中国で金儲けばかり考えている国。日本はそう受け取られている。(哲




2012ソスN9ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1992012

 湾かけて風の名月飛ぶごとし

                           多田裕計

の場合の「かけて」は「懸けて」の意味であろう。たとえば東京湾でも伊勢湾でもいいけれど、大きな港湾を股にかけて風がダイナミックに吹きわたっている。夜空には名月が皓々と出ていて、まるで風にあおられて今にも飛ばされんばかり、というそんな光景である。「湾」という大きさに「飛ぶごとし」というスピードが加わって、句柄は壮大である。あるいは、少し乱暴な解釈になるけれど、「かけて」を「駆けて」と解釈してみたい気もしてくる。湾上を風が疾駆し、名月も吹き飛ばされんばかりである。ーー実際にはあり得ないことだろうが、文芸作品としては許される解釈ではないだろうか。風も名月も湾上を飛ぶなんて愉快ではないか。なにせ俳句は、亀が鳴いたり、山が眠ったり笑ったりする世界なのだから。そんなところにも俳句のすばらしさはある。蛙が古池に飛びこんだくらいで驚いてはいられない。裕計は俳句雑誌「れもん」を主宰した芥川賞作家で、他に「夢裂けて月の氷柱の響き落つ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 1892012

 秋耕の人折り返すとき光る

                           林昭太郎

ッホの「種まく人」は、ミレーの代表作「種まく人」とほぼ同じ構図で描かれる。ゴッホは「ミレーが残した『種まく人』には残念ながら色彩がない。僕は大きな画面に色彩で種まく人を描こうと思っている」と手紙に記した。そして、彼は地平線へと沈む太陽を強烈な原色で描いたのだった。ミレーの落ち着いた色彩もよいが、農夫の背負う輝きをどうしても描きたかったゴッホの気持ちもよく分かる。土と会話し、育て、収穫する。たとえ真実の晴天のなかにあったとしても、彼らがまとう光は特別なものとして、見ている者の目には映る。耕す人の元に鳥たちが集まるのは、土を掘り返すことで地中から飛び出してくる蛙を狙っているのだという。やわらかい光のなかで、さまざまな命のやりとりが静かに続いている。〈かなかなや水の慄へる金盥〉〈爽涼や風の器となる破船〉『あまねく』(2012)所収。(土肥あき子)


September 1792012

 引越の箪笥が触るる秋の雲

                           嘴 朋子

屋の構造にもよるけれど、箪笥(たんす)はたいていが、あまり日の当たらない部屋の奥などに置かれている。それが引越しともなると、いきなり白日の下に引き出されて、それだけでもどこか新鮮な感じを受ける。句の箪笥はしかも、たぶんトラックの荷台に乗せられているのだろう。日常的にはそんなに高い位置の箪笥を見ることはないので、ますます箪笥の存在感が極まって見えてくる。その様子を作者は、秋雲に触れている(ようだ)と捉えたわけだが、この表現もまた、箪笥の輪郭をよりいっそう際立たせていて納得できる。その昔、若き日のポランスキーが撮った『タンスと二人の男』という短編映画があった。ストーリーらしきストーリーもない映画で、二人の男がタンスをかついで海岸や街中をうろうろするというだけのものだった。ふだんは家の奥に鎮座しているものが表に出てくるだけで、はっとするような刺激を与えるという意味では、掲句も同じである。なんでもない引越し風景も、見る人によってはかくのごとき感覚で味わうことができるのだ。あやかりたい。『象の耳』(2012)所収。(清水哲男)




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