十月もあと一週間だ。数えてみてもはじまらないが、ついつい…。(哲




2012ソスN10ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 24102012

 境内や草の中なる相撲風呂

                           佐藤紅緑

相撲九月場所は、日馬富士の連続全勝優勝→横綱昇進、という結果で幕を閉じた。さて、こちらは「草の中」という言葉の連想から、草相撲であると解釈したい。土俵で汗を流し砂にまみれる相撲には、大相撲であれ草相撲であれ、風呂は付きものである。私が子どもの頃は土俵上の勝負だけでなく、取り終わって風呂に入る裸の彼らを、物珍しいものでも見るように、テントの隙間や銭湯の入口から覗き見したおぼえがある。地方巡業に来た鏡里や吉葉山らの、色つやが良く大きな素裸は今も目に焼きついている。「相撲」は秋の季語。「境内」だから、寺社に設けられた土俵で取り組みを終わった相撲取りが入る臨時の風呂が、境内隅の草地に設けられているのだ。相撲はもともと祭事的行事であり、以前はたいていの寺社や学校の校庭の隅に土俵が設けられていた。私が住んでいる町の大神宮の境内には立派な土俵があって、江戸時代からつづけられている奉納相撲大会が、現在も毎年10月に開催されている。子供の部もあって賑わっている。「草の中なる」風呂によって、気取らずのどかで真剣な相撲大会の雰囲気が想像される。そんな佳き時代があった。「やはらかに人分け行くや勝角力」(几董)。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 23102012

 つづれさせ終りを変ふる物語

                           石井薔子

づれさせとは「綴刺蟋蟀(つづれさせこおろぎ)」のこと。リッリッと鳴くごく一般的なこおろぎだが、昔の人は「綴刺せよ」と冬支度をうながす声に聞いていた。掲句の「終りを変ふる」とは、物語を読み聞かせながら、ふと悲しい結末を変えてしまうということか。たとえば「人魚姫」のディズニー版のように。原作では人間になるため美しい声と引き替えに足をもらい、最後は海の泡となってしまう悲劇だが、一転ディズニー映画の「リトル・マーメイド」となると、人魚姫は王子と結婚し「そしてふたりは幸せに暮らしました」で終わる。アンデルセンの物語を読んで「どうしてわかってあげないの、王子さまのばか」と涙ぐんだ少女たちの夢が叶ったわけだ。「フランダースの犬」や「マッチ売りの少女」にもハッピーエンド版があるそうだ。あからさまに不幸を避ける風潮もどうかと思うが、たしかに悲しい結末を口にしたくない夜もある。つづれさせの切れ目ない鳴き声が、じきに近づく冬の気配を引き連れてくる。〈集まりて一族わづか曼珠沙華〉〈人形にそれぞれの視野秋の昼〉『夏の谿』(2012)所収。(土肥あき子)


October 22102012

 宿帳は大学ノート小鳥来る

                           中條ひびき

びた土地の小さくて古い旅館だ。「宿帳は大学ノート」だけで、この旅館のたたずまいが目に見えるようである。大きな旅館では和紙を製本するなどした立派な宿帳を備えているが、ここでは代わりに大学ノートを使っている。主人が無頓着というのではなく、旅館全体の雰囲気からして、立派な宿帳では釣り合いが取れないようだからだ。日暮れに近いころ、宿までの道で、作者は渡り鳥の大群を仰ぎ見たのだろう。鳥たちとは道のりの遠近は違っても、いまは我が身もまた同じ渡り者である。鄙びた土地の旅行者に特有の、ある種の心細さもある。そんな我が身がいま、およそ華やかさとは無縁の宿で、大学ノートに名前や住所などを書きこんでいる。物見遊山であろうがなかろうが、旅につきものの、心をふっとよぎるかすかな寂寥感を詠んでいて秀逸だ。掲句には関係ないが、昔フランクフルトの安ホテルに飛び込みで泊ったとき、受付の風采の上がらぬ爺さんが無愛想に突きつけてきたのも大学ノートだった。「フィリピーノ?」と聞くから、ノートに署名すると「おお、ヤパーニッシュ」とにわかに相好を崩し、「もう一度組んで、今度こそアメリカをやっつけよう」と言った。『早稲の香』(2012)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます