2012N11句

November 01112012

 秋真昼島に一つの理髪店

                           鶴濱節子

わやかで透明感のある時間が「秋の昼」の本意だろうか。「本来春昼にたいして作られた季語で、まだ十分熟してはいない。」と平井照敏の「新歳時記」にはある。どのような過程を経て季語に取り入れられたのか詳しいことはわからない。「秋の昼妻の小留守をまもりけり」日野草城 「大鯉のぎいと廻りぬ秋の昼」岡井省二などが例句として載っている。掲句は「秋真昼」なのだからどんぴしゃピントがあってなおかつ非現実な静けさが感じられる。小さな島だとタクシーも一台、何でも置いてある雑貨屋も一軒なんて場所だろうか。とりわけ理髪店などは島の人もたまに利用するぐらいだろうから、店の主人も手持無沙汰にがらんとしているのかもしれない。そんな情景を思うとせかせかした都会とは違い静かに秋が深まってゆく島の時間が豊かに感じられる。『始祖鳥』(2012)所収。(三宅やよい)


November 02112012

 終刊の号にも誤植そぞろ寒

                           福田甲子雄

植は到るところに見られる。気をつけていても出てしまう。僕も第一句集の中の句で壊のところを懐と印刷してしまった。その一冊をひらくたび少し悔やまれる。自分の雑誌で投句の選をしているので誤字、脱字、助詞の用法などを直したつもりでいると作者からあとで尋ねられたりする。大新聞と言われる紙面に誤植を見ることはめったにないが、それでもたまに見つけるとなぜかうれしくなる。終刊の号にも誤植がみつかる。誤植は人間がやることの証。業のようなものだ。月刊「俳句」(2012年6月号)所収。(今井 聖)


November 03112012

 ゆく秋やふくみて水のやはらかき

                           石橋秀野

起きてまず水をコップ一杯飲むことにしている。ここしばらくは、冷蔵庫で冷やしておいた水を飲んでいたが今朝、蛇口から直接注いで飲んだ。あらためて指先の冷えに気づいて冬が近づいていることを実感したが、中途半端に冷え冷えし始める今頃が一番気が沈む。そんな気分で開いた歳時記にあった掲出句、朝の感覚が蘇った。そうか行く秋か、中途半端で気が沈むなどと勝手な主観である。井戸水なのだろう、口に含んだ瞬間、昨日までとどこか違う気がしたのだ。思ったより冷たく感じなかったのは冷えこんで来たから、という理屈抜きで、ふとした一瞬がなめらかな調べの一句となっている。ひらがなの中の、秋と水、も効果的だ。三十九歳で病没したという作者、『女性俳句集成』(1999・立風書房)には掲出句を挟んで〈ひとり言子は父に似て小六月〉〈朝寒の硯たひらに乾きけり〉とあり、もっと先を見てみたかったとあらためて思う。『図説俳句大歳時記 秋』(1964)所載。(今井肖子)


November 04112012

 菊の前去りぬせりふを覚えねば

                           中村伸郎

者・中村伸郎は、舞台・映画・テレビで活躍した俳優です。映画で記憶に残っているのは、小津安二郎監督の『東京物語』で、上京した老夫婦(笠智衆・東山千栄子)をぞんざいに扱う長女(杉村春子)の夫役です。いわゆる髪結いの亭主の役で、老夫婦の長男も長女も仕事に追われて東京見物に連れて行けない中で、夕方になると二人を銭湯に連れていく暇のある役柄で、何を生業にしているのか不明でありながら、たまに集金に出かける用がある。そんな下町の閑人をひょうひょうとした存在感で演じられる役者です。舞台では、渋谷山手教会の地下にあったジャンジャンという芝居小屋で、1980年代、毎週金曜日の午後10時から、イヨネスコの二人芝居『授業』で、老教授役を演じていました。一時間弱の短い舞台の後、拍手を送る観客の表情の奥を覗き込むような老獪な視線を受けた覚えがあり、見られているのはむしろ観客席に座っているこちら側ではないかと、いまだその視線は記憶に残っています。そんなことを思い出しながら掲句を読むと、「花のある役者」というのは、大輪の花ばかりではなく、観る側の記憶に根づいていられることなのではないかとも思えてきます。作者は、日比谷公園か新宿御苑、または、どこかの寺社の境内の菊花展に行き、菊の花に心を奪われそうになったのでしょう。あるいは、「せりふを覚え」ながら晩秋の道を歩いていたときなのかもしれません。いずれにしても、目の前の菊を目の中に入れてはならない決意が、完了・強意の助動詞「ぬ」に込められ、切れています。菊を目の中に入れてしまっては、「せりふ」が入らなくなってしまうからです。俳優・中村伸郎の仕事のほかに、こんな舞台裏のスナップ写真のような俳句があったことを、喜びます。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)


November 05112012

 逝くものは逝き巨きな世がのこる

                           藤木清子

の女流俳人と言われる人が二人いる。一人は敗戦後すぐに句集を出した鈴木しづ子で、もう一人がこの句の作者である藤木清子だ。彼女は日中戦争時代に、日野草城の「旗鑑」や「京大俳句」に句を寄せている。二人とも人目に触れる場所での活動期間は短く、いわば「一閃の光芒を放って消えた短距離ランナー」(宇多喜代子)であり、俳句をやめてからの消息は一切不明のままだ。清子に至っては、写真一枚すら残っていない。句の文字面の意味は明瞭だが、しかし、いまひとつ真意を捉えにくい句だ。それはおそらく「巨きな世」の指し示す世界が、現代の常識とは大きくずれているせいではないかと愚考する。戦前のあの時期で「巨きな世」といえば、たいていの人が思い浮かべたのは万世一系の天皇家を頂点とする「不滅の」世界だったろうからである。兵士などの逝くさだめの者は死んでいくのだけれど、巨きな世は永久に安泰である。皮肉でも風刺でなく、素朴にそういうことを言いたかったのではあるまいか。しかし現代的な感覚で読むと、皮肉が辛辣に利いていて、デスペレートな気分の作者像が浮かんでくる。逆に、この句から「万世一系」の世を思えと言われても、そうはまいらない。時代をへだてての句を読むのは難しい。そのサンプルのような句だと思った。宇多喜代子編著『ひとときの光芒・藤木清子全句集』(2012・沖積舎)所収。(清水哲男)


November 06112012

 活けられて女郎花とはさみしかり

                           橘いずみ

ロギクやイヌフグリなど、花の名には気の毒なものが見られるが、女郎花もそのひとつである。鮮やかな黄色でありながら、粟粒が集まったような控えめな花である。群生していてこその美しさもあり、一本折り取ると存在がことさら薄まってしまう。花瓶など花として活けられたときの所在なさはいかばかりか。女郎花といえば「紫式部日記」のなかで触れる女郎花の項の終わりかたはひときわ印象的だった。「その折はをかしきことの 過ぎぬれば忘るるもあるは いかなるぞ」、意訳すると「その時は興味をもっていたのに、時が経つと忘れてしまうものなのね」。花言葉は「約束を守る」。なんとも皮肉に思えるものの、これもまた時が経てば忘れてしまうのかもしれない。『燕』(2012)所収。(土肥あき子)


November 07112012

 何にても大根おろしの美しき

                           高橋順子

根を詠んだ句は多いし、「大根洗」「大根干す」などの季語もある。それだけ古くから、大根は私たち日本人の暮しにとって欠かせないものになっているというわけである。食料としてはナマでよし、煮てよし、炒めてよし、漬けてよしである。それにしても、「大根おろし」の句はあまり見かけない。簡単に食卓に並べられる大根おろし。その水気をたっぷり含んだ素朴さに、順子は今さらのようにその美しさを発見し、素直に驚いているのだ。下五を「美しさ」としたのでは間抜けな感嘆に終わってしまうけれど、「美しき」と結んだことで句としてきりっと締まり、テンションが上がった。食卓で主役になることはあり得ないけれど、「大根おろし」がないとどうしようもない日本のレシピはたくさんある。おろしには食欲も気持ちもさらりと洗われる思いがする。大根そのもののかたちは「美しき」とは必ずしも言えないけれど、おろしにすることによって、水分をたっぷり含んだ透明感があって雪のような純白さには、誰もが感嘆させられる。「美しき」とは「おいしさ/美味」をも意味しているのだろう。大根のあの辛味もなくてはならないもの。掲句には女性ならではの繊細な観察が生かされている。順子の他の句「しらうをは海のいろして生まれけり」にも、繊細で深い観察が生きている。『博奕好き』(1998)所収。(八木忠栄)


November 08112012

 日本海時化をる柿の甘さかな

                           しなだしん

は瀬戸内の端っこにある神戸で育った。瀬戸内の島へ渡るフェリーや海釣りの小型船に乗ったことしかないが、荒れ狂う海を見た覚えがない。大人になって日本海や太平洋の島々へ船で渡る機会も増えたが、驚いたのは少し天候が悪くなると海がその様相を一変させることだった。定期船が欠航になったその日に小さな漁船が木の葉のごとく高波に上下する様を島の浜から眺めているだけで船酔いしそうになった。特に日本海は北西の季節風が吹く冬場なると波高く荒々しい海へ変貌するようだ。「時化をる」とあるから数日同じような海の状態が続いているのだろう。日本海に取り囲まれた佐渡島には「おけさ柿」という高品質の柿がある。柿が甘くなるのと海の時化とは関係がないだろうが掲句を読むと荒波に揉まれることで柿の甘味が増すように感じられる。『隼の胸』(2011)所収。(三宅やよい)


November 09112012

 水鳥に投げてやる餌のなき子かな

                           中村汀女

の句所収の『汀女句集』は序文を星野立子が書いていて、その序文の前、つまり句集の巻頭には虚子の「書簡」が掲げられている。拝啓で始まり怱々頓首で終わる汀女宛の実際の書簡である。これが面白い。あなた(汀女)は私(虚子)に選のお礼を述べられたが「もう何十年かあなた許りで無く、何百人、何千人、或は何万人といふ人の句を毎日選び続けて今日まで参りました。」そんな多くの句の選をして疲労せずにいることができるのは、それらの中に自分を驚喜せしめ興奮せしめる句があるからで、あなたが私に感謝なさるよりも私の方こそあなたに感謝しなければならないと書く。ここまでなら謙虚で品のいい指導者らしい言い方になるが虚子はもちろんそこで終わらない。「併し斯んなことをいふたが為めに、あなたの力量を過信なさっては困ります。(中略)今日の汀女といふものを作り上げたのは、あなたの作句の力と私の選の力とが相待って出来たものと思ひます。」と続ける。そもそも選のお礼を虚子に言ってきているのだから汀女は言われるまでもなくわかっているのだが、虚子はえげつなく誰のおかげだと念を押す。さらに想像して言えば、この汀女宛の「書簡」が巻頭に載って多くの門弟たちに読まれることを虚子は知っていたので(当然汀女はあらかじめ許可を得ているはず)、その機会を借りて組織のヒエラルキー護持と権威への信奉を強調したとも取れる。やっぱり怪物だなあ。この句集、子を詠んだ秀句が多い。この句もテーマは水鳥ではなく子どもの「気持」そのものが眼目である。『汀女句集』(1944)所収。(今井 聖)


November 10112012

 鯛焼を割つて小豆をかがやかす

                           市川きつね

っかりしていた。「古志青年部作品集 第一号」(2012年3月)で掲出句を読み、いいなあ、小豆だから秋になったら鑑賞させていただきましょう、と思っているうち、立冬が過ぎてしまった。鯛焼はいつでもあるけれど、なんとなく冬にほかほかを食べたい、という印象なのもうっかりの原因かもしれない、と思って見ていると、歳時記によっては鯛焼が冬季として立っているのもある。逆に、小豆だけでは立ってなく、新小豆のみという歳時記もあるが、ここはかがやく小豆の句として読んだ。子供の頃肌寒くなってくると、母が茹で小豆を作ってくれた。大きなアルミの鍋一杯に煮ると、家中にほの甘い香りが漂ってうれしかったものだ。思えば新小豆が出回る頃だったのだろう。この鯛焼の餡はつぶあん、ほかっと割ると小豆がつやつやと顔を出す。その光景は誰もが一度は目にしたことがあり、割ればかがやく、なのだ。そこを、かがやかす、という使役表現にすることで、割る、という一瞬の動作がいきいきと強調され、一気に湯気が立ちのぼり、小豆がまことに美しくおいしそうなのである。(今井肖子)


November 11112012

 立冬や浮き上がりさうな力石

                           岩淵喜代子

の姿ということを意識しないままに読み、作ってきましたが、もしかしたら、この句にはそれがあるのかもしれません。何度読み返してみてもわからない句なのですが、それでもしばらくの間、この句から目を離せられないからです。まず、「立冬」で始まり、「力石」で終わる、この納まりのよさ。漢字二字を上下に配置した姿です。増俳では、横書きになりますが、この句を縦書きにしてみてください。「立冬」は暦のうえの言葉ですが、この日、空を見上げて冬を予感する人もいるでしょう。それに対して「力石」は寺社の境内にあって、昔は力試しに持ち上げられたそうですが、今は地面に黙って鎮座しています。文字の上下と事象の天地が対応していることによって、句の姿が安定しています。ところが、中七が全く不安定で、第一に字余り、第二に「浮き上がりさうな」という内容です。「浮き上がりさうな力石」とは、どこの、どんな、どれくらいの大きさの力石であるのか、その時の天候は、そして作者の心のもちようはどのような状態であったのか、不明です。つまり、中七は謎です。しかし、立冬は確かに今年もやって来て、力石は、日本中の寺社に遍在しています。季節は確実に繰り返し、力石は不易の姿。掲句に生物は登場しませんが、天地の間を徘徊して、ときに、幻視してしまう風羅坊(「笈の小文」)の姿が見え隠れするようです。『白雁』(2012)所収。(小笠原高志)


November 12112012

 こがらしや子ぶたのはなもかわきけり

                           小野敏夫

い読者にはおなじみの句。十二年前の掲示板で作者探しがはじまり、この間多数の読者にご協力をいただきましが不明のままで過ぎてきました。そしてまさにいま「こがらし」の季節に、ようやく土肥あき子さんが突き止めてくれました。詳細については「ZouX」304号をご覧ください。作者が当時の群馬在住だったこともわかり、群馬といえば「上州の空っ風」で有名な土地ですから、句の「こがらし」はさぞや猛烈な勢いで吹いていたことでしょう。敗戦直後のころには、豚を飼っている農家は少なくありませんでした。だから「子ぶた」も、小学生の作者にとっては親しい存在です。登校途中ででも目撃したのでしょうか。可愛い子ぶたたちが、寒さに震えて身を寄せあっている姿が目に浮かんできます。「はなもかわきけり」とは、なかなかに鋭い観察ですね。なお、原句は「凩や小豚の鼻も乾きけり」というものでした。教科書に載せるにあたって、文部省がやさしい表記に改めたのでしょう。どちらが良いとは一概には言えませんが、作者がご健在なら、そのあたりのことも含めてご感想をお聞きしたいと、また新しい欲が湧いてきました。「少国民の友」(1946年4月号)初出。(清水哲男)


November 13112012

 牡蠣割女こどもによばれゐたりけり

                           嶺 治雄

蠣割、牡蠣打ちとは牡蠣殻から牡蠣の身を取り出す作業である。牡蠣割女(かきわりめ)は郵便夫などとともに、男女を誇張した呼び名を避ける昨今の風潮には適さないと切り捨てようとされている言葉のひとつだ。しかし、牡蠣割には男が海に出て得た糧を、女が手仕事で支えていた時代のノスタルジーとエネルギーがあり、捨てがたい情緒が漂う。寒風、波の音、黙々と小刀を使って牡蠣を剥く。現在の清潔な作業場においても、俳人はそこになにかを見ようとし、目を凝らし耳を澄まし、江戸時代の其角や支考の句などを去来させつつ、次第に現代から浮遊していく。そして、子どもの声によって、唐突にこの人にも電化製品に囲まれたごく普通の生活があったのだと気づくのだ。牡蠣割女が振り向くとき、そこには時代を超えてただただ優しい母の顔があるのだろう。〈鳥雲に人はどこかですれちがふ〉〈夏痩せの腕より時計外しけり〉〈犬小屋に眠れる猫や春近し〉『恩寵』(2012)所収。(土肥あき子)


November 14112012

 障子貼る女片袖くはへつつ

                           尾崎一雄

子は冬の季語だが、「障子洗ふ」「障子貼る」になると秋の季語であることは、俳人ならば先刻ご存知のこと。たしかに「洗ふ」も「貼る」も、冬に備えての障子の準備作業である。古くなって色の変わった、あるいは破れができた障子を洗って除き、真新しい障子を貼る作業を経て、その家はいよいよ冬をむかえることになる。障子貼りは力仕事ではなくて細やかさが求められるから、たいがいは女性の仕事であった。女性が襷がけで甲斐甲斐しく立ち働いているわけだが、掲句の女性は襷をしていなかったから、作業の邪魔になる着物の袖を口にくわえている、という図であろう。「片袖くはへつつ」は日本画にありそうな姿がとてもしなやかだし、この女性のテキパキした動きも見えてくる。一雄らしい細やかな観察である。そう言えば、私は中学生のころ家でよく障子貼りをさせられた。古い障子をこの時とばかり、ブスブスでたらめに破ったうえではがすのが愉快だった。けれどもフノリを多からず少なからず桟に塗って、丸まった障子紙をきちんと貼っていく作業には神経をつかった。障子には「明かり障子」「衝立障子」「襖障子」などの種類があるという。現在の障子は「明かり障子」のこととされる。一雄には他に「木枯の橋を渡れば他国かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 15112012

 茶の花やぱたりと暮るる小学校

                           喜田進次

の花は小さな白い花。歳時記によると新たに出来る梢の葉の脇に二つ、三つ咲き出るようだ。「茶の花のとぼしきままに愛でにけり」という松本たかしの句にあるように、生い茂った緑にぽつりぽつりと顔を見せる奥ゆかしさと馥郁とした匂いを好む俳人は多い。今まで歓声をあげて駆け回っていた子どもたちも下校してすっかり静かになった小学校がとっぷり暮れてゆく。「ぱたりと」という表現が突然途絶える賑わいと日の暮れようの両方にかかっている。秋の日は釣瓶落としというけど昼ごろの学校の賑わいと対照的なだけによけい寂しく感じられるのだろう。茶の花の持つ静かで侘びしいたたずまいが小学校の取り合わせによく効いている。『進次』(2012)所収。(三宅やよい)


November 16112012

 頸捩る白鳥に畏怖ダリ嫌ひ

                           佐藤鬼房

家や音楽家、詩人、小説家など芸術家の名前を用いる句は多い。その作家の一般的な特徴を通念として踏まえてそれに合うように詠うパターンが多い。例えば桜桃忌なら放蕩無頼のイメージか、はにかむ感じか、没落の名家のイメージか。そんなのはもう見飽きたな。「ダリ嫌ひ」は新しい。嫌ひな対象を挙げたところが新しいのだ。「ダリ嫌ひ」であることで何がわかるだろう。奇矯が嫌いなんだ鬼房はと思う。頸を捩る白鳥の視覚的風景だけで十分にシュールだ。この上何を奇矯に走ることがあろうか。現実を良く見なさい。ダリ以上にシュールではありませんか。鬼房はそういっている。『半迦坐』(1989)所収。(今井 聖)


November 17112012

 さざんくわや明日には明日を悦べる

                           小池康生

茶花のひたすらな咲きぶりはよく句になっているし、この花を見れば丸く散り敷いている地面に目が行く。とにかく咲き続け散り続ける花、椿に似ているが散り方が違う、そしてどこか椿より物寂しい花。ただ、山茶花とはこういうものだ、という概念を頭に置きながらいくらじっと見続けても、なかなか「観る」には至らないだろう。この句の作者は山茶花の前に立ち、その姿を見ながらこの花の存在を無心で感じとって、何が心に生まれるか、じっと待っていた気がする。咲く、そして散る。それは昨日も今日も明日も、冷たくなってゆく風の中で淡々と続き、今日には今日の、明日には明日の、山茶花の姿がある。悦べる、ににじむ幸せは、生きていることを慈しむ気持ちでもあり、やわらかい心に生まれた一句と思う。『旧の渚』(2012)所収。(今井肖子)


November 18112012

 犬より荒き少年の息冬すみれ

                           鍵和田秞子

七五の荒い息づかいが、冬すみれにふりかかっています。動物の吐く息を、冬すみれが浄化しているようです。朝か、夕方か、犬と少年か、少年だけか。犬と少年が、全速力で走って走って二筋の吐く息が冬すみれにかかっている。それは、紫に白い二筋の雲が流れているように情景的です。もう一つ。少年だけならば、走って走って走り抜いて、一頭の犬以上になって荒く深く濃い息を冬すみれの紫に吐いている。これもありえます。犬と少年を読みとる人、少年だけを読みとる人、それぞれですが、作者はどうなのでしょう。犬と少年の世界なら親和的ですし、少年だけなら、この少年は、ヒトであることを突き抜けて生き物としての息を冬すみれに乞うている姿のようにも見えてきます。走って走って走り尽くすと、腹がへる前に息が足りなくなる。冬すみれの紫を、動物に息を与える植物の象徴として読むと、そのたたずまいのけなげさがいとおしくなります。「四季花ごよみ・冬」(1988・講談社)所載。(小笠原高志)

お断り】作者名、正しくは「禾(のぎへん)」に「由」です。


November 19112012

 夕日いま忘れられたる手袋に

                           林 誠司

ういうセンチメンタルな句も、たまにはいいな。忘れられている手袋は、革製やレースの大人用のものではない。毛糸で編まれて紐でつながっているような子ども用のそれだろう。どうして、そう思えるのか。あるいは思ってしまうのか。このことは、俳句という文芸を考えるうえで、大きな問題を孕んでいる。つまり俳句はこのときに、どういう手袋であるのが句に落ち着くのか、情景的にサマになるのかを、どんなときにも問うてくる。要するに、読者の想像力にまかせてしまう部分を残しておくのだ。だからむろん、この手袋を大人用のそれだと思う読者がいても、いっこうに構わない。構わないけれど、そう解釈すると、「夕日いま」という配剤の効果はどこにどう出てくるのか。「いま」は冬の日暮れ時である。忘れたことにたとえ気がついても、子どもだと取りに戻るには遅すぎる。すぐに真っ暗になってしまう。そういう「いま」だと思うからこそ、そこにセンチメンタルな情感が湧いてくる。赤い夕日が、ことさら目に沁みてくるのである。『退屈王』(2011)所収。(清水哲男)


November 20112012

 二の酉を紅絹一枚や蛇をんな

                           太田うさぎ

日は二の酉。一年の無事に感謝し、来る年の幸を願うという。関東は酉の市のおとりさま、関西はえびす講のおいべっさんが馴染みだが、どちらも年末に向かっていることを実感するにぎやかな行事である。祭りや縁日を巡業する見世物小屋は、全盛期には全国で300軒にものぼったというが、現在は1軒のみという。仮設の小屋での摩訶不思議な世界は、テレビなどが普及する以前の大衆娯楽として幅広く受け入れられていた。以前、鬼子母神にも見世物小屋が掛かったことがある。小心者のわたしは結局入れなかったが、流れてくる口上と顔見せでじゅうぶん足がすくんだ。紅絹の長襦袢でしなしなと揺れるその人を「好きで食べるのか、病で食べるのか、人として人と交わることができないのか」と紹介する。蛇女は決して声を出さない。それは生身の人間であることを拒絶しているように。「雷魚」(2012年4月・90号)所載。(土肥あき子)


November 21112012

 冬の田のすつかり雨となりにけり

                           五所平之助

植直前の苗が初々しく育った田、稲が青々と成長した田、黄金の稲穂が波打つ田、稲が刈り取られていちめん雪に覆われた田ーー四季それぞれに表情が変わる田んぼは、風景として眺めているぶんにはきれいである。しかし、子どものころから田んぼ仕事を手伝わされた私の経験から言うと、きれいどころか実際はとても骨が折れて決してラクではなかった。平之助は雨の日に通りがかりの冬の田を、道路から眺めているのだろう。似た風景でも「刈田」だと秋の季語だが、今やその時季を過ぎて、稲株も腐りつつある広い田園地帯に降る冬の冷たい雨を、ただ呆然と眺めている。見渡しても田に人影はなく、鳥の姿も見えていない。それでなくとも何事もなく、ただ寂しいだけの殺風景な田園を前にして、隈なく「すつかり」ただただ雨である。ここでは「冬田つづきに磊落の家ひとつ」(友岡子郷)の「家」も見えていなければ、「家康公逃げ廻りたる冬田かな」(富安風生)の「家康公」の影も見えていない。ただ荒寥とした田んぼと雨だけである。詠み手の心は虚ろなのかもしれないとさえ思われてくる。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


November 22112012

 冬桜化粧の下は洪水なり

                           渋川京子

桜は文字通り冬に咲く桜。一重で白っぽい色をしている。春先に一斉に花開くソメイヨシノと違いいかにも寂しそうである。冬桜は12月ごろから翌年の1月にかけて咲く花。と歳時記にある。二度咲きの変種ではなくわざわざ寒さの厳しくなる冬に開花するのは人間が自らの楽しみのため人為的に作り出したものだろう。化粧で華やかに装った顔の下に激しく感情の動揺が隠されているのだろうか。化粧で押し隠された思いが「冬桜」に形を変えて託されていると考えられる。「今日ありと思ふ余命の冬桜」中村苑子の句なども「冬桜」のはかなさに自分の在り方を重ねて詠んでいるのだろう。作中主体が作者であると必ずしも言えないが自らの感情を託すのだから、私小説的作り方とも言えよう。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


November 23112012

 珊太郎来てすぐ征くや寒に入る

                           加藤楸邨

澤珊太郎始めて来訪、の前書きがある。珊太郎は兜太の親友。楸邨宅には金子兜太が伴ってきたのだろう。兜太は熊谷中学を卒業したあと、昭和十二年に水戸高校文科に入学。一年先輩に珊太郎が居て誘われるままに校内句会に出たのが俳句との機縁である。その折作った「白梅や老子無心の旅に住む」が兜太初の句。珊太郎は作家星新一の異母兄。水戸高校俳句会を創設し、竹下しづの女と中村草田男の指導による「成層圏句会」の会員となりその後草田男の「萬緑」の立ち上げに関った。その後兜太たちと同人俳誌『青銅』を発刊。三十七年には『海程』創刊に発行人として参加。晩年は『すずかけ』の主宰者として活動した。この年、珊太郎二十五歳。兜太二十四歳。楸邨三十六歳。同じ号に「寒雷野球部第一回戦の記」と題して、寒雷軍(楸邨主将)対東京高師野球部(二軍)の対戦が府立八中の運動場で行われ寒雷軍が四対三で勝ったことが載っている。みんな若かった。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)


November 24112012

 百の鴨集まる何も決まらざる

                           大島雄作

春日の池のほとりでぼんやりしているのは気持ちがよい。しかしただの日向ぼこりに終わってしまってはやはりいけないか、と鴨の陣に近づいてしばらく見ていると、時々仲間から離れてすねているように見えるのがいたり、大勢で一羽をいじめているように見えたりする。しかしもう少し寒くなると、凩の道を避けた日溜りに、みんなで上手に陣を張って浮き寝している鴨。あのふっくらした姿からは想像もつかないほどの過酷な旅をして生き抜いてきた彼等に、特にリーダーはいないという。鴨の池がありありと見える掲出句だが、すねるのも、いじめるのも、群れれば序列ができて集まっても何も決まらないのも、愚かなヒトの次元の話なのだろう。『大島雄作集』(2012)所収。(今井肖子)


November 25112012

 海暮れて鴨のこゑほのかに白し

                           松尾芭蕉

享元年(1684)旧十二月中旬。『野ざらし紀行』の旅中、尾張熱田の門人たちと冬の海を見ようと舟を出した時の句です。この句の評釈をいくつか読んできた中に、『「鴨の声が白い」と、音を色彩で表現しているところに新しさがある』という考察があります。現在注目されている視覚と聴覚の共感覚を援用する考え方もあり、ナルホド、と一応理解はできるのですが腑に落ちません。まず、「鴨の声が白い」ということがわかりませんし、そう解釈するなら、中句と下句が主語と述語の関係になり、五・五・七の破格が凡庸になります。むしろ、五・五・七には必然性があり、舟を出して詠んでいるその実情に即して読みたいです。「海暮れてほのかに白し鴨のこゑ」ではなく、「海暮れて鴨のこゑほのかに白し」にした理由は、時系列の必然性にあるのではないでしょうか。港から舟をこぎ出すほどにだんだん海は暮れてきて、遠方は闇の中に沈んでゆく。すると、沖の方から鴨の声が聞こえてきた。その声の主の方を凝視していると、暗闇に目が慣れてきて、「ほのかに」白いものが見える。あれは、翼か雲か幽かな光か。「こゑ」を聞いたあとに、しばらく目が慣れるための時間が必要であり、目で音源を探っている、その、時の経過を形容動詞「ほのかに」で示しているように思います。このように読むと、嘱目の句であり、五・五・七の破格にも必然性が出てくると思うのですがいかがでしょうか。なお、世阿弥は『花鏡』の中で、「幽玄」とは、藤原定家の「駒止めて袖打ち払ふ陰も無し佐野の渡の雪の夕暮」にあると説いています。この歌には「幽玄」の三要素が描かれているように思われます。それは、輪郭が曖昧で、奥行きのある、白黒の世界ということです。雪が降っている夕暮れなので色彩は白黒で輪郭が曖昧になり、川の渡しですから奥行きもあります。掲句の芭蕉は、幽玄という中世の美意識を念頭に置いていたかどうか、定かではありません。それでも、「海暮れて鴨のこゑほのかに白し」は、奥行きのある輪郭が曖昧な白黒の世界を、鴨の声が気づかせてくれています。『芭蕉全句集』(講談社)所収。(小笠原高志)


November 26112012

 葱提げて急くことのなく急きゐたり

                           山尾玉藻

活習慣というか習い性というものは、一度身についたら、なかなか離れてはくれない。作者は、いつものように夕餉のために葱などを買い、少し暗くなりかけた道をいつものように急ぎ足で家路をたどっている。が、本当はべつに急ぐことはないのである。夕食を共にする人はいないのだから、自分の都合の良い時間に支度をすればよいのだ。なのに、つい腹を空かせた人が待っている頃の感覚のほうが優先してしまい、べつに急(せ)くこともないのに急いている自分に苦笑してしまっている。場面は違うとしても、この種のことに思い当たる人は少なくないだろう。この句からだけではこれくらいのことしか読めないが、実は作者の夫君(俳人・岡本高明氏)がこの夏に亡くなったことを知っている読者には、この苦笑を単なる苦笑の域にとどまらせてはおけない気持ちになる。苦笑の奥に、喪失感から来る悲哀の情が濃く浮き上がってくる。岡本高明氏の句に「とろろ汁すすり泪すことのあり」があるが、作者の別の句には「葱雑炊なんぞに涙することも」がある。「俳句界」(2012年12月号)所載。(清水哲男)


November 27112012

 冬眠の蛙や頭寄せ合うて

                           榎本 享

京でも最低気温が10度を下回る日が続くようになり、そろそろ蛙は冬眠に入る頃だ。ウサギやリスなどぬくぬくと群れて冬眠するように思っていたが、蛙は単体で穴に寝ているイメージがあった。枯れきった花の根を掘りていると、冬眠中らしき蛙と遭遇したことがあるが、むっつりと迷惑そうにうずくまる姿には孤高の雰囲気すら漂っていた。しかし、調べてみると、実際には同じ場所で冬眠を過ごす蛙もいるようだ。よく知られた蛙の本アーノルド・ローベルの『ふたりはともだち』は、ひと足早く目覚めたかえるくんが、がまくんを起こしに行く場面から始まる。両手両足を持つ擬人化がたやすい生きものだからこそ、冬眠中の姿が容易に思い描けなかった。掲句と事実を知ったことで、どこかでひしめき合って春を待つ蛙の家族もいるのだろうと、ほほえましくなった。ところで、このたび蛙の冬眠を調べていてもっとも驚いた記事。「蛙は意外と丈夫で、一度や二度凍らせてしまっても生きていますから、あわててお湯をかけたりしないでください。氷が解ければなにごともなかったように冬眠の続きに入りますので心配いりません」(信州根羽村茶臼高原「カエル館」カエルの質問Q&Aより)。意外と丈夫どころじゃありません……。〈足袋替へに入りし部屋の暗さかな〉〈初猟の湯呑を置きて発ちゆけり〉〈さみしいといふ子ねむらせ藤の花〉『おはやう』(2012)所収。(土肥あき子)


November 28112012

 そぞろ寒仕事あり?なし?ニューヨーカー

                           長尾みのる

年九月現在のアメリカの失業率は7.8%だった。日本の約2倍で、相変わらず高い。「そぞろ寒」は秋の季語だけれど、ニューヨークのこの時季は寒さがとても厳しくなる。十数年前、十二月のニューヨークに出かけたとき、マンハッタンの道路では、地下のあちこちから湯気が煙のように白く噴き上げ、街角にはホームレスがたむろしていた。新聞のトップには、「COLD WAR」という意味深な文字が大きく躍っていた。そのことが忘れられない。掲句は冬を目前にして、仕事にありつけないでいるだろうニューヨーカーに思いを致しているのだ。みのるは「POP haiku」と題して、サキソホンを持ってダウンタウンの古いアパートメントに腰を下ろしている、若いニューヨーカーの姿を自筆イラストで大きく描いて句に添えている。私はすぐに十数年前のニューヨーク市街の光景を思い出した。現在はどうなのか? かつて海外放浪をしたみのるが心を痛め、ニューヨークに寄せる思いの一句であろう。彼は1953年に貨物船でアメリカに第一歩を踏んで、三年間に及ぶ世界一周の旅をしたという。「戦勝国なのにボロ着の失業者風の人々を沢山見て夢が弾けそうになった」と記している。俳句の翻訳も多く、「国際俳句ロシア語句会」のメンバーでもある。「慌ててもハナミズキ散るニューヨーク」の句もならんでいる。「俳句四季」2012年11月号所載。(八木忠栄)


November 29112012

 鯛焼の余熱大江戸線を出る

                           川嶋隆史

つあつの鯛焼の袋を抱える楽しみはやはり寒くなってくると一段とうれしく感じられる。吉祥寺のハーモニカ横丁にある鯛焼はびっしりと尾まで餡が詰まっているうえ、餡の甘さもほどほどでとてもおいしい。茶色のハトロン紙に挟んだ鯛焼をほくほく食べながらアーケードを歩いている若いカップルをよく見かける。鯛焼は歩きながら食べるのがいい。さて、揚句では「大江戸線を出る」が句の眼目だろう。大江戸線は他の地下鉄の路線よりよっぽど深く掘ってあるのかなかなか地上にたどりつけない。何回もエレベーターを乗り換え蟻の穴から這い出る具合である。そんな地下鉄から寒い街へ出ると、抱えた鯛焼きの余熱がより暖かく感じられる。「大江戸線」と「鯛焼」の言葉の響き具合もいい。鯛焼には「ぐったりと鯛焼ぬくし春の星」西東三鬼の句があるが、これは鯛焼が生ぬるく、おいしくなさそうだ。やはり鯛焼のぬくみは冬に限る。『知音』(2012)所収。(三宅やよい)


November 30112012

 寒雀瓦斯の火ひとつひとつ點きぬ

                           能村登四郎

四郎31歳の時の句。大学を卒業後昭和14年28歳で「馬酔木」に投句。それから三年後の作品で「寒雷」にも投句していたことがわかる。「寒雷集」二句欄、もう一句は「卒業期もつとも遠き雲の朱」。両方とも若き教師としての生活がうかがわれる作品である。同じ二句欄に森澄雄の名前もある。澄雄の方は「寒天の松暮れてより夕焼くる」「かんがふる頬杖の手のかぢかみて」。ふたりともすでに生涯の傾向の萌芽が明らか。太平洋戦争開戦から三ヶ月。緒戦の勝った勝ったの熱狂の中でこのような素朴な生活感に眼を遣った句が詠まれていたことに瞠目する。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)




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