本物のフクロウです。一緒に写真に収まるには500円必要ですと。(哲




2012ソスN10ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 16102012

 黄落や接吻解かぬロダンの像

                           小滝徹矢

ダンの「接吻」は上野の国立西洋美術館に収蔵されている。はじめ「地獄の門」に加わるはずだったが、情愛豊かで馥郁とした幸福感に包まれた作品は、男女が業火に苛まれる様相とかけ離れたため独立した作品となった。「世界でもっとも美しい」といわれるこの像をロダンは後年「美しいが何も得られなかった」と叙述している。「恋愛こそ生命の花である」と公言した作家は、アトリエで若い男女にこの通りのポーズをとらせ、恋人であったカミーユとともに制作に取り組んだ。永遠に接吻する像を完成させたのち、ロダンは妻のもとへと帰り、残されたカミーユは精神を病んでしまう。国立西洋美術館までは美しい銀杏並木があり、毎年見事な黄落を見せてくれる。天才の名を欲しいままにした芸術家の情熱と迫力を目の当たりにしたとき、人は魂を射貫かれたような感動を受ける。その喜びとも、畏怖とも言いつくせない曖昧な気持ちのまま美術館を後にすれば、途端に現実の色彩として銀杏の鮮やかな黄色が目に飛び込むのだ。その色は、行きに見た色とはきっと違って映ることだろう。『祇園囃子』(2012)所収。(土肥あき子)


October 15102012

 秋の海町の画家来て塗りつぶす

                           森田透石

者の気持ちは、とてもよくわかる。秋晴れの日ともなると、我が家の近所の井の頭公園にも、何人もの「画家」たちがやってきて描いてゆく。絵に関心はあるほうだから、描いている人の背後から、よくのぞき見をする。たいがいの人はとても巧いのだけど、巧いだけであって、物足りなさの残る人のほうが多い。でも、なかには写実的でない絵を描く人もいて、巧いのかどうかはわからないが、大胆なタッチの人が多いようだ。作者が見かけたのも、そんな「町の画家」なのだろう。海の繊細な表情などはお構いなしに、あっという間に一色で塗りつぶしてしまった。ぜんぜん違うじゃないか。愛する地元の海が、こんなふうに描かれるとは。いや、こんな乱暴に描かれるのには納得がいかない。さながら自宅に土足で踏み込まれたような、いやーな感じになってしまった。この海のことなどなんにも知らない「町場」の他所者めがと、しばし怒りが収まらなかったに相違ない。まっこと、ゲージュツは難しいですなあ。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


October 14102012

 塩田はすたれあつけし草残る

                           酒井黙禅

沿いの土地を旅すると、よくご当地の土産物屋があります。土産としては手頃だし、料理の決め手は塩にありと思っているので、買い求めます。オホーツクの塩、三陸の塩、伊豆の塩、高知の塩、沖縄の塩、それぞれに味や粒の形・大きさ・湿り気など違いがありますが、産地の「塩田」にお目にかかれることはなくなりました。私は塩田を見たことがありません。製塩技術も進歩を遂げて、塩田という素朴な方法はほとんどなくなってしまっているのでしょう。掲句のように、塩田はすたれてしまいました。その塩田に残る「あつけし草」とは「厚岸草」で、厚岸(あっけし)は北海道東部太平洋側、根室と釧路の中間に位置し、最初にこの地で発見されたことにちなんで命名されています。厚岸草は、北海道・本州北部・四国の塩分の多い海岸の湿地などにごくまれに群生し、高さ10〜30センチ。形状は、遠目からは唐辛子に似ていて、夏の間濃い緑色なのが、秋になると赤黄色になります。紅葉は、海岸からも始まりつつあります。『四季花ごよみ・秋』(1987・講談社)所載。(小笠原高志)




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