2012N12句

December 01122012

 冬薔薇を揺らしてゐたり未婚の指

                           日下野由季

の薔薇が真紅の大輪の薔薇だとすれば、未婚の指、には凛とした意志の強さが感じられる。やや紅を帯びた淡く静かな一輪だとすれば、その花にふれるともなくふれた自らの左手に視線を向けた作者の、仄かな心のゆらめきや迷いのようなものが感じられる。二十代後半の同年の作に〈降る雪のほのかに青し逢はざる日〉とある。雪を見つめ続けている作者の中に、逢いたい気持ちと共にひたすらほの青い雪が降り積もってゆくようだ。そう考えると、雪のように清らかな白薔薇なのかもしれない、と思ったりもするが、いずれにしても掲出句の、未婚の指、にはっとさせられ、冬の澄んだ気配がその余韻を深めている。『祈りの天』(2007)所収。(今井肖子)


December 02122012

 煮凝や今に知らざる妻の齢

                           森川暁水

本中、いや世界中の夫婦にアンケートをとってみましょう。「あなたの配偶者に隠している秘密はありますか?」と。99%がYesでしょう。秘密とは何かというと、言わないから秘密になるわけです。大したことではないから言わない場合がほとんどですが、言いたくないこと、言ってはいけないこと、知られたくないこと、この順番で秘密はだんだん深まってきて、二人の間の溝ができていきます。場合によっては、かつての「金妻」のように、はじめは麦のようだった妻が毒になってしまう悲劇も生じます。麦、妻、毒。私はこの三文字をよく書き間違えます。(オトコ目線ですみません。)さて、掲句の秘密は「妻の齢」です。笑っちゃいます。暁水さん、結婚する前に、齢を聞かなかったのですか? 尋ね忘れたとして、納税の申告書には配偶者の年齢を記入する欄があり、健康保険証にもあるではないですか。もしかしたら暁水さんは近代以前の方ですか? ここで、生年を調べたところ、1901年生まれとありました。話は少しそれ、私事になりますが、1900年生まれの祖父が、祖母の葬式の日、「今まで母さん(祖母)は俺より一つ年下だと言っていたが、本当は一つ年上だったのだ。」と告白しました。結婚以来五十数年間、夫より一歩下がってついていく妻を夫婦そろって演出していたのでした。しかし、暁水さん、あなたの場合はこれとは違います。ロマンティックに考えれば、あなたの方が「妻の齢」をわすれている。いや忘れているのではなく、出会ったときの齢のままである。男の場合は、これが稀にあります。しかし、暁水さん、もっと現実に目を向けましょう。あなたは、税の申告も健康保険の手続きも、全て妻任せに頼り切っていたから、年齢記入欄を見ないで済んできた人生だったのではないでしょうか? そして、そのようなあり方を尻に敷かれた状態と言うのだと思いますが間違っているでしょうか? 二人は、経済的にご苦労して生きてこられたと伺っております。長い時間の間に、二人の関係は「冷え」てもきたでしょう。しかしそれは、ツンドラ状態の夫婦の冷えではなく、冷やかな舌ざわりにうまみを凝縮した、煮凝(にこごり)の形を作る上品な冷えです。二人はつつましやかな生活の中で、品よく冷えています。他に「煮凝や親の代よりふしあわせ」。『現代俳句歳時記・冬』(学研)所載。(小笠原高志)


December 03122012

 踏台に乗ること多し年の暮

                           田中太津子

われてみれば、ずばりその通りだ。普段から気になってはいるものの、高いところのものの整理や掃除は、つい億劫でそのままにしてしまう。だが、年の暮ともなると、意を決して踏台に乗るのだが、これが一度手をつけはじめると、なかなか終わらない。あちらの高いところ、こちらの高いところと、踏台を引きずって歩き回ることになる。まさに「年の暮」ならではの行動だ。この句を読んで、すぐに取り換えるべき我が家の蛍光灯を思い出した。もう十年ほど前のことになるだろうか。実家に行ってみると、玄関先の電球が切れていて、やけに暗い。そのことを八十歳を過ぎた母に言ったら、踏台に上がれなくなり交換できないということだったので、私が何の苦もなく付け替えた。老いるとは、たとえば踏台を使えなくなるということか。そのときはふっとそんなことを思ったのだったが、近年はとうとうこちらにお鉢が回ってきてしまった。先日、それこそ電球を交換しようと踏台に上ったら、腰から崩れて踏台ごと転倒する羽目に…。さて、年の暮だ。あの蛍光灯をどうすればよかんべえか。『星の音』(2012)所収。(清水哲男)


December 04122012

 初雪や積木を三つ積めば家

                           片山由美子

年の初雪の知らせは北海道では記録的に遅いとされる11月18日。これから長い雪の日々となるが、「初」の文字は苦労や困難を超えて、今年も季節が巡ってきた喜びを感じさせる。雪の季節になれば、子どもの遊びも屋外から室内へと移動する。現代のように個室が確立してなかった時代には、大人も子どもも茶の間で多くの時間を費やしていた。あやとり、お手玉、おはじき、塗り絵など、どれも大人の邪魔にならないおとなしい室内の遊びを家庭は育んできた。掲句の積み木にも、家族の目が届くあたたかい居間の空気をまとっている。おそらくそれはふたつの四角の上に三角を慎重に乗せたかたち。四角柱は車になったり、円柱は人間になったりもする。人は誰にも教わることなく見立てをやってのけるのだ。初雪の静けさにふっくらとした幼な子の手の動きが美しい。『香雨』(2012)所収。(土肥あき子)


December 05122012

 シーソーの向ひに冬の空乗せて

                           荻原裕幸

しいスタイルのシーソーがあるようだが、原理は同じ。今どきの子どもは果たしてシーソーなどで、楽しがって遊ぶだろうか。シーソー、なわとび、ブランコ、かくれんぼーーこういう遊びを失ったのが、今どきの子どものように思われる。「カワイソーに」などと思うのは私の勝手。シーソーは「ぎっこんばったん」とも「ぎったんばっこん」とも呼ばれ、以前はどんな貧弱な公園にもたいてい設置されていた。私も幼い子どもとシーソーで遊んだ頃は、足で跳ねあがってバランスをとったり、向こうに子どもを二人乗せてバランスをとろうとしたり、やれやれ親というものも結構せつないものだったなあ。掲句は向かいに「冬の空」が乗っている。それはいったいどんな「冬の空」なのか。寒さ厳しい冬とは言え、句にはどこかしら微笑ましい動きがにじんでいる。向かいに乗った「冬の空」の重さと自分の重さ、それによって、冬の寒さは厳しかったりゆるかったりしているのだろう。このシーソーのバランスが、あれこれと想像をかきたてるあたりが憎いし、スリリングである。裕幸は《わたしを遮断するための五十句》と題して一挙に発表している。他に「晩秋のシャチハタ少し斜に捺す」「広告にくるめば葱が何か言ふ」と、自在な句がならぶ。「イリプスII nd」10号(2012.11)所載。(八木忠栄)


December 06122012

 おはやうと言はれて言うて寒きこと

                           榎本 享

村草田男に「響爽かいただきますといふ言葉」がある。厳しい暑さが過ぎて回復してくる食欲、「いただきます」という言葉はいかにも秋の爽かな大気にふさわしい。そんな風に普段何気なく使っている挨拶言葉に似合いの季節を考えてみると、「おはよう」と声を掛け合うのは、きりっと寒い冬の戸外が似つかわしい。「冬はつとめて」と清少納言が言っているとおり、冬を感じさせる一番の時間帯は早朝なのだ。冷えきった朝の大気に息白く、「おはよう」「おはよう」と挨拶を交す。そのあとに続く「寒きこと」は、手をこすり合わせながら自分の中で呟くひとり言なのかも。冷たい空気は身を切るようだが、互いにかけあう「おはやう」の言葉の響きは暖かい。校門に立っている先生が登校してくる生徒に掛ける「おはよう」辻の角で待ち合わせた友達と交わす「おはよう」ガラガラと店を開け始めた人に近所の人が声をかける「おはよう」さまざまなシーンを想像して寒い朝に引き立つこの言葉の響きを楽しんでいる。『おはやう』(2012)所収。(三宅やよい)


December 07122012

 ふるさとの氷柱太しやまたいつ見む

                           安東次男

の号の楸邨選の巻頭句。居住地の欄に「軍艦〇〇」と伏字のある記載。三席の青池秀二は「〇〇部隊」となっている。機密事項だったのだ。次男は現在の岡山県津山市生れ。鳥取県との県境にある城下町である。山に囲まれた盆地で近くにはスキー場なども多く寒気は厳しい。海軍兵役を務めた次男は艦上でふるさとの氷柱に思いを馳せている。ミッドウエーで空母の大半を失った日本海軍はオーストラリアの北方にあるカダルカナル島を次の攻勢拠点として占領、飛行場を建設して制空権の確保を目指したが惨敗。その周辺のソロモン海の海戦でも敗走を繰り返した。そんな時期の軍艦〇〇上の感慨である。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


December 08122012

 枯木立ごしに電車の黄色かな

                           小沢薮柑子

の枯れ色の重なる先を、黄色い電車が通り過ぎてゆく。それだけの景なのだが、黄色かな、の措辞がおもしろくちょっととぼけたような印象もある。電車が走っているのは枯木立の続く向こう、やや遠くなのだろう。歩いていると動く物が視界に入り、あ、電車だ、と立ち止まる。色彩の乏しくなってきた風景の中、電車の黄色は冬日に明るさを増し、青空の下でまぶしく見えている。掲出句のある句集『商船旗』(2012)には、黄色かな、の句が〈えにしだの撒き散らしたる黄色かな〉〈無造作の反魂草の黄色かな〉と二句ある。花の黄色と電車の黄色、強い切れである、かな、の印象の違いをあらためて感じさせられた。(今井肖子)


December 09122012

 寒の月川風岩をけづるかな

                           三浦樗良

景の句です。絵画的に読むなら、遠景の寒の月は、くっきり皓皓と描かれていて、中景の川風が、空間と流れをつくり、近景の岩は、量感を出しています。日本の絵画の特徴は、一点から風景を見定める遠近法よりも、個々の画題(モチーフ)に視点を置いて、じっくり眺めつくして描写するところにあります。空間的な遠近感によって風景に序列をつけるのではなく、画題一つ一つが公平なまなざしでとらえられていて、これはたぶん、幾何学的な方法からうまれた西洋絵画の遠近法とはまったく違ったものの見方を示していることになるのでしょう。掲句は、「花鳥風月」の中の生き物の要素を排して、一見、冬の荒涼とした寂寥感を漂わせています。それでも、ここには、川風が岩をけづる音に耳を傾け、冬を愉しむ作者のありようが感じられます。「寒の月」の静から、「川風岩をけづる」動へと句はうごき、皓皓とした光から、岩がけづれる噪音を冬の音楽として愉しんでいる様を読みます。ここにも、西洋音楽が楽音=音符を傾聴してきたのとは違った、閑寂の中に風物のささやかな音をとらえる日本の耳が示されているように思われます。作者樗良(ちょら)は、蕪村と親交があり、安永年間(1775年頃)、京都に定住したと伝えています。『近世俳句俳文集』(小学館)所載。(小笠原高志)


December 10122012

 風呂吹や曾て練馬に雪の不二

                           水原秋桜子

うもこの作者は、一句を美々しい絵のように仕立てるのが趣味のようだ。それが悪いというのではないが、私の口にはあまりあわない。この句の勝負どころは、風呂吹(大根)から大根の産地として有名な練馬を連想するところまでは通俗的でどうということはないけれど、後半に何を配するかにかかってくる。私なら通俗ついでに「恋ひとつ」とでもやりたいところだが、秋桜子は大根の白さを「不二(富士)」にまで押し通したつもりか、曾て(かつて)は見えていた雪化粧の富士山を据えている。ここで私には富士山よりも、作者の「どうだ」といわんばかりの顔までが見えるようで鼻白んでしまう。駄句とまでは言わないが、これではせっかくの風呂吹にまつわる人間臭さが飛んでしまっている。つまり、せっかくの風呂吹の味がどこかに失せているのだ。美々しい絵はそれなりに嫌いではないけれど、私は人間臭さの出ている絵のほうが、どうもよほど好きなようである。蟇目良雨『平成 食の歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


December 11122012

 世の中は夕飯時や石蕗の花

                           篠原嬉々

と「時分どき」という言葉を懐かしく思い出した。お隣に回覧板を回すのも、友人に電話をするのも「時分どきだから失礼になる」などと使っていた。広辞苑では「ころあいの時。特に食事の時刻についていう」とあるが、現在ではあまり使われていないようだ。時分は朝昼夕の区別がないが、掲句は夕飯時とある以上、午後6時〜8時くらいの間だろうか。冬の日はすっかり落ち、それぞれの家の夕飯の匂いやにぎわいを漂わせている頃である。気ままな一人者を気取っていた時代には、なんとなく疎外感を覚え世間様にほんの少し拗ねてみたくなる時間帯だった。掲句は「世の中」と大げさに切り取ったことで、自身の嘆きをまたさらに眺めているような距離感が生まれ、深刻さを遠ざけた。それでも、路地に咲く石蕗の黄色が今日はやけに目にしみる。〈しばらくは流るる顔になりて鴨〉〈年の市より鳥籠を提げ来たる〉『踊子』(2012)所収。(土肥あき子)


December 12122012

 貰ひ湯の礼に提げゆく葱一把

                           伊藤桂一

はすっかり見られなくなったようだけれど、以前は「貰い湯」という風習があった。やかんやポットのお湯をいただきに行くのではなく、「もらい風呂」である。私も子どもの頃、親に連れられて近所の親戚へ「もらい」に行った経験が何回かあるし、逆に親戚の者が「もらい」にやってきたこともある。そんなとき親たちはお茶を飲みながら世間話をしているが、子供はそこのうちの子と、公然としばし夜遊びができるのがうれしかった。掲句は農家であろうか、手ぶらで行くのは気がひけるから、台所にあった葱を提げて行くというのである。とりあえず油揚げを三枚ほど持ってとか、果物を少し持って、ということもあった。葱を提げて行くという姿が目に見えるようだ。そこには文字通り温まるコミュニケーションが成立していた。桂一は九十五歳。作家や詩人たちの会の集まりに今もマメに出席されていて、高齢を微塵も感じさせない人である。京都の落柿舎の庵主をつとめるなど、長いこと俳句ともかかわってきた人であり、長年にわたって書かれた俳句が一冊にまとめられた。他に「日照り雨(そばえ)降る毎にこの世はよみがへる」「霜晴れて葱みな露を誕みゐたり」などがある。『日照り雨』(2012)所収。(八木忠栄)


December 13122012

 ジーンズに雲の斑のある暖炉かな

                           興梠 隆

の昔、ぱちぱちと燃え上がる暖炉の火を前に寝転んで本を読む。そんなスタイルにあこがれた。薪をくべるという行為はせせこましい都会暮らしでは考えられない贅沢だが、雪深い山荘や北海道あたりでは現役で働いている「暖炉」があることだろう。その暖炉にところどころ白く色の抜けたジーンズが干してある。水色のジーンズに白く抜けた部分を「雲の斑」と表現したことで、句のイメージが空全体へ広がってゆくようで素敵だ。知的な見立てに終わってしまいがちな比喩が豊かな世界への回路になっている。ここから思い出すのは高橋順子さんの「ジーンズ」の詩の一節「このジーンズは/川のほとりに立っていたこともあるし/明けがたの石段に座っていたこともある/瑠璃色が好きなジーンズだ/だから乾いたら/また遊びにつれていってくれるさ」。「暖炉」が醸し出す室内の親和的な暖かさと、屋外の活動着であるジーンズの解放感との取り合わせが絶妙に効いている。つまり言葉の取り合わせにジーンズが伝えてくる昼間の楽しさと夜の暖炉まで時間的、空間的広がりが畳み込まれているのだ。『背番号』(2011)所収。(三宅やよい)


December 14122012

 雪雲や屋根青き寺遠く見ゆ

                           外山滋比古

者20歳のときの作品。作者は東京文理科大学出身で加藤楸邨の後輩。楸邨は国文科だが、作者は英文科。恩師は福原麟太郎であったと記憶している。この当時は東京高等師範学校在学中。高等師範は師範学校で教える教師を養成するのが主目的。有能な先生をつくる先生の養成と言えばいいか。そんな青年が戦中何を考えていたのか興味が湧く。英文学、教育、俳句に関する数多くの著書がある。この句、遠近法の構図。雪雲と屋根青き寺の対照にどこか英文科らしいダンディズムが感じられる。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


December 15122012

 階段の螺旋の中を牡丹雪

                           齋藤朝比古

雪や思いがけない大雪のニュースがテレビから流れているのを見ていて、数年前の雪の日を思い出した。雪降る中、数人で空を仰いでいたのだがそのうち誰かが、なんだかどんどん昇っていくみたい、と言ったのだった。雪は上から降ってくるのだから相対的に自分が昇っていくように感じるのは当然なのだが、同じように見上げていた私は、逆に雪と一緒にどんどん沈んでいくように感じていた。掲出句の場合、そこに螺旋という動きを感じさせる曲線が加わったことで、また違った感覚になる。普通の階段は、昇っても降りても前へ進むことになるが、螺旋階段はひたすら上へ、または下へ。牡丹雪もひたすら、階段もひたすら、永遠に続く一本の螺旋の中を雪がただただ落ちてゆく、そんな映像も思い浮かんで美しい。合同句集『青炎』(1997)所載。(今井肖子)


December 16122012

 ラガー等のそのかちうたのみじかけれ

                           横山白虹

ーサイドのあと、勝者の歌は短い。なぜなら、ノーサイドの瞬間に、敵も味方もなくなるからである。ノーサイドのあとに残るのは、互いに火照った肉体、うずき始める筋肉の、骨の痛み、試合中は気にならなかった血が流れ、熱く流れ出た汗は、じきに冷えていく。ラガー等にとって、勝つことはボールを奪うことであり、タックルで止めることであり、有効にボールを蹴ること、回すこと、その瞬間を待ち、その瞬間を作り続けること以外にはない。勝つことは、試合中の80分間のみに集中されているゆえに、ノーサイドの笛のあとの勝ち歌は、短い儀式に過ぎない。かつ、相手を思いやる気持ちでもある。走り、蹴り、パスして、組み、押し、つかみ、離さず、奪い取る。全身の筋肉を使い果たしたラガー等は、一度、ラグビー場で命を燃焼し尽くしたがゆえに、あと歌はおのずと短い。『日本大歳時記・冬』(1981・講談社)所載。(小笠原高志)


December 17122012

 忘年や水に浸りてよべのもの

                           山田露結

の台所。昨夜の忘年会で使った食器類が、そのまま水に浸っている。ちゃんと洗って片づけてから休めばよかったのにと思うけれど、疲れてしまって、とてもそんな気力はなかったのだ。それこそあとの祭りである。それにしても、何たる狼藉の跡か。この皿は欠けているけれど、いつどんなことでこうなったのか、何も思い出せない。きっとこんな光景は、毎年のことなのだろう。ある意味では、本番の忘年会よりも、こちらのほうに年の瀬を感じさせられる。「さあ、やっつけるか」と腕まくりをして洗いにかかる。水道の蛇口を全開にして洗いはじめると、今年もいろいろあったなあと、はじめて忘年の思いが胸をかすめはじめるのである。『ホームスウィートホーム』(2012)所収。(清水哲男)


December 18122012

 白鳥の双羽がこひに眠りたし

                           鈴木鷹夫

ャイコフスキーの名作『白鳥の湖』に登場する白鳥は、美しい姫が魔法によって姿を変えられたものだった。鳥のなかでもっとも気高く美しい白鳥にすることで、どれほど美しい姫であったかを想像させる。しかし、イメージの華麗さと異なり、実際の白鳥の着水は体重の重さも相まってどたどたっとしたものだ。オオハクチョウになると体重8キロから12キロ。両翼を広げた状態の差し渡しは2〜2.5メートルというから、掲句に隣合う〈近づいて来る白鳥の大いなる〉の迫力はいかばかりかと思う。「双羽がこひ」という言葉は初見だったが、それが純白の翼をうっとりと打ち重ねた様子であることは容易に想像がつく。そして、その翼の内側のおそらくもっともやわらかい羽毛のなかに抱かれ眠りにつきたいという作者の心持ちにはいたく賛同する。人間は両腕を広げた長さと身長がほぼ同じだといわれる。2メートルの大いなる母に抱かれた夜はどんな夢を見るのだろう。『カチカチ山』(2012)所収。(土肥あき子)


December 19122012

 寒月やさて行く末の丁と半

                           小沢昭一

月10日に小沢昭一さんが83歳で亡くなった。ご冥福をお祈りします。夏頃に体調を崩され、ラジオの長寿番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は、このところ体調不良のため、再放送で名調子をセレクトして楽しませてくれていたから、病状が気に懸かっていた。かつて「余白句会」にゲスト参加していただいたこともあった。また個人的には講演をお願いしたり、著作をいつも送っていただいたりしていた。そうしたなかの一冊から、追悼のこころをこめて掲句を取りあげた。すさまじくも寒々とした冬の月をまず配しておき、必ずしも安定していない芸人の行く末を、冗談めかして博奕の丁半になぞらえたあたりは、いかにもこの人らしい。近頃のあやしげで物欲しそうな“芸ノー人”が、テレビや雑誌をにぎわせている図は寒々しいかぎりだけれど、小沢さんは甘辛を熟知した本物の芸人魂をもっていた。ちょいと(いや、大いに?)スケベだったところも、私などは敬愛し魅了されていた。芸人としての甘辛が、うまい具合にこの人の俳句をいい感じに湿らせていたように思われる。ご自分の句を「苦しまぎれの即席吟ばかり」と謙遜されていたが、「スナックに煮凝のあるママの過去」などは天下一品の名句であると確信する。合掌。『楽し句も、苦し句もあり、五・七・五』(2011)所載。(八木忠栄)


December 20122012

 どこへ隠そうクリスマスプレゼント

                           神野紗希

レンダーを見ると今年のクリスマスは火曜日。今日明日と小さな子供たちが学校や幼稚園へ行っている間にクリスマスプレゼントを買いに行く方も多いかもしれない。会話のはしばしに欲しいものを探り当ててお目当てのものを捜し歩く一日。さあ、うちに帰ってからが大騒ぎ。天袋の中、洋服ダンスの奥?どこへ隠しても子供に見破られそうな気がする。大きなものなら車のトランクに入れたままにしておくほうがいいかもしれない。そのプレゼントを抜き足、差し足でそっと枕元に置くのもドキドキなのだけど、考えてみればとても楽しいイベントだった。「どこへ隠そう」の後に続く言葉は何をおいても「クリスマスプレゼント」以外に考えられない。翌朝子供たちが目覚めてあげる大きな歓声、プレゼントを見せに駆けて来る足音。クリスマスプレゼントにまつわる懐かしい思い出がどっと押し寄せてくる一句だと思う。『新撰21』(2009)所収。(三宅やよい)


December 21122012

 雪二日馬も偽装の白衣着ぬ

                           須合軍曹

号は軍隊の階級のまま。「寒雷集」次巻頭三句の中の一句。投句地は営口とある。営口は中国遼寧省の遼河河口の港湾都市。従軍地からの投句である。そうか、雪中では馬に偽装のための白衣を着せたんだなと軍の装備の細やかさにあらためて驚く。この句、表現に無駄のない良い句である。ヒューマニズムや反戦意識の押し付けは「正義」ばかりが表に出て今ふうにいうと「どや顔」の俳句になる。こういう淡々と事実を見据えた表現にこそ時代の真実が浮き彫りになる。軍曹は下士官。僕らの世代は人気テレビ映画「コンバット」のヴィック・モロー扮するサンダース軍曹を思い出す。最前線に張り付いて部下を愛し叱咤しながら敵を粉砕してゆく「現場監督」だ。須合軍曹は果たして生還できたのかどうか。「寒雷・昭和17年3月号」(1942)所載。(今井 聖)


December 22122012

 哀歓はとつぜんに来る冬すみれ

                           中村与謝男

しみや喜びは何の前ぶれもなく訪れることが間々あり、またその方が突然であった分、驚きと共に深いものとなる。思いがけない喜びは周囲の人々と共有しながら、あらためてじっくりと味わうこともできるが、突然訪れた悲しみは、己の中にたたみ込んで結局は時が経つのを待つより他はない。哀歓、という言葉は悲しみと喜びを意味するが、掲出句の上五が、哀しみは、であっても、歓びは、であっても、冬すみれらしさに対する先入観が見えてしまいそうである。哀歓は、とすることで、作者の感情と冬すみれの間にほどよい距離感が生まれ、そこにふとただ咲いている冬すみれの存在感に、人生ってそんなものだよな、とつぶやいている作者が見えてくるようだ。『豊受』(2012)所収。(今井肖子)


December 23122012

 斧入れて香におどろくや冬こだち

                           与謝蕪村

に斧を入れる。現代に生きる私たちには、この当たり前のいとなみがありません。掲句は、「おどろくや」と率直な感情を示しているので、実景実情の句として読みます。冬支度の薪を採るために林の中に入っていったのでしょうか。すでに葉は落ち、木もすっかり冬木立ちになり、生きている気配も醸し出してはいません。しかし、鉄の刃を一点に、二度三度振り下ろしていくうちに、木の香りがたちこめてきた。まったく予想もしていなかった香りの強さに驚きを感じています。そして蕪村は、この一本の木が発する香りから、林全体の冬木立ちをみつめ直したのではないでしょうか。落葉した枯れ枝の木々に生命の兆しはなかったのに、斧を入れることで、生き物の内部のいとなみを嗅覚で感応してしまいました。このとき、あるいは、蕪村も痛みを感じたのかもしれません。画家であった蕪村の手には筆がなじむものとばかり思っていましたが、斧を持ち、振りかざしてじかに木の命に踏み込む姿に、読む者も驚きます。『蕪村句集』(岩波文庫)所収。(小笠原高志)


December 24122012

 三越の獅子も老いたりクリスマス

                           増尾信枝

京は日本橋三越本店の正面玄関にあるライオン像だ。待ち合わせ場所として多くの人に利用されている。大正三年に、三越が日本初の百貨店としてルネッサンス式鉄筋五階建ての新店舗となったとき、当時、支配人だった日比翁助のアイデアで、二頭のライオン像が設置されたのが始まりという。三越ファンには年配の女性が多く、待ち合わせている人のなかにも目立つ。まさか青銅の獅子像が老いることはないのだが、いましみじみと見つめていたら、そんな気がしてきたというわけだ。若いころには気にもならなかった獅子の年齢に思いがいったのは、むろん自らの加齢を意識しているからだ。いっしょに歳月を刻んで来たという思いが、不意にわいてきたのだろう。なにか同志のような親愛の念が兆している。歳末の買い物客で混みあう雑踏のなかで、ふと浮き上がってきたセンチメンタルなこの感情は自然である。おそらくそんな思いで、今日この獅子像を見つめている待ち人が、きっといるに違いない。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


December 25122012

 生まれたる子犬の真白クリスマス

                           牛田修嗣

原以外で白い動物というのはごくわずかである。海でも陸でも空でも発見されやすく、また紫外線に弱いこともあり、自然界での生存の確率は極めて低いからだ。しかし稀に存在することから、それらは古来から珍重され、瑞兆とされていた。大化6年孝徳天皇は白い雉の献上を受け、元号は「大化」から「白雉」に変わった。それほど、白い動物への特別な思いは他の色を圧倒する。掲句でも、クリスマスに子犬が生まれたという事実が、神々しく、幸福感にあふれるのは、子犬が差し毛のない真っ白であったことによるのだろう。母犬の乳房を探し、くんくんと動きまわる純白のかたまりが、この世に平和をもたらす使者のように映る。白い子犬といえば『カレル・チャペックの犬と猫のお話』にそんな写真があったはず…、と探してみた。「ロボット」の言葉を作ったとして有名な作家だが、これは実際に彼の家で飼われていた犬と猫のエッセイ集である。扉には数枚の写真が収められていて、そこに目当ての子犬ダーシェンカはいた。ああ、こんな犬なんだろうな、きっと。文中によると〈白い豆粒みたい〉。他にも作家が兄と一緒にそれぞれ犬と猫を生真面目に抱いている写真(もちろん猫だけ明後日の方角を眺めている)も素敵だ。その後、チャペックの家の四匹の白い豆粒たちは、またたく間に大きくなって、二週間後にはすっかりわんぱくになって家中を駆け回り、まるで四万四千匹に増殖したようにチャペック家を蹂躙する。「第19回俳句大賞 片山由美子特選」(「俳句文学館」2012年12月10日付)所載。(土肥あき子)


December 26122012

 ゆく年や山にこもりて山の酒

                           三好達治

かく年の暮は物騒なニュースが多いし、今どきは何となく心せわしい。毎年のこととはいえ、誰しもよけようがない年の暮である。喧噪の巷を離れて、掲句のようにどこでもいいから、しばし浮世のしがらみをよけ、人里離れた山にでもこもれたら理想的かも知れない。しかし、なかなか思う通りに事は運ばない。達治はもう書斎での新年の仕事をすっかり済ませ、さっさと山の宿にでもこもったのであろう。厄介な世事から身を隠して、山の宿で「山の酒」つまり地酒(それほど上等でなくともかまわない)を、ゆったりと心行くまで味わっているのだろう。「山にこもりて山の酒」の調子良さ。もちろん雪に覆われるような寒冷の地ではなく、暖かい山地なのだろう。そこでのんびりと過ぎし年を回顧し、おのれの行く末にあれこれと思いを馳せている。世間一般も、ゆく年は「山にこもりて」の境涯でありたいものと思えども、なかなか思うにまかせない。加齢とともに、ふとそんな気持ちになることがあるけれど、それができる境涯などユメのまたユメである。鷹羽狩行に「ゆく年のゆくさきのあるごとくゆく」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 27122012

 煤逃げにパチンコの玉出るは出るは

                           吉田汀史

月を迎えるために積もり積もった塵や埃を掃きだす「煤払い」いわば年末の大掃除。「煤逃げ」は歳時記によると「煤からのがれるため病人や老幼が別の部屋や他家へ行くこと」とあるが、近年は掃除から逃げるためどこかへ行って時間を潰す意に使われることが多いようだ。ガラスの拭き掃除や車洗いにいそしむご主人様も多いだろうが、大抵の男どもはどこかへ行ってしまう。掲句はバタバタと始まった大掃除に自分からぶらっと外へ出たのだろう。時間つぶしに入ったパチンコ屋で気のない様子で玉をはじいていたら、まぁ何と「出るは」「出るは」チンジャラジャラとあふれるほどに入りだして足元にはぎっしり玉の詰まった箱が積みあがる。そんな風景だろうか。血眼になって勝とうとしてもちっとも出ないのにどうしたことか。予想外の展開に目を丸くしている様子がどこかユーモラスで思わずにやりとしてしまう。『汀史虚實』(2006)所収。(三宅やよい)


December 28122012

 蛾を救ひその灰色をふりむかず

                           加藤知世子

のとき作者34歳。前書きに「夫に」とある。楸邨は4歳年上。結婚14年目の作品である。三月号所載で他は冬季の句が並んでいるからこの蛾は冬の蛾と解していい。楸邨が蛾をつまんで外に置いた。「救ひ」だから放ったというよりもそっと葉の上にでも置いたのであろう。妻はその蛾が気になっているのだが、夫はもう見向きもしない。楸邨という人、それを見ている妻の心境。夫婦の独特の呼吸が伝わってくる。同号の楸邨作品に「芭蕉講座發句篇上巻」成ると前書きを置いて「寒木瓜のほとりにつもる月日かな」の一句。楸邨の人柄がただただ懐かしい。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


December 29122012

 好きな人かぞへきれなく日向ぼこ

                           國弘賢治

自由な体で外出もままならなかった作者にとって、日向ぼこりは楽しみのひとつであったことだろう、これを引いた『賢治句集』(1991)にも何句か遺されている。〈ひらきみる手相かゞやく日向ぼこ〉〈ガマグチの中までぬくく日向ぼこ〉いずれも冬の日差しに包まれて心地よい。中でも掲出句、この作者の「好き」は、心からただ好き、であり、そこが好きだ。ちょうど今頃、今年ももうすぐ終わりだなあ、と思いながらあれこれ一年をふり返っているのではないか。そんな時、好きな人が数え切れない、と素直に言えるのが賢治らしい。亡くなる年には〈涙の頬すぐにかわきし日向ぼこ〉もあるが、作者の笑顔が浮かんでくればそれでよい。俳句を始めてから人間について悩み考えることが増えた、などと思っている自分を省みつつ今年最後の一句。(今井肖子)


December 30122012

 大晦日さだめなき世の定哉

                           井原西鶴

年もあと二日を残すところとなりました。政権が交代し、オリンピックでヒーロー・ヒロインが登場した反面、いまだ故郷に戻れない被災者も多く、昔も今も「さだめなき」無常の世であることに変わりはありません。掲句は、西鶴作『世間胸算用』を集約している句です。『世間胸算用』は、「大晦日は一日千金」というサブタイトルがついた二十からなる短編集です。江戸時代の売買は、帳面による掛売り掛買いがふつうで、大晦日は、そのツケの最終決済日でした。一種の紳士協定による信用取引が江戸の「定」ですから、暴力の行使は許されません。そのかわり、暴力以外のあらゆる秘術を尽くして借金取りから逃れ、かたや追いかけ、元旦というゲームセットまでの極限的な経済心理ゲームが繰り広げられています。たとえば、「亭主はどこだ、いつ帰るのだ」と急き立てる借金取りが凄んでいるところに、丁稚(でっち)が息せき切って帰り、「旦那様は大男四人に囲まれてあやめられました」と女房に伝えると、女房は驚き嘆き泣き騒ぐので、仕方なく件の借金取りは、ちりぢりに帰りました。ところで、女房も丁稚もケロリとしている。やがて、納戸に身を隠していた旦那がふるえながら出てくる、といった落語のような狂言仕立てです。平成の現代は、元禄の「定」とは大いに違います。それでも、大晦日は特別な日であることに変わりはなく、入金を済ませたり、仕事納めをしたり、賀状を書きあげたり、大掃除・整理整頓、何らかのけじめをつけて、新年を迎えようとする心持ちに変わりない定めがあるように思われます。今年一年、お世話になりました。よいお年をお迎えください。なお、掲句の「さだめ・定」の表記はいくつかの本で異なりますが、今回は、『井原西鶴集 三』(小学館)巻頭に載っている短冊によりました。(小笠原高志)


December 31122012

 大晦日御免とばかり早寝せる

                           石塚友二

十一歳の秋に、ラジオのパーソナリティを仰せつかった。早朝番組だったので、以来三十有余年、早寝早起きの生活がつづいている。大晦日とて、例外ではない。この間、除夜の鐘も聞いたことがない。子どもの頃には、大晦日はいつまで起きていても叱られなかったから嬉しかったが、そんなことももう遠い思い出だ。作者が「御免」と言っている相手は、とくに誰かを指しているのではなく、遅くまで起きて年を守っている世間一般の人々に対してだろう。この気持ちは、なんとなくわかる。早寝しようが勝手ではあるものの、いささか世間の常識に外れているような気がして、ちと後ろめたいのである。だから一応、「御免」の気持ちで寝床にもぐり込むことになるのだ。孝子・フォン・ツェルセンという人の句に、「子の去りてすることもなし年の夜」がある。これは今宵の我が家そのもののありようである。そういうわけで、では、御免。みなさまがたには佳いお年をお迎えくださいますように。『合本・俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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