四十数年前、イヴに東京でも雪が降ったことがある。青春は短し。(哲




2012ソスN12ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 24122012

 三越の獅子も老いたりクリスマス

                           増尾信枝

京は日本橋三越本店の正面玄関にあるライオン像だ。待ち合わせ場所として多くの人に利用されている。大正三年に、三越が日本初の百貨店としてルネッサンス式鉄筋五階建ての新店舗となったとき、当時、支配人だった日比翁助のアイデアで、二頭のライオン像が設置されたのが始まりという。三越ファンには年配の女性が多く、待ち合わせている人のなかにも目立つ。まさか青銅の獅子像が老いることはないのだが、いましみじみと見つめていたら、そんな気がしてきたというわけだ。若いころには気にもならなかった獅子の年齢に思いがいったのは、むろん自らの加齢を意識しているからだ。いっしょに歳月を刻んで来たという思いが、不意にわいてきたのだろう。なにか同志のような親愛の念が兆している。歳末の買い物客で混みあう雑踏のなかで、ふと浮き上がってきたセンチメンタルなこの感情は自然である。おそらくそんな思いで、今日この獅子像を見つめている待ち人が、きっといるに違いない。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


December 23122012

 斧入れて香におどろくや冬こだち

                           与謝蕪村

に斧を入れる。現代に生きる私たちには、この当たり前のいとなみがありません。掲句は、「おどろくや」と率直な感情を示しているので、実景実情の句として読みます。冬支度の薪を採るために林の中に入っていったのでしょうか。すでに葉は落ち、木もすっかり冬木立ちになり、生きている気配も醸し出してはいません。しかし、鉄の刃を一点に、二度三度振り下ろしていくうちに、木の香りがたちこめてきた。まったく予想もしていなかった香りの強さに驚きを感じています。そして蕪村は、この一本の木が発する香りから、林全体の冬木立ちをみつめ直したのではないでしょうか。落葉した枯れ枝の木々に生命の兆しはなかったのに、斧を入れることで、生き物の内部のいとなみを嗅覚で感応してしまいました。このとき、あるいは、蕪村も痛みを感じたのかもしれません。画家であった蕪村の手には筆がなじむものとばかり思っていましたが、斧を持ち、振りかざしてじかに木の命に踏み込む姿に、読む者も驚きます。『蕪村句集』(岩波文庫)所収。(小笠原高志)


December 22122012

 哀歓はとつぜんに来る冬すみれ

                           中村与謝男

しみや喜びは何の前ぶれもなく訪れることが間々あり、またその方が突然であった分、驚きと共に深いものとなる。思いがけない喜びは周囲の人々と共有しながら、あらためてじっくりと味わうこともできるが、突然訪れた悲しみは、己の中にたたみ込んで結局は時が経つのを待つより他はない。哀歓、という言葉は悲しみと喜びを意味するが、掲出句の上五が、哀しみは、であっても、歓びは、であっても、冬すみれらしさに対する先入観が見えてしまいそうである。哀歓は、とすることで、作者の感情と冬すみれの間にほどよい距離感が生まれ、そこにふとただ咲いている冬すみれの存在感に、人生ってそんなものだよな、とつぶやいている作者が見えてくるようだ。『豊受』(2012)所収。(今井肖子)




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