むかしのラジオ仲間と今年最後の忘年会。みんなラジオ好き人間。(哲




2012ソスN12ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 28122012

 蛾を救ひその灰色をふりむかず

                           加藤知世子

のとき作者34歳。前書きに「夫に」とある。楸邨は4歳年上。結婚14年目の作品である。三月号所載で他は冬季の句が並んでいるからこの蛾は冬の蛾と解していい。楸邨が蛾をつまんで外に置いた。「救ひ」だから放ったというよりもそっと葉の上にでも置いたのであろう。妻はその蛾が気になっているのだが、夫はもう見向きもしない。楸邨という人、それを見ている妻の心境。夫婦の独特の呼吸が伝わってくる。同号の楸邨作品に「芭蕉講座發句篇上巻」成ると前書きを置いて「寒木瓜のほとりにつもる月日かな」の一句。楸邨の人柄がただただ懐かしい。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


December 27122012

 煤逃げにパチンコの玉出るは出るは

                           吉田汀史

月を迎えるために積もり積もった塵や埃を掃きだす「煤払い」いわば年末の大掃除。「煤逃げ」は歳時記によると「煤からのがれるため病人や老幼が別の部屋や他家へ行くこと」とあるが、近年は掃除から逃げるためどこかへ行って時間を潰す意に使われることが多いようだ。ガラスの拭き掃除や車洗いにいそしむご主人様も多いだろうが、大抵の男どもはどこかへ行ってしまう。掲句はバタバタと始まった大掃除に自分からぶらっと外へ出たのだろう。時間つぶしに入ったパチンコ屋で気のない様子で玉をはじいていたら、まぁ何と「出るは」「出るは」チンジャラジャラとあふれるほどに入りだして足元にはぎっしり玉の詰まった箱が積みあがる。そんな風景だろうか。血眼になって勝とうとしてもちっとも出ないのにどうしたことか。予想外の展開に目を丸くしている様子がどこかユーモラスで思わずにやりとしてしまう。『汀史虚實』(2006)所収。(三宅やよい)


December 26122012

 ゆく年や山にこもりて山の酒

                           三好達治

かく年の暮は物騒なニュースが多いし、今どきは何となく心せわしい。毎年のこととはいえ、誰しもよけようがない年の暮である。喧噪の巷を離れて、掲句のようにどこでもいいから、しばし浮世のしがらみをよけ、人里離れた山にでもこもれたら理想的かも知れない。しかし、なかなか思う通りに事は運ばない。達治はもう書斎での新年の仕事をすっかり済ませ、さっさと山の宿にでもこもったのであろう。厄介な世事から身を隠して、山の宿で「山の酒」つまり地酒(それほど上等でなくともかまわない)を、ゆったりと心行くまで味わっているのだろう。「山にこもりて山の酒」の調子良さ。もちろん雪に覆われるような寒冷の地ではなく、暖かい山地なのだろう。そこでのんびりと過ぎし年を回顧し、おのれの行く末にあれこれと思いを馳せている。世間一般も、ゆく年は「山にこもりて」の境涯でありたいものと思えども、なかなか思うにまかせない。加齢とともに、ふとそんな気持ちになることがあるけれど、それができる境涯などユメのまたユメである。鷹羽狩行に「ゆく年のゆくさきのあるごとくゆく」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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