反日デモ。中国型共産主義の矛盾が具体的に露出されている。(哲




2012ソスN9ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1892012

 秋耕の人折り返すとき光る

                           林昭太郎

ッホの「種まく人」は、ミレーの代表作「種まく人」とほぼ同じ構図で描かれる。ゴッホは「ミレーが残した『種まく人』には残念ながら色彩がない。僕は大きな画面に色彩で種まく人を描こうと思っている」と手紙に記した。そして、彼は地平線へと沈む太陽を強烈な原色で描いたのだった。ミレーの落ち着いた色彩もよいが、農夫の背負う輝きをどうしても描きたかったゴッホの気持ちもよく分かる。土と会話し、育て、収穫する。たとえ真実の晴天のなかにあったとしても、彼らがまとう光は特別なものとして、見ている者の目には映る。耕す人の元に鳥たちが集まるのは、土を掘り返すことで地中から飛び出してくる蛙を狙っているのだという。やわらかい光のなかで、さまざまな命のやりとりが静かに続いている。〈かなかなや水の慄へる金盥〉〈爽涼や風の器となる破船〉『あまねく』(2012)所収。(土肥あき子)


September 1792012

 引越の箪笥が触るる秋の雲

                           嘴 朋子

屋の構造にもよるけれど、箪笥(たんす)はたいていが、あまり日の当たらない部屋の奥などに置かれている。それが引越しともなると、いきなり白日の下に引き出されて、それだけでもどこか新鮮な感じを受ける。句の箪笥はしかも、たぶんトラックの荷台に乗せられているのだろう。日常的にはそんなに高い位置の箪笥を見ることはないので、ますます箪笥の存在感が極まって見えてくる。その様子を作者は、秋雲に触れている(ようだ)と捉えたわけだが、この表現もまた、箪笥の輪郭をよりいっそう際立たせていて納得できる。その昔、若き日のポランスキーが撮った『タンスと二人の男』という短編映画があった。ストーリーらしきストーリーもない映画で、二人の男がタンスをかついで海岸や街中をうろうろするというだけのものだった。ふだんは家の奥に鎮座しているものが表に出てくるだけで、はっとするような刺激を与えるという意味では、掲句も同じである。なんでもない引越し風景も、見る人によってはかくのごとき感覚で味わうことができるのだ。あやかりたい。『象の耳』(2012)所収。(清水哲男)


September 1692012

 宿の子をかりのひいきや草相撲

                           久保より江

祭りの季節です。先の日曜、みこし、おはやし、太鼓の音に誘われて、おかめやひょっとこの踊りを楽しみました。かつて、村社、郷社といわれた神社の境内には、今でも相撲の土俵があります。奈良時代、秋の宮廷行事であった相撲の節(すまいのせち)は、平安末期に廃れましたが、宮廷神事にあやかる力自慢の伝統は、全国津々浦々続いています。本日、両国国技館は、秋場所の中日。力士の顔ぶれがインターナショナルになった今でも、その様式は変わりません。西洋人は、力士のことをスモウ・レスラーと呼びます。確かに、相撲も格闘技の一種ですが、神事として奉納するという伝統もあります。相撲を文化としてとらえると、不可思議なことがたくさんありますが、それよりも、目の前でつく勝負は明快ですから、ひいきの力士の勝ち負けに、一喜一憂します。見物衆としては、東か西か、どちらかを応援した方が興が乗るので、掲句のように、旅の宿の子どもを、今日はひいきにして応援しよう、ということになります。相撲は確かに格闘技の一面がありますが、他の格闘技、たとえばプロレスやボクシング、K1、柔道などと違うところは、勝負がついた後、観客の多くが手をたたいたり、笑ったり、残念がったりしているところです。観客が笑う格闘技は、他にはなかなかないと思いますがいかがでしょう。なぜ、笑いが起きるのか。それは、巨体が土俵から転げ落ちるのが滑稽だからでしょう。物が落ちると人は笑うことがあり、日本ではこれを、落ち、というわけです。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)




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