十月尽。ぼろぼろのカーディガンを破棄して新しいのを買った。(哲




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October 31102012

 魂の破片ばかりや秋の雲

                           森村誠一

夏秋冬を通じて、さまざまな雲が空(そら)という広大なステージに、千変万化登場してくれる。見飽きることがない。それぞれの雲が生成される天文気象学的根拠などそっちのけで、私たちはただ見とれて楽しめばよろしい。雲をずっと追いかけている写真家もいるくらいである。天を覆うような壮大な鰯雲などではなく、点々と散らばる秋のちぎれ雲だろうか。それを「魂の破片」ととらえているのだから、不揃いで身勝手なちぎれ雲が、思い思いに浮かんで、動くともなく風でかすかに動いているのだろう。まともにまとまった立派な「魂」と言うよりも、ありふれた文字通り「破片ばかり」なのである。そんな魂を覗くように、作者はその「破片」にカメラを向けているのかもしれない。誠一はさかんに「写真俳句」に熱をあげていて、著作『写真俳句のすすめ』などもあるくらいだ。「俳句ほど読者から作者に容易になれる文芸はない」と書く。そう、たしかに小説や詩の作者になるのは、俳句に比べて「容易」ではない。ほかに「行く年を追いたる如くすれちがい」がある。『金子兜太の俳句塾』(2011)所載。(八木忠栄)


October 30102012

 野分来る櫓を漕ぐ音で竹撓る

                           嘴 朋子

六竹八塀十郎という言葉がある。樹は六月に、竹は八月を過ぎてから伐り、塀は十月に塗るのが望ましいという意味だ。それぞれに適した時期を先人はこうした語呂合わせで覚えていた。陰暦でいうので、竹はこれからが冬にかけてが伐りどきなのだ。郷里では茶畑も多いが、竹林も多かった。もっさりと葉を茂らせた竹が強風に煽られる姿は、婆娑羅髪を振り立てたようで恐ろしばかりだったが、葉擦れや空洞の幹が立てる音色はたしかに川の流れにも似て、竹の撓る音はぎいぎいと櫓を漕ぐがごとしであった。掲句のおかげで今まで乏しい想像力のなかで荒くれお化けだった景色が一変した。翡翠色の竹林の上を大きな舟がゆったりと渡っていくのだ。環境省が選んだ「残したい日本の音風景」には「奥入瀬の渓流」や「広瀬川の河鹿蛙」などとならび、「京の竹林」もエントリーしている。久しぶりに竹の音を聞いてみたくなった。〈弧を描く少女の側転涼新た〉〈短日のナース小さく風切つて〉『象の耳』(2012)所収。(土肥あき子)


October 29102012

 若き母の炭挽く音に目覚めをり

                           黒田杏子

載誌では、この句の前に「炭焼いて炭継いで歌詠みし母」が置かれている。だから掲句の炭は、母が焼いたものだ。私が子どもの頃に暮した田舎でも、農繁期を過ぎると、山の中のあちこちの炭窯から煙が上がっていたものである。焼いた炭は、使いやすいように適当にのこぎりで切っておく必要がある。たいして力もいらないから、たいていは女子どもの仕事だった。深夜だろうか。ふと目覚めると、母の炭を切る音が聞こえてきた。このときの子どもの気持ちは、お母さんも大変だなとかご苦労さんというのではなく、そうしたいわば日常化した生活の音が聞こえることで、どこかでほっと安堵しているのだ。とにかく、昔の女性はよく働いた。電化生活など想像すべくもなかった時代には、コマネズミのように働き、そしていつもそれに伴う生活の音を立てていた。たまに母親が寝込んでしまうと、家内の生活の音が途絶えるから、子どもとしてはなんといえぬ落ち着かぬ気分になったものだ。母を追慕するときに、彼女の立てていた生活の音を媒介にすることで、句には大いなる説得力が備わった。「俳句界」(2012年11月号)所載。(清水哲男)




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