衆院解散。今日も議員連中は「ばんざい」と叫ぶのかな。意味不明。(哲




2012ソスN11ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 16112012

 頸捩る白鳥に畏怖ダリ嫌ひ

                           佐藤鬼房

家や音楽家、詩人、小説家など芸術家の名前を用いる句は多い。その作家の一般的な特徴を通念として踏まえてそれに合うように詠うパターンが多い。例えば桜桃忌なら放蕩無頼のイメージか、はにかむ感じか、没落の名家のイメージか。そんなのはもう見飽きたな。「ダリ嫌ひ」は新しい。嫌ひな対象を挙げたところが新しいのだ。「ダリ嫌ひ」であることで何がわかるだろう。奇矯が嫌いなんだ鬼房はと思う。頸を捩る白鳥の視覚的風景だけで十分にシュールだ。この上何を奇矯に走ることがあろうか。現実を良く見なさい。ダリ以上にシュールではありませんか。鬼房はそういっている。『半迦坐』(1989)所収。(今井 聖)


November 15112012

 茶の花やぱたりと暮るる小学校

                           喜田進次

の花は小さな白い花。歳時記によると新たに出来る梢の葉の脇に二つ、三つ咲き出るようだ。「茶の花のとぼしきままに愛でにけり」という松本たかしの句にあるように、生い茂った緑にぽつりぽつりと顔を見せる奥ゆかしさと馥郁とした匂いを好む俳人は多い。今まで歓声をあげて駆け回っていた子どもたちも下校してすっかり静かになった小学校がとっぷり暮れてゆく。「ぱたりと」という表現が突然途絶える賑わいと日の暮れようの両方にかかっている。秋の日は釣瓶落としというけど昼ごろの学校の賑わいと対照的なだけによけい寂しく感じられるのだろう。茶の花の持つ静かで侘びしいたたずまいが小学校の取り合わせによく効いている。『進次』(2012)所収。(三宅やよい)


November 14112012

 障子貼る女片袖くはへつつ

                           尾崎一雄

子は冬の季語だが、「障子洗ふ」「障子貼る」になると秋の季語であることは、俳人ならば先刻ご存知のこと。たしかに「洗ふ」も「貼る」も、冬に備えての障子の準備作業である。古くなって色の変わった、あるいは破れができた障子を洗って除き、真新しい障子を貼る作業を経て、その家はいよいよ冬をむかえることになる。障子貼りは力仕事ではなくて細やかさが求められるから、たいがいは女性の仕事であった。女性が襷がけで甲斐甲斐しく立ち働いているわけだが、掲句の女性は襷をしていなかったから、作業の邪魔になる着物の袖を口にくわえている、という図であろう。「片袖くはへつつ」は日本画にありそうな姿がとてもしなやかだし、この女性のテキパキした動きも見えてくる。一雄らしい細やかな観察である。そう言えば、私は中学生のころ家でよく障子貼りをさせられた。古い障子をこの時とばかり、ブスブスでたらめに破ったうえではがすのが愉快だった。けれどもフノリを多からず少なからず桟に塗って、丸まった障子紙をきちんと貼っていく作業には神経をつかった。障子には「明かり障子」「衝立障子」「襖障子」などの種類があるという。現在の障子は「明かり障子」のこととされる。一雄には他に「木枯の橋を渡れば他国かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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