離は、およそ想像の及ばないものだが、それでも10億光年の距離にある星の光は10億年たたないと地球に届かないと言われれば、その途方もなさに目がくらむ。手を伸ばせば指先に触れるように輝く星が、現在という時間には存在しないのかもしれない不思議。宇宙を目のあたりにしたとき、人は思わずわが身のあまりのささやかさに呆然となったり、あるいは広大なロマンと夢を紡いでしまいがちだが、掲句は満天の星の孤独を観照した。照らし合うことのない星は真実でありながら、うっかりすると啓蒙や比喩に傾いてしまうところを、下五の星月夜があくまで清らかに広がる天球を引き連れてきてくれる。『香雨』(2012)所収。(土肥あき子)


September 0392012

 蓑虫の揺れぬ不安に首を出す

                           大島雄作

田弘子に「貌出して蓑虫も空見たからう」がある。毎日朝から晩まで木の枝からぶらさがって、しかも真っ暗な巣の中にこもりきりとあっては、誰もがついそんな思いにかられてしまう。しかし考えてみれば、当の蓑虫にとっては大きなお世話なのであり、放っておいてくれとでも言いたくなるところだろう。真っ暗なところで、ぶら下がっているのがいちばん快適なのだ。うっかり空なんぞを見ようと首を出したら、命に関わる。ならば、たとえ命に関わっても、蓑虫が首を出そうとするときは、どういうときなのか。それはまさに命に関わる事態になったときだと、いやでも判断せざるを得ない「こういうときだ」と、掲句は言っている。いつもは風に揺れている巣が、ぴくりとも動かなくなった。こいつは一大事だ、表はどうなっているのかと不安にかられて、命がけで首を出したのである。先の句は人間と同じように蓑虫をとらえた結果であり、後者は人間とは違う種としての蓑虫をとらえている。前者の作者の方が無邪気に優しい分だけ、残酷を強いていると言って良いのかもしれない。『大島雄作句集』(2012)所収。(清水哲男)


September 0292012

 月の出や総立ちとなる松林

                           徳永山冬子

の出を、松林が総立ちとなって迎えています。日の出をみることはあっても、月の出をみるのは稀です。さて、この月は、海から出たのか、山から出たのか、それとも他か。松林とあるので、三保の松原のような海辺の情景として読んでみたいです。もしそうならば、作者は、月の出をみるために、展望のよい宿の上階に部屋を用意したのではないでしょうか。東の水平線がよくみえる、海辺の宿です。これで、掲句を成立させるための空間的条件は整いました。もう一つ、時間的な条件です。松林が総立ちになるためには、いったん日が没して、闇の時間が必要になります。たとえば、本日、2012年9月2日の東京の日没は、18:07分、月の出は、18:44分。いい感じです。残念ながら満月は一昨日でしたが、それでも、日没から月の出までの37分間、夕暮れから夕闇へ、夕闇から夜の帳(とばり)が降りはじめるころに、月は突然現れます。月の出は、たぶん、突然やってくる。夜明け前はあるけれど、月の出前は、ほとんどない。動的な太陽光に比べて、月光は限りなく静かだからです。それまで、闇に包まれ、帳の降りた松林に、突然、海から月が昇って、松林は月光を浴びて立ちあがります。その動きは、かなり速い。朝礼の起立のように「おはよう」と言っています。月の出は、夜の朝の始まりです。太陽の光を受けて月は輝き、光合成で松林は生い繁る。太陽が沈んだその裏側で、その光は、静かに動き出しました。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)




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