三鷹市も市民文化祭の季節。俳句大会でものぞいてみようかな。(哲




2012ソスN11ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 04112012

 菊の前去りぬせりふを覚えねば

                           中村伸郎

者・中村伸郎は、舞台・映画・テレビで活躍した俳優です。映画で記憶に残っているのは、小津安二郎監督の『東京物語』で、上京した老夫婦(笠智衆・東山千栄子)をぞんざいに扱う長女(杉村春子)の夫役です。いわゆる髪結いの亭主の役で、老夫婦の長男も長女も仕事に追われて東京見物に連れて行けない中で、夕方になると二人を銭湯に連れていく暇のある役柄で、何を生業にしているのか不明でありながら、たまに集金に出かける用がある。そんな下町の閑人をひょうひょうとした存在感で演じられる役者です。舞台では、渋谷山手教会の地下にあったジャンジャンという芝居小屋で、1980年代、毎週金曜日の午後10時から、イヨネスコの二人芝居『授業』で、老教授役を演じていました。一時間弱の短い舞台の後、拍手を送る観客の表情の奥を覗き込むような老獪な視線を受けた覚えがあり、見られているのはむしろ観客席に座っているこちら側ではないかと、いまだその視線は記憶に残っています。そんなことを思い出しながら掲句を読むと、「花のある役者」というのは、大輪の花ばかりではなく、観る側の記憶に根づいていられることなのではないかとも思えてきます。作者は、日比谷公園か新宿御苑、または、どこかの寺社の境内の菊花展に行き、菊の花に心を奪われそうになったのでしょう。あるいは、「せりふを覚え」ながら晩秋の道を歩いていたときなのかもしれません。いずれにしても、目の前の菊を目の中に入れてはならない決意が、完了・強意の助動詞「ぬ」に込められ、切れています。菊を目の中に入れてしまっては、「せりふ」が入らなくなってしまうからです。俳優・中村伸郎の仕事のほかに、こんな舞台裏のスナップ写真のような俳句があったことを、喜びます。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)


November 03112012

 ゆく秋やふくみて水のやはらかき

                           石橋秀野

起きてまず水をコップ一杯飲むことにしている。ここしばらくは、冷蔵庫で冷やしておいた水を飲んでいたが今朝、蛇口から直接注いで飲んだ。あらためて指先の冷えに気づいて冬が近づいていることを実感したが、中途半端に冷え冷えし始める今頃が一番気が沈む。そんな気分で開いた歳時記にあった掲出句、朝の感覚が蘇った。そうか行く秋か、中途半端で気が沈むなどと勝手な主観である。井戸水なのだろう、口に含んだ瞬間、昨日までとどこか違う気がしたのだ。思ったより冷たく感じなかったのは冷えこんで来たから、という理屈抜きで、ふとした一瞬がなめらかな調べの一句となっている。ひらがなの中の、秋と水、も効果的だ。三十九歳で病没したという作者、『女性俳句集成』(1999・立風書房)には掲出句を挟んで〈ひとり言子は父に似て小六月〉〈朝寒の硯たひらに乾きけり〉とあり、もっと先を見てみたかったとあらためて思う。『図説俳句大歳時記 秋』(1964)所載。(今井肖子)


November 02112012

 終刊の号にも誤植そぞろ寒

                           福田甲子雄

植は到るところに見られる。気をつけていても出てしまう。僕も第一句集の中の句で壊のところを懐と印刷してしまった。その一冊をひらくたび少し悔やまれる。自分の雑誌で投句の選をしているので誤字、脱字、助詞の用法などを直したつもりでいると作者からあとで尋ねられたりする。大新聞と言われる紙面に誤植を見ることはめったにないが、それでもたまに見つけるとなぜかうれしくなる。終刊の号にも誤植がみつかる。誤植は人間がやることの証。業のようなものだ。月刊「俳句」(2012年6月号)所収。(今井 聖)




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