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September 1792012

 引越の箪笥が触るる秋の雲

                           嘴 朋子

屋の構造にもよるけれど、箪笥(たんす)はたいていが、あまり日の当たらない部屋の奥などに置かれている。それが引越しともなると、いきなり白日の下に引き出されて、それだけでもどこか新鮮な感じを受ける。句の箪笥はしかも、たぶんトラックの荷台に乗せられているのだろう。日常的にはそんなに高い位置の箪笥を見ることはないので、ますます箪笥の存在感が極まって見えてくる。その様子を作者は、秋雲に触れている(ようだ)と捉えたわけだが、この表現もまた、箪笥の輪郭をよりいっそう際立たせていて納得できる。その昔、若き日のポランスキーが撮った『タンスと二人の男』という短編映画があった。ストーリーらしきストーリーもない映画で、二人の男がタンスをかついで海岸や街中をうろうろするというだけのものだった。ふだんは家の奥に鎮座しているものが表に出てくるだけで、はっとするような刺激を与えるという意味では、掲句も同じである。なんでもない引越し風景も、見る人によってはかくのごとき感覚で味わうことができるのだ。あやかりたい。『象の耳』(2012)所収。(清水哲男)


October 30102012

 野分来る櫓を漕ぐ音で竹撓る

                           嘴 朋子

六竹八塀十郎という言葉がある。樹は六月に、竹は八月を過ぎてから伐り、塀は十月に塗るのが望ましいという意味だ。それぞれに適した時期を先人はこうした語呂合わせで覚えていた。陰暦でいうので、竹はこれからが冬にかけてが伐りどきなのだ。郷里では茶畑も多いが、竹林も多かった。もっさりと葉を茂らせた竹が強風に煽られる姿は、婆娑羅髪を振り立てたようで恐ろしばかりだったが、葉擦れや空洞の幹が立てる音色はたしかに川の流れにも似て、竹の撓る音はぎいぎいと櫓を漕ぐがごとしであった。掲句のおかげで今まで乏しい想像力のなかで荒くれお化けだった景色が一変した。翡翠色の竹林の上を大きな舟がゆったりと渡っていくのだ。環境省が選んだ「残したい日本の音風景」には「奥入瀬の渓流」や「広瀬川の河鹿蛙」などとならび、「京の竹林」もエントリーしている。久しぶりに竹の音を聞いてみたくなった。〈弧を描く少女の側転涼新た〉〈短日のナース小さく風切つて〉『象の耳』(2012)所収。(土肥あき子)


September 3092013

 転ぶ子を巻く土ぼこり運動会

                           嘴 朋子

年のように、近所の小学校の運動会を見に行く。年々歳々、むろん児童たちは入れ替わっているのだが、競技種目は固定されているようなものなので、毎年同じ運動会に見えてしまう。ともすると、自分が子供だったそれと変わりない光景が繰り広げられる。転ぶ子がいるのも、毎度おなじみの光景である。掲句では「巻く土ぼこり」とあるから、かなり派手に転んでしまったのだろうか。しかし作者は可哀想にと思っているわけではない。転ぶ子が出るほどの子供らの一所懸命さに、拍手をおくっているのだ。いいなあ、この活気、この活発さ。昔住んでいた中野の小学校の運動場は、防塵対策のためにすべてコンクリートで覆われていたことを思い出した。運動会も見に行ったが、転んでも当然土ぼこりは立たない。転んだ子は、どこかをすりむいたりする羽目になりそうだから、見ていてひやひやさせられっぱなしであった。やはり、運動会は砂ぼこりが舞い上がるくらいがよい。『象の耳』(2012)所収。(清水哲男)




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