かたづけてもかたづけても本の山。日頃さぼってきた罰ですなあ。(哲




2012ソスN12ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 26122012

 ゆく年や山にこもりて山の酒

                           三好達治

かく年の暮は物騒なニュースが多いし、今どきは何となく心せわしい。毎年のこととはいえ、誰しもよけようがない年の暮である。喧噪の巷を離れて、掲句のようにどこでもいいから、しばし浮世のしがらみをよけ、人里離れた山にでもこもれたら理想的かも知れない。しかし、なかなか思う通りに事は運ばない。達治はもう書斎での新年の仕事をすっかり済ませ、さっさと山の宿にでもこもったのであろう。厄介な世事から身を隠して、山の宿で「山の酒」つまり地酒(それほど上等でなくともかまわない)を、ゆったりと心行くまで味わっているのだろう。「山にこもりて山の酒」の調子良さ。もちろん雪に覆われるような寒冷の地ではなく、暖かい山地なのだろう。そこでのんびりと過ぎし年を回顧し、おのれの行く末にあれこれと思いを馳せている。世間一般も、ゆく年は「山にこもりて」の境涯でありたいものと思えども、なかなか思うにまかせない。加齢とともに、ふとそんな気持ちになることがあるけれど、それができる境涯などユメのまたユメである。鷹羽狩行に「ゆく年のゆくさきのあるごとくゆく」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 25122012

 生まれたる子犬の真白クリスマス

                           牛田修嗣

原以外で白い動物というのはごくわずかである。海でも陸でも空でも発見されやすく、また紫外線に弱いこともあり、自然界での生存の確率は極めて低いからだ。しかし稀に存在することから、それらは古来から珍重され、瑞兆とされていた。大化6年孝徳天皇は白い雉の献上を受け、元号は「大化」から「白雉」に変わった。それほど、白い動物への特別な思いは他の色を圧倒する。掲句でも、クリスマスに子犬が生まれたという事実が、神々しく、幸福感にあふれるのは、子犬が差し毛のない真っ白であったことによるのだろう。母犬の乳房を探し、くんくんと動きまわる純白のかたまりが、この世に平和をもたらす使者のように映る。白い子犬といえば『カレル・チャペックの犬と猫のお話』にそんな写真があったはず…、と探してみた。「ロボット」の言葉を作ったとして有名な作家だが、これは実際に彼の家で飼われていた犬と猫のエッセイ集である。扉には数枚の写真が収められていて、そこに目当ての子犬ダーシェンカはいた。ああ、こんな犬なんだろうな、きっと。文中によると〈白い豆粒みたい〉。他にも作家が兄と一緒にそれぞれ犬と猫を生真面目に抱いている写真(もちろん猫だけ明後日の方角を眺めている)も素敵だ。その後、チャペックの家の四匹の白い豆粒たちは、またたく間に大きくなって、二週間後にはすっかりわんぱくになって家中を駆け回り、まるで四万四千匹に増殖したようにチャペック家を蹂躙する。「第19回俳句大賞 片山由美子特選」(「俳句文学館」2012年12月10日付)所載。(土肥あき子)


December 24122012

 三越の獅子も老いたりクリスマス

                           増尾信枝

京は日本橋三越本店の正面玄関にあるライオン像だ。待ち合わせ場所として多くの人に利用されている。大正三年に、三越が日本初の百貨店としてルネッサンス式鉄筋五階建ての新店舗となったとき、当時、支配人だった日比翁助のアイデアで、二頭のライオン像が設置されたのが始まりという。三越ファンには年配の女性が多く、待ち合わせている人のなかにも目立つ。まさか青銅の獅子像が老いることはないのだが、いましみじみと見つめていたら、そんな気がしてきたというわけだ。若いころには気にもならなかった獅子の年齢に思いがいったのは、むろん自らの加齢を意識しているからだ。いっしょに歳月を刻んで来たという思いが、不意にわいてきたのだろう。なにか同志のような親愛の念が兆している。歳末の買い物客で混みあう雑踏のなかで、ふと浮き上がってきたセンチメンタルなこの感情は自然である。おそらくそんな思いで、今日この獅子像を見つめている待ち人が、きっといるに違いない。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)




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