昨日は一日中本降りだった。今年はじめて一歩も外に出なかった。(哲




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September 2492012

 駆け出しと二人の支局秋刀魚焼く

                           小田道知

聞社の支局だろう。駆け出しの新人と作者との二人で、その地域をまかなっている。田舎の町の小さなオフィスで、昼餉のための秋刀魚を焼いている。もうこれだけの道具立てで、いろいろな物語が立ち上がってくるようだ。出世コースからは大きく外れた支局長の作者は定年間近であり、新人にいろいろなノウハウを教えてはいるが、若い彼は近い将来に、必ず手元を離れていってしまう。めったに事件らしい事件も起きないし、いざ起きたとなれば、街の大きな支社から援軍がやってくる段取りだ。新聞記者とはいいながら、あくせく過ごす日常ではない。そんな日常のなかだからこそ、「秋刀魚焼く」という行為がいささかの滑稽さを伴いながらも、鮮やかに浮き上がってくる。このとき、駆け出しの新人はどうしていただろうか。たぶん秋刀魚など焼いたこともないので、感心したようなそうでもないような複雑な顔をして、作者を眺めていたような気がする。小さな支局での小さな出来事。映画の一シーンにでなりそうだ。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


September 2392012

 開き見る忘扇の花や月

                           山口青邨

扇(わすれおうぎ)は秋の季語。残暑もややおさまって、夏に使った扇子を一本一本、開いて見ているところです。扇子を使うのは外出先が多く、そこで会った人や話したこと、飲食の数々を、扇子はそのひだに折りたたみ記憶して、ややくたびれて一季節をまっとうし、用済みとなるところです。掲句はたぶん、エアコンがさほど普及していない時代の句ですから、ひと夏に使用する扇子の数も、T・P・O(時・所・目的)に合わせて幾種類も持ち合わせていたことでしょう。「開き見る」作者の所作から、落ち着きのある生活を感じとれ、鉱物学者であった青邨の整頓された書斎の机上に、扇子数本が置かれているとよみます。季節の区切れを整理する潔さ、句の中に「花・扇・月」、春夏秋の三季を織り込む洒脱、これは、春から中秋まで活躍した扇への愛着と惜別の句のように思われます。「新装・現代俳句歳時記」(2003・実業之日本社)所載。(小笠原高志)


September 2292012

 夕月の砂山に呼び出されたる

                           佐藤鬼房

日が旧暦八月七日、六日月ということなので、ここ数日の月がいわゆる夕月。ただでさえ夕暮れからしばらくしか見えないが、今年は台風の影響もありここまでなかなか遭遇できなかったのではないか。そんな夕暮れの砂山に呼び出されたのだ、なんだかどきどきする。見渡す限りの砂の上にあるのは二人の影とそれを見下ろす夕月、聞こえるのはひたすらな潮鳴りと、確かな人の息づかいだ。砂山を指で掘ったらまっかに錆びたナイフが埋まっていた、と歌っていたのは石原裕次郎だけれど、覆いつくしているようでいて、いつか風がすべてを晒してしまうかもしれない砂。絶えず動いているその砂の流れの果ては静かに濡れて、しんとした海にも育ちつつある月が漂っていることだろう。「新日本代歳時記 秋」(2000・講談社)所載。(今井肖子)




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