今年も読み残した本がかなりある。気にしない気にしない。(哲




2012ソスN12ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 29122012

 好きな人かぞへきれなく日向ぼこ

                           國弘賢治

自由な体で外出もままならなかった作者にとって、日向ぼこりは楽しみのひとつであったことだろう、これを引いた『賢治句集』(1991)にも何句か遺されている。〈ひらきみる手相かゞやく日向ぼこ〉〈ガマグチの中までぬくく日向ぼこ〉いずれも冬の日差しに包まれて心地よい。中でも掲出句、この作者の「好き」は、心からただ好き、であり、そこが好きだ。ちょうど今頃、今年ももうすぐ終わりだなあ、と思いながらあれこれ一年をふり返っているのではないか。そんな時、好きな人が数え切れない、と素直に言えるのが賢治らしい。亡くなる年には〈涙の頬すぐにかわきし日向ぼこ〉もあるが、作者の笑顔が浮かんでくればそれでよい。俳句を始めてから人間について悩み考えることが増えた、などと思っている自分を省みつつ今年最後の一句。(今井肖子)


December 28122012

 蛾を救ひその灰色をふりむかず

                           加藤知世子

のとき作者34歳。前書きに「夫に」とある。楸邨は4歳年上。結婚14年目の作品である。三月号所載で他は冬季の句が並んでいるからこの蛾は冬の蛾と解していい。楸邨が蛾をつまんで外に置いた。「救ひ」だから放ったというよりもそっと葉の上にでも置いたのであろう。妻はその蛾が気になっているのだが、夫はもう見向きもしない。楸邨という人、それを見ている妻の心境。夫婦の独特の呼吸が伝わってくる。同号の楸邨作品に「芭蕉講座發句篇上巻」成ると前書きを置いて「寒木瓜のほとりにつもる月日かな」の一句。楸邨の人柄がただただ懐かしい。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


December 27122012

 煤逃げにパチンコの玉出るは出るは

                           吉田汀史

月を迎えるために積もり積もった塵や埃を掃きだす「煤払い」いわば年末の大掃除。「煤逃げ」は歳時記によると「煤からのがれるため病人や老幼が別の部屋や他家へ行くこと」とあるが、近年は掃除から逃げるためどこかへ行って時間を潰す意に使われることが多いようだ。ガラスの拭き掃除や車洗いにいそしむご主人様も多いだろうが、大抵の男どもはどこかへ行ってしまう。掲句はバタバタと始まった大掃除に自分からぶらっと外へ出たのだろう。時間つぶしに入ったパチンコ屋で気のない様子で玉をはじいていたら、まぁ何と「出るは」「出るは」チンジャラジャラとあふれるほどに入りだして足元にはぎっしり玉の詰まった箱が積みあがる。そんな風景だろうか。血眼になって勝とうとしてもちっとも出ないのにどうしたことか。予想外の展開に目を丸くしている様子がどこかユーモラスで思わずにやりとしてしまう。『汀史虚實』(2006)所収。(三宅やよい)




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