東京では12月16日、知事と衆議院のダブル選挙。投票率低そう。(哲




2012N1115句(前日までの二句を含む)

November 15112012

 茶の花やぱたりと暮るる小学校

                           喜田進次

の花は小さな白い花。歳時記によると新たに出来る梢の葉の脇に二つ、三つ咲き出るようだ。「茶の花のとぼしきままに愛でにけり」という松本たかしの句にあるように、生い茂った緑にぽつりぽつりと顔を見せる奥ゆかしさと馥郁とした匂いを好む俳人は多い。今まで歓声をあげて駆け回っていた子どもたちも下校してすっかり静かになった小学校がとっぷり暮れてゆく。「ぱたりと」という表現が突然途絶える賑わいと日の暮れようの両方にかかっている。秋の日は釣瓶落としというけど昼ごろの学校の賑わいと対照的なだけによけい寂しく感じられるのだろう。茶の花の持つ静かで侘びしいたたずまいが小学校の取り合わせによく効いている。『進次』(2012)所収。(三宅やよい)


November 14112012

 障子貼る女片袖くはへつつ

                           尾崎一雄

子は冬の季語だが、「障子洗ふ」「障子貼る」になると秋の季語であることは、俳人ならば先刻ご存知のこと。たしかに「洗ふ」も「貼る」も、冬に備えての障子の準備作業である。古くなって色の変わった、あるいは破れができた障子を洗って除き、真新しい障子を貼る作業を経て、その家はいよいよ冬をむかえることになる。障子貼りは力仕事ではなくて細やかさが求められるから、たいがいは女性の仕事であった。女性が襷がけで甲斐甲斐しく立ち働いているわけだが、掲句の女性は襷をしていなかったから、作業の邪魔になる着物の袖を口にくわえている、という図であろう。「片袖くはへつつ」は日本画にありそうな姿がとてもしなやかだし、この女性のテキパキした動きも見えてくる。一雄らしい細やかな観察である。そう言えば、私は中学生のころ家でよく障子貼りをさせられた。古い障子をこの時とばかり、ブスブスでたらめに破ったうえではがすのが愉快だった。けれどもフノリを多からず少なからず桟に塗って、丸まった障子紙をきちんと貼っていく作業には神経をつかった。障子には「明かり障子」「衝立障子」「襖障子」などの種類があるという。現在の障子は「明かり障子」のこととされる。一雄には他に「木枯の橋を渡れば他国かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 13112012

 牡蠣割女こどもによばれゐたりけり

                           嶺 治雄

蠣割、牡蠣打ちとは牡蠣殻から牡蠣の身を取り出す作業である。牡蠣割女(かきわりめ)は郵便夫などとともに、男女を誇張した呼び名を避ける昨今の風潮には適さないと切り捨てようとされている言葉のひとつだ。しかし、牡蠣割には男が海に出て得た糧を、女が手仕事で支えていた時代のノスタルジーとエネルギーがあり、捨てがたい情緒が漂う。寒風、波の音、黙々と小刀を使って牡蠣を剥く。現在の清潔な作業場においても、俳人はそこになにかを見ようとし、目を凝らし耳を澄まし、江戸時代の其角や支考の句などを去来させつつ、次第に現代から浮遊していく。そして、子どもの声によって、唐突にこの人にも電化製品に囲まれたごく普通の生活があったのだと気づくのだ。牡蠣割女が振り向くとき、そこには時代を超えてただただ優しい母の顔があるのだろう。〈鳥雲に人はどこかですれちがふ〉〈夏痩せの腕より時計外しけり〉〈犬小屋に眠れる猫や春近し〉『恩寵』(2012)所収。(土肥あき子)




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