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January 0112013

 火を焚けば太古のこころ初日待つ

                           波多江たみ江

っと昔、毎日という日々は、現在のように穏やかに流れていくものではなかった。狩猟し、あるいは逃げまどい、命のつながった時間を積み重ねて歳月となった。火を手に入れ、家族を抱え、飢えとたたかい生きていく。太古とは非情な時代である。そんな生への執念は、現在蔓延している無情感と正反対に位置するものだ。今日生きのびることが全て。あらゆる野生動物と同じように、人間も命がけで生きていた。一年が終わり、一年を始めることができる幸せを、あらためて感じる元日である。『内角の和』(2004)所収。(土肥あき子)


January 0812013

 寒立馬雪横なぐり横なぐり

                           小圷健水

立馬(かんだちめ)は、青森県下北半島で放牧されている比較的小柄な馬である。南部馬を祖とした農耕馬で、気候と痩せた土地に順応する種として改良されてきた。「寒立」とは野生のカモシカなどが雪上を数日じっと動かぬ姿を呼ぶという。ずんぐりとした体躯に足元の安定した素朴な馬が、白い息のかたまりを吐きながら立つ群れはいかにも雄々しく、風土に適合している。しかし、どんなに厳寒のなかでも平気だと聞いても、寒風にたてがみをなぶらせ、たっぷりとしたまつげに雪を乗せている姿は、見るものに哀れを誘う。横なぐりの雪のなかで、身を隠す場所もなく、馬たちはひたすら立ち続け、春を待つのだ。同集には仔馬の姿も見られる。厳しい自然のなかの親子の情はひときわ熱く胸を打つ。〈風上の母に添ひゐる寒立馬 篠原 然〉、〈乳をのむ仔馬も雪にまみれをり 原田桂子〉「青林檎」(2012年冬号・19号)所載。(土肥あき子)


January 1512013

 一つ足し影の枝垂るる繭飾り

                           榎本好宏

日1月15日は小正月。15日というと一月も半分も過ぎてしまったという焦燥を募らせる頃だが、元日の大正月に対して小正月は古くから豊作を占う行事など華やかに行われる日だった。掲句の繭飾りもそのひとつで、木の枝に繭の形に丸めた餅を吊るして五穀豊穣を願う。地域により使う木もさまざまで、餅以外にも縁起物などにぎやかに装飾する場所もあるが、おそらく掲句は、柳や水木など、しなやかな枝にごくシンプルに飾り付けられているものだろう。明るい冬の日が差し込む座敷で、耳たぶほどのやわらかさにこねた団子をひとつずつ丸めては、枝に付ける。ひとつ加えるごとに、まるで稲穂が実るように枝垂れていく繭玉の漆黒の影が冴え冴えと畳に伸びる。五穀豊穣。古来から人々が願ってやまなかった祈りの言葉のなんと美しいことだろう。この繭飾りに付けた餅は、その夜、お飾りを焼く左義長の火であぶって食べると、一年風邪をひかないといわれ、子どもたちの遊びに還元される。生活の祈りは、どれも楽しみと手を取り合って、人々の生活に根付いていた。〈注連縄の灰となりけり結び目も〉〈餅間といふ月の夜の続きけり〉『知覧』(2012)所収。(土肥あき子)


January 2212013

 雪景色女を岸と思ひをり

                           小川軽舟

に縁遠い地に生まれたせいか、降り積もった雪の表情が不思議でならない。川にぽつんぽつんと雪玉が置かれているように見えたものが石のひとつひとつに積もった雪であることや、くっきりと雪原に記された鳥の足跡が飛び立ったときふつりと途絶えているのさえ、神秘に思えていつまでも見飽きない。女を岸と思うという掲句は、ともすると「男は船、女は港」のような常套句に惑わされるが、上五の雪景色がひたすら具象へと引き寄せている。村上春樹が太った女を「まるで夜のあいだに大量の無音の雪が降ったみたいに」と描写したように、川へとうっとりと身を寄せるように積もる純白の雪の岸には、景色そのものに女性美が備わっている。一面の雪景色のなかで、なにもかもまろやかな曲線に囲まれた岸と、そこに滔々と流れる冷たい水。雪景色のなかの岸こそ、女という生きものそのものであるように思えてくる。〈木偶は足浮いて歩めり燭寒く〉〈河馬見んと乗る木の根つこ春近し〉『呼鈴』(2012)所収。(土肥あき子)


January 2912013

 パイプオルガン冬の木立のやうに

                           浦川聡子

イプオルガンのパイプは一本でひとつの音が出る仕組みなので、音の数だけパイプが必要となる。オルガンの外観から突出しているものだけでなく、裏側には大小のパイプがまさに林立している。音色を増やすほど巨大になる楽器は、基本的な音色に加え、太いパイプを使ったあたたかな音色、細めのパイプを使ったバイオリンやチェロのような音色、またトランペットやオーボエのようなリード系の音まで無数の種類を網羅し、東京芸術劇場の世界最大級といわれるパイプオルガンはおよそ9,000本というものだ。さまざまな楽器にそれぞれにふさわしい季節があるとしたら、楽器の王様と呼ばれるパイプオルガンの深々と広大な音色は間違いなく冬を思わせる。冬の木立は、風をまとい、鳥を羽ばたかせ、どさりと雪を振り落とす。木の葉で隠すことのない潔い直線を天上へと放り出す。かの劇場のパイプオルガンは残念ながら現在メンテナンスだが、また広大な木立が奏でる冬の音色に身をゆだねてみたい。〈ピチカート次々飛んで冬の星〉〈掲げ持つホルン銀色冬ざるる〉『眠れる木』(2012)所収。(土肥あき子)


February 0522013

 如月や閑と木の家紙の家

                           照屋眞理子

画「裏窓」の原作者ウイリアム・アイリッシュの小説で「日本の家は木と紙でできているので、一本のカミソリがあれば侵入可能」とあるのを見つけたときにはずいぶん驚いた。障子と襖を思えばおよそ間違いではないが、おそらく作家の頭には紙でできたテントのようなしろものが浮かんでいたのではないか。たしかに煉瓦の家に暮らす国から見れば、木の柱と紙の仕切りとはいかにも華奢に思えることだろう。子どもたちが襖や障子の近くで遊ぶことが禁じられていたのは、破いたり、壊したりしない用心だった。表千家の茶室で扁平な太鼓帯にするのは「壁土をこすって傷つけないように」と聞いて、細やかな作法はこの傷つきやすい日本家屋によって生まれたものだとあらためて思ったものだ。掲句に通う凛とした気配に、冴え渡る如月の空気のなかで、まるで襟を合わせたような神妙な面持ちの家屋を思う。そして、その中に収まるきれいに揃った畳の目や、磨かれた柱を日本に暮らすわたしたちは思い浮かべることができる。〈開かずの間いえ雪野原かも知れず〉〈この世にも少し慣れたかやよ子猫〉『やよ子猫』(2012)所収。(土肥あき子)


February 1222013

 鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな

                           松瀬青々

こを書くとき、折々今日は何の日か確かめる。七十二候や一般的な行事以外でも、なかなか面白い発見をすることもある。そして、今日2月12日はブラジャーの日。1913年、アメリカでマリー・フェルブ・ジャコブが現在の形に近いブラを発明、特許取得。世界初のブラジャーはハンカチをリボンで結んだだけという単純なものだったという。そして下着メーカー、ワコールがこの日を制定した。女性にとっては必需品でも、男性には謎の多い蠱惑的なしろものだろう。掲句、上五「鞦韆」に「ふらここ」のルビあり。同義の「ブランコ」より大人っぽく、「しゅうせん」より軽やかだ。健康的な女性のはつらつと弾む胸は、男性ならずとも目を引きつける。ふらここの描く弧からこぼれるような胸乳を想像するとき、性的な魅力を超越した屈託のない美しさを感じる。春をつかさどるといわれる佐保姫が霞の衣をまとい、たわむれに鞦韆を漕いでいるかのように。『松苗』(1939)所収。(土肥あき子)


February 1922013

 子猫あそばせ漱石の眠る墓

                           村上 護

所の野良猫たちも朝な夕なに恋の声をあげる。じきに子猫の声も混じることだろう。恋のシーズンの恋猫からお腹の大きい孕猫、さらには子猫まで、くまなく季語になっている動物は他にいない。これは猫好きの人間が多いというより、猫が人間の日常への食い込み具合を物語るものだろう。夏目漱石は雑司が谷墓地に眠る。日当りの良い、猫には居心地のよさそうな場所だ。漱石の墓石は大きすぎて下品と苦言するむきもあるが、漱石の一周忌に合わせ妹婿が製作したという墓石は、鏡子夫人の『漱石の思ひ出』によると「何でも西洋の墓でもなし日本の墓でもない、譬へば安楽椅子にでもかけたといつた形の墓をこさへようといふので、まかせ切りにしておきますと、出来上つたのが今のお墓でございます」とある通り、確かに周囲に異彩を放つ。しかし、自然石でもなく、四角四面でもない墓石は、お洒落な漱石にぴったりだと思う。肘掛け椅子のようなやわらかなフォームには幾匹も猫が収まりそうなおっとりとした大らかさがある。とはいえ、大の猫嫌いだったといわれる鏡子夫人は、この墓石のかたちにしたことを多少後悔しているかもしれない。〈ひと枡に一字一字や目借時〉〈四方(よも)見ゆる其中つれづれ日永かな〉『其中つれづれ』(2012)所収。(土肥あき子)


February 2622013

 一所懸命紅梅も白梅も

                           西嶋あさ子

HK放送文化研究所によると、「一所懸命」は武士が賜った「一か所」の領地を命がけで守り、それを生活の頼りにして生きたことに由来した言葉で、これが転じて「物事を命がけでやる」という意味となったという。そのうち文字のほうも、命がけで守り通すことから、一生をかけての意味を強め「一生懸命」とも書かれるようになったようだ。今では「一生懸命」と表記・表現される場合が多くなり、多くの新聞や雑誌、放送用語で統一して使用されているという。しかし、掲句を見ると、やはり「一所」でなければならないことが確かにあると思う。ひとところを死守するのは、人間も植物も同じである。毎年同じ場所で、同じ枝からほつりほつりとほころび始める。梅の花がことにつぶらで健気に感じられるのは、冴え返る清冽な空気によるものだろう。一所懸命という音には、凛々しさとともに、痛々しいような切なさもどこかに感じられる。身を切る空気のなかで咲く梅のもつ不憫さも、この言葉は抱えているのである。〈光かと見えて燕の来たりけり〉〈蝌蚪の紐こはごは覗く確と見る〉『的礫』(2013)所収。(土肥あき子)


March 0532013

 しやぼん玉兄弟髪の色違ふ

                           西村和子

は父親に似て、息子は母親に似るものだとよく言うが、自分と弟を引き比べてみても、確かにその通りだと思う。同性の兄弟、姉妹の場合も、大小の違いだけではなく、どちらかが父親と母親の面差しの影響を大きく受けているようだ。掲句では、きらきら輝くしゃぼん玉を見つめることによって、光のなかの兄弟の違いを際立たせる。小さな兄弟が異なる人格を持っていることは当然でありながら、作者はどこか不思議な気持ちで眺めている。そして、髪の色の差は、父と母という存在を見え隠れさせ、健やかにつながっていく世代のたくましさも感じさせているのだ。ところで髪といえば、『メアリー・ポピンズ』のなかで、髪をストレートにするか、カールにするか、赤ん坊のとき春風に頼むのだという話しがあり、「ああ、自分は頼み忘れたに違いない」とがっかりした覚えがある。今でも、毛先がくるっと巻いた小さい子を見ると「この子はちゃんと頼んだのね」と思うほどだ。『季題別 西村和子句集』(2012)所収。(土肥あき子)


March 1232013

 春昼の口のあかない貝ふたつ

                           滝本結女

の砂抜きは3%の食塩水に数時間浸しておく。密閉しない程度に蓋をして暗くしておく。夜中に砂抜きしているシジミに「ドレモコレモミンナクッテヤル」という鬼ババの笑いを浮かべた石垣りんは、おそらく暗闇のなかでシジミのうごめく様子に、わずかな戦慄を覚えたのだと思うが、個人的には、チューチュー音を立てたり、ぴゅっと水を吐いたり、にょろにょろと舌を出したり、固く閉まった貝たちがほどけていく様子を覗き見するのは時間を忘れるほど楽しい。掲句はその後の調理した貝の姿であろう。加熱後、口が開かないのは「元から死んでいた貝だから食べてはいけない」と教わったけれど、まるでこのふたつがぼんやり昼寝でもしているように見えてくる。作者も、すぐさま取り除くことはしないで、そのうち開くんじゃないか、とのんきに眺めている様子もある。春の昼餉のひとときは穏やかに過ぎていく。そうそう、あまりの可愛らしさにこちらも(^^)〈豚の子の白き睫毛に春来たり〉『松山ミクロン』(2013)所収。(土肥あき子)


March 1932013

 瞑ることなきマンボウの春の夢

                           坊城俊樹

袋サンシャイン水族館で生まれて初めて泳いでいるマンボウを見たときは、長蛇の列の末のパンダより大きな衝撃を受けた。なにしろその巨大な魚は生きものとしてどう見ても不自然なのである。胸から後ろがぷつりと切れているような姿で、泳ぐというよりただそこに居る。水流にまかせてぼーっとしているだけなら、尾びれなど必要ないと進化の段階であっさり手放したのだろうか。水槽にはビニールの内壁が作られており、それは硝子面に衝突して死に至るケースがあるというマンボウへの配慮であった。こんなぼんやりした生きものがよくもまぁこれほど大きくなるまで生き延びたものだと怪訝に思っていると、なんと三億という途方もない数の卵を生むのだという。ともかく多く生むことで種を保つという方針を選択したのだ。眠るでもなく、起きるでもなく、ひたすら海中を浮遊し、時折海面にぶかりと浮かんで海鳥とたわむれる彼らの生きかたは、たとえるなら春が永遠に続くようなものだろう。マンボウの身はまことにとらえどころなく、淡くうららかな夢のような味だという。〈絵踏してよりくれなゐの帯を解く〉〈肩車しては桜子桜人〉『日月星辰』(2013)所収。(土肥あき子)


March 2632013

 花人となりきれぬまま戻りけり

                           今井肖子

年は例年より早い開花となり、東京の桜もたちまち盛りとなった。花人(はなびと)とは、桜を愛でる人のことだ。咲き初めから、花が散ったのちの桜蕊が落ちるまで、歳時記は桜を追い続ける。桜の美しさに身も心もゆだねることができて、初めて花人といえるのだろう。掲句は花見の宴の帰りなのか、また満開の桜並木を通り抜けた時の心持ちだろうか。中七の「なりきれぬまま」で、読者は花人の境地に至らなかった原因に思いを馳せる。桜は時折、妙に生きものめいた感触を放つ。一途に咲く様子は見る者の身をすくませ、魅入られることに躊躇を感じさせる。咲き競う勢いのなかで、取り残されたような心細さも覚えるものだ。花人となる機会に恵まれながら、ただごとならない美のなかで、惑わされることを拒んでしまった作者の心に今わずかな後悔も生まれている。〈その幹に溜めし力がすべて花〉〈花も亦月を照らしてをりにけり〉『花もまた』(2013)所収。(土肥あき子)


April 0242013

 受験子に幼き日あり合格す

                           伊藤敬子

在暮らしている地域にはいくつかの女子大があるせいか、若い女性のたてる小鳥のような笑い声がいつも身近にある。日頃、大学前のバス停を利用していることもあり、受験や合格発表など、一喜一憂する姿にも触れる機会が多い。この時期面差しの似通った母娘らしいふたり連れが地図を片手に歩いているのをたびたび見かけるが、おそらくこれから暮らす町の下見をしているのだろう。生まれてから、育ち、巣立つまでに支え続けるたくさんの手から、新しい明日へと送りだされる。合格の喜びは、当事者が未来を見つめるのに対し、掲句は過去へと思いを寄せる視線である。十代には十年十五年という歳月ははるか彼方の遠い日々だが、大人にとってはつい昨日のようなできごとである。この町にも来週には親元を離れた瑞々しい新入生たちがあふれるだろう。大きな鞄を抱えて緊張のほどけぬ顔も、一ヶ月もしないうちにすっかりなじんでしまうのだから、若者の順応力とはすばらしい。一方、東京で暮らす娘たちに不安でたまらない郷里の親御さんを思うと「まめに連絡してあげて」と願わずにはいられない。『びょう茫』(2013)所収。※句集名「びょう」は水が三つ重なった機種依存文字。(土肥あき子)


April 0942013

 雨音を連れ恋猫のもどりけり

                           永瀬十梧

と雨とはゆかりが深い。よくいわれる「猫が顔を洗うと雨」は、湿り気を嫌う猫がヒゲをしごく動作で、個体差はあるものの実際に湿度が高い日や低気圧が近づいているときに頻繁に見られる。確かにわが家で飼っていた猫も、雨の日にぐいぐいと顔をこすりつけにくることがあった。あれはきっと人間の衣服で湿気を拭っていたのだろう。掲句では、下り坂となる天気の気配を感じつつも、いさましく出かけていった猫が、いよいよ雨がぱらつき始めたとき、やむをえず志半ばで引き上げてきたのだ。ガラスに伝う雨粒を恨みがましく眺めながら、いかにも不満気な様子が続いて見えるようだ。さらには恋の首尾さえ愚痴っているようにも思えてくる。それにしても、本能にまかせながら、人間と折り合って暮らす猫とは面白い生きものだ。先週末は西日本、東日本ともに大荒れの天気となり、すっかり桜も散ってしまった。きっと日本中の猫が一斉に顔を洗っていたことだろう。〈花過ぎのしづかな空を川流れ〉〈さへづりのあたりきらきらしてゐたり〉『橋朧ーふくしま記』(2013)所収。(土肥あき子)


April 1642013

 春月の弦やはらかく傾きぬ

                           宮木忠夫

弦と下弦の具合がいまひとつ分からない。月を弓に見立てたときの弦が上を向いているか、下を向いているか。昇るときに上に向いた弦は、沈むときには下へ向くのだからなおのこと混乱する。調べてみると、満月に向かうときの半月を上弦、新月に向かうときの半月を下弦というらしい。一度はしっかり理解しなくては……と調べるのだが、調べるほどに無粋に思われて、いつも挫折をしてしまう。長谷川町子の『サザエさんうちあけ話』で、サザエさんの連載中読者から「何月何コマの絵は満月だったが、上弦の月でなければおかしい」という投書を紹介した際の絵が、今度は「上弦の月の絵がおかしい」との指摘が入り、「ダブルエラーですみません」と作者が深々と頭を下げている図がある。それはまるでこの鑑賞を何度も書き直している自分の姿にも重なる。とにもかくにも春月は、しっとりと水分をたっぷりと含んだほのぼのと淡く霞む月である。夜空をめぐるそのとき、身にまとう水分にうっとりと杯が傾くがごときに見えるのだ。というわけで、今宵は月齢5.7の月。『初雁』(2013)所収。(土肥あき子)


April 2342013

 桜貝入る拳を当てにけり

                           滝本香世

つの頃からか、どこの海岸に行ってももっとも美しい貝をひとつを選んで持ち帰っている。集めた貝殻を地図の上に置いていけば、いつか日本の輪郭をなぞることができる予定である。桜貝はニッコウ貝科の一種をいうようだが、桜色の二枚貝を総称する。波打ち際に寄せる貝のなかでも、水に濡れた薄紅色はことに目を引き、ひとつ見つければ、またひとつ、と貝の方から視界に飛び込んでくる。掲句の光景はしばらく波とたわむれていた子どもがあどけない声で問うているのだろう。うららかな春の日差しのもとで、繰り返されるおだやかなひとときだ。小さな掌に隠れるほどの貝が一層愛おしく、淡い色彩も、欠けやすいはかなさも、すべてが幸せの象徴であるかのように感じられる。「どっちの手に入っているか」と、突き出す濡れた指先にもまた桜貝のような可愛らしい爪が並んでいることだろう。「ZouX 326号」所載。(土肥あき子)


April 3042013

 落椿しばらく落椿のかたち

                           斉田 仁

花を称するには「散る」が一般的だが、椿だけは「落ちる」という。花のかたちが似ている椿と山茶花も、花の終わりで容易に区別ができる。花弁が一枚ずつはらはらと散る山茶花に対して、椿は花冠と雄蕊ごと落ちる。そして根元の部分が重いため、椿はどれも花を見せるように仰向けに落下する。そこが土でも、草でも、石の上でさえも、かたくなに天を向いて落ちる。そう痛んだ様子も見せず、黄金色の蕊をきらめかせながら、それはまるで地から咲いた花のような、不思議な美しさを湛えている。椿は固いつややかな葉で覆われているため、実際の花数は見た感じよりずっと多いことから、樹下が深紅の椿で敷き詰められているような幻想的な景色に出会うこともある。また、江戸時代に描かれた『百椿図』は、ありとあらゆるものに椿を取り合わせた絵巻物だ。どれも花を生けるというより、配置されているように見えるのは、やはり落ちた椿に抜き差しならぬ美を見出していたからだろう。〈朧夜は亀の子束子なども鳴く〉〈シャボン玉吹く何様のような顔〉『異熟』(2013)所収。(土肥あき子)


May 0752013

 合歓の花老いても老いても母なりし

                           岸波征美子

歓(ねむ)は、シダのように平たく開いた葉が、夕暮れになるとぴたりと閉じ、葉の気配をまるでなくしてしまう不思議な木である。一方、ブラシの先がふんわりと色づくような花は眠ることなく、夜の間も甘い香りを放ち続ける。光ある間の疲れを癒すように眠る葉と、取り残されるように漂う香りに、作者は老いた母の姿を思う。私事になるが、先月静岡に暮らす母が転倒した拍子に膝を骨折した。約三ヶ月の入院生活が強いられることとなり、だいぶ意気消沈している様子に、このところ以前よりも多く会いに戻っている。先日は私が13歳の夏休みに川へ自転車ごと落ちたときの話しになった。このとき幸い骨折はしなかったものの、私の膝には今も醜い傷が残る。「あんたは昔っからそそっかしかった」と言ってから、現在自分の置かれた状況に気づいて笑い合った。母との話題は、会うたびに過去へとさかのぼる。お互いこれからのことは怖くて触れられないのかもしれない。掲句では中七のリフレインが、これから重ねる月日の長からんことを切に祈る気持ちにも触れる。そして娘もまた、生涯娘なのである。折々で「あの時の母の年齢になったのだ」と、ときには驚愕しながら生きていく。母は今日、76歳になった。『合歓の花』(2013)所収。(土肥あき子)


May 1452013

 薫風一枚ペーパーナイフに切られけり

                           中尾公彦

路樹の緑が日に日に濃くなり、木もれ日がきらきらと跳ね回る季節となった。梅雨の前のひとときは花の香りを含んだ風のなかで、清潔な明るさに包まれる。薫風とは、山本健吉によると「水の上、緑の上を渡って匂うような爽やかさ感ずる夏の南風」とある。生気溌剌たる風の触手が、触れたものの香りを掬いとって大気へと放つというわけだ。掲句では、ペーパーナイフを使う所作に、薫風も切り分けているのだとふと自覚する。愛用者は「切り屑が出ない」「書類まで切ってしまう失敗がない」などの長所を挙げるが、机上に常備しているのは少数派だと思われる。とはいえ、ペーパーナイフには特化を極めたものの美しさがある。ステンレス製、木製、象牙や水牛の角などさまざまな素材からなり、持ち手のカーブや装飾など、手になじむ心地よさを追求した結果の、もののかたちである。開封するという目的だけに作られたシルエットの美が、麗しい季節を最大限に引き立る。『永遠の駅』(2013)所収。(土肥あき子)


May 2152013

 万緑のなかを大樹の老いゆけり

                           佐藤たけを

歩コースにある鬼子母神の大銀杏は、黄落はもちろん見事だが、この時期の姿もことのほか美しい。幹はいかにも老樹といった風格ではあるが、その梢から無数に芽吹く若葉青葉は若木となんら変わりなく瑞々しく光り輝く。万緑には圧倒されるパワーを感じるが、掲句によって、その雄々しく緑を濃くする新樹のなかに老木も存在することにあらためて気づかされる。屋久杉やセコイヤなどの木の寿命は数千年に及ぶというから、100歳で長寿という人間から見ればほとんど不老不死とも思える長さだ。鼠も象も一生の心拍数は同じといわれるが、もし大樹に鼓動があるとしたら、どれほどゆっくりしたものになるのだろうか。今度幹に手のひらを当てるときには、きっとゆっくりと打つ心音に思いを馳せることだろう。青葉若葉に彩られ、大樹はまたひとつ、みしりと樹齢を重ねてゆく。〈一斉に水の地球の雨蛙〉〈うつくしき声の名のりや夏座敷〉『鉱山神』(2013)所収。(土肥あき子)


May 2852013

 青竹の天秤棒に枇杷あふれ

                           江見悦子

りたての青竹に下げられた籠にあふれんばかりの枇杷の色彩が美しい。枇杷の産毛がきらきらと光り輝いている様子まで目に見えるようだ。あるところに「わたしの好物」という文章を寄せるにあたり、迷いなく枇杷について書かせてもらったことがある。そこで枇杷色のことについて触れた。日本の伝統色でありながら馴染みが薄い色名であるが、そのふっくらとしたまろやかな語感にはいかにも枇杷全体が表れているようで、なんとか周知したいと願っている。掲句の夢のような景色に出会うためには中国太湖まで足を伸ばさねばならないようだが、しかし路地を枇杷売りが「びーわー」とのどかにやってくる枇杷色の夕暮れを想像させてもらっただけで幸せに胸はふくらみ、頬はゆるむ。ところで、ひとつの文章に同じ単語を繰り返さないというのは、作文の時間で習ったごく初歩的な禁忌であるが、枇杷好きが高じて今日の文章のなかには九つもの枇杷が登場してしまった。〈潮待ちの港に蝦蛄の量り売り〉〈月桃の葉に爪ほどのかたつむり〉『朴の青空』(2013)所収。(土肥あき子)


June 0462013

 十薬や予報どほりに雨降り来

                           栗山政子

年も5月14日の沖縄を皮切りに、例年だと今週あたりで北海道を除く日本列島が粛々と梅雨入りする。サザエさんの漫画では雨のなか肩身狭そうに社員旅行をしている気象庁職員や、あまり当たらないがたまに当たることから「河豚」を「測候所」と呼んでいた時代もあったというが、気象衛星や蓄積データの功績もあり、いまや90%の確率という。十薬とはドクダミをいい、日陰にはびこり、独特のにおいから嫌われることも多いが、花は可憐で十字に開く純白の苞が美しい。掲句では、雨が降ることで十薬の存在をにわかに際立たせている。さらに「予報どほり」であることが、なんともいえない心の屈託を表している。毎朝テレビを付けていれば、また新聞を開けば目にする天気予報である。天気に左右される職業でない限り、通り雨や日照雨(そばえ)を「上空の気圧の谷の接近で午後3時から5時までの間でにわか雨となるところがあるでしょう」などと解明されるのは、どことなく味気ないのだ。いや、的中することが悪いというわけではない。お天気でさえ間違いがないという、そのゆるぎなさに一抹のさみしさを感じるのだ。せめて「今日の午後は狐の嫁入りが見られるでしょう」のように、民間伝承を紛れ込ませてくれたら楽しめるような気がするのだがいかがなものだろう。〈喉元を離るる声や朴の花〉〈露草や口笛ほどの風が吹き〉『声立て直す』(2013)所収。(土肥あき子)


June 1162013

 洗はれて馬の鼻梁の星涼し

                           鈴木貞雄

は栗毛や葦毛などの毛色とともに、顔や脚にある白斑が大きな特徴になる。額にある白斑を「星」と呼び、額から鼻先へ流れるそれを「流星」と呼ぶのは、いかにも颯爽とした馬に似つかわしい美しい名称である。乗馬を終えた馬は思いのほか汗をかいており、夏はクールダウンのため水をかけることもある。鞍を外し、水を浴び、全身を拭いてもらった馬は誰が見ても「あー、気持ちよかった」という表情をする。長い年月人間と関わってきた動物には、言葉はなくとも意思をやりとりできる術を心得ているのだろう。あるじの手入れの労に応えるように、洗い立てのつやつやした四肢を輝かせ、頭をぶるんとひと振りすれば、額の星がひときわ白く映える。それはまるで夏空にきらめく涼やかな星のように。〈てのひらに叩き木の芽を覚ましけり〉〈二番子にやや窶れたる燕の巣〉『墨水』(2013)所収。(土肥あき子)


June 1862013

 草刈女草に沈んでゐたりけり

                           平沢陽子

雨の晴れ間にやらなければならないことのひとつに庭の草むしりがある。雑草を根こそぎ抜くには、やわらかく雨を吸った土は絶好のコンディションである。草むしりの極意は、雑草の名を知ることだという。名を知れば、特性が分かりそれぞれの対処が可能になる。それにしても、行うまではあれほど億劫なのに、いざ始めると時間を忘れてしまうほど没頭してしまう不思議な作業である。茎から根をまさぐり、ずるずると引き上げる。草を排除しているというより、草や土とひとつながりになっているような感覚も、出来高が目に見える達成感も得難い。掲句の一心に作業する草刈女が刈り取った草のなかにうずくまる様子もまた、青々とした草いきれに包まれ、まるで草のなかから生まれたように見えてくるのではないか。『花いばら』(2013)所収。(土肥あき子)


June 2562013

 縄跳びの二重くぐりや雲の峰

                           金中かりん

雨が続くなか、ふとした晴れ間にははっきり夏の刻印が押されたような雲が空に描かれる。縄跳びは冬の季語にもなることがあるが、この場合は夏の遊びとして扱われている。二重くぐりとは、二重跳びと呼んでいたものだと思う。一度跳ぶ間に二回縄を回す跳び方だ。縄は耳元でびゅんと風を切り、高く跳ぶ足元を心地よく二度通過する。二重跳びや、逆上がり、跳び箱など、初めて成功したときはまるで奇跡が起こったかのような嬉しさだが、一度できてしまえばあとは身体が覚えてくれている。振り返ってみれば、あれもこれもできるはずもないと思っていたことばかりだ。夏空に描かれた力瘤のような雲の峰が、新しいなにかへ力を貸してくれるように、もくもくと湧き上がる。〈鶏頭の凭れ合ひしが種子こぼす〉〈暗闇にくちなはの香の立つてをり〉『かりん(※書名は漢字)』(2013)所収。(土肥あき子)




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