O謔「句

January 0312013

 ひろげれば版の香りや絵双六

                           和田 誠

版刷りの双六だろうか。私が小さいころにはこんな古風な双六はもうなかったように思う。流行はじめた漫画の主人公を題材にした付録の双六が兄たちが購読していた月刊雑誌の付録についていて、そのお相伴をさせてもらった。もう少し後の世代になると「人生ゲーム」や「モノポリー」だろうか。久しぶりに顔を合わす従妹たちと炬燵に集まって双六式のゲームをしたのは楽しい思い出だ。グーグルで絵双六を検索すると戦前の双六には趣向を凝らした絵柄のものがたくさんある。四つ折りにした絵双六を広げると真新しいインクの匂いがしたことだろう。「版の香り」が正月のすがすがしさと呼応して目の前に広げられる絵双六の華やかな絵柄を想像させる。うちの子供たちが正月に帰省したときはテレビの前に集まって「スーバーマリオ」に打ち興じていたけど、この頃の子供たちの遊びは何なのだろう。久しぶりに家族でゲーム版を広げてゲームというのも正月らしくていいかもしれないですね。『白い嘘』(2002)所収。(三宅やよい)


January 1012013

 目が見えて耳が聞こえて冬の森

                           山田露結

が多いのが森、森より木が少ないのが林。と小学校のときに漢字を習ったときに教わった覚えがある。本当のところはどうなのだろう。夏の間あんなにも生い茂っていた葉をすっかり落としてしまった冬の森、青空もあらわに、遠くの音もすぐ近くに聞こえる気がする。冬の澄み切った大気に五感も研ぎ澄まされ、自分の目が見えて、耳が聞こえることが今更のように意識される。目が見えて、耳が聞こえる主体は勿論人間である自分なのだろうが、森それ自体が耳をすまし目を見開いているようだ。冬の森と「わたし」の感受性が共鳴しているのだろう。森の中には冷たい大気のように腹を空かせた猛禽類もいて聞き耳をたてているかもしれない。と勝手な想像はどんどん膨らんでゆく。「歩道橋より氷海を見下ろせる」「あゝこれも中古(ちゅうぶる)の夢瀧涸るる」『ホームスイートホーム』(2012)所収。(三宅やよい)


January 1712013

 いくたびも名を呼び冬の星増やす

                           月野ぽぽな

書きに「コネチカット銃乱射に倒れた子供たちの冥福を祈り」とある10句のうちの最終に置かれた句。12月14日にアメリカで起きた20人の児童を含む26人が犠牲になった事件を悼んでの連作である。この事件で連想されるのは2001年6月に起こった池田小学校の事件だが、当時中学校に勤めていた私は突然教室を襲う暴漢に対処する訓練を受けた。そのとき生徒の立場で最後尾の列に座っていた私は教室後部のドアをいきなりあけて飛び込んできた暴漢役の先生が手に持つ武器で「あっ」という間もなく刺されていた。訓練だとわかっていても襲われた瞬間の恐怖は忘れられない。子供たちはどんなにか怖く痛かったことだろう。恐怖のうちに凶弾に倒れた子供たちを思うと、何ともいえない心持になる。この「何ともいえない」心持ちを俳句に託し読み手へ差し出すまでの道筋は遠い。言葉は正直なので薄っぺらな同情や偽善は炙り出されてしまう。連載された10句そして、掲句からは理不尽な凶弾に命を奪われた子供たちに対する作者の憐憫がひしひしと感じられる。俳句でこうした事件を詠む困難さに躊躇する前に暖かな感情を込めた言葉が動く作者の在り方に深く敬服する。『里』(2012/12月号第3巻第17号 通巻第117号)所載。(三宅やよい)


January 2412013

 その息の白いたましひつぽいかたち

                           佐山哲郎

の冷たい空気に吐く息が白っぽく見えるのは冬ならではの現象。その息の形が魂っぽく見えるってどんな形だろう。漫画の吹き出しのようでもあるが、はぁーと全身でため息をついて脱力したのかもしれない。そういえば昔、少年雑誌のグラビアに掲載されていた心霊写真にエクトプラズマ現象を写したものがあり、男の人の口から魂がとろーんと出ていて、おどろおどろしく怖かった。「その息」と限定しているわけだから、特定の人の白息がよっぽど太く、白く見えたのだろう。タバコで吐きだす煙にも。愛煙家によって個性があるように白息にも人によって特徴があるかもしれない。今日は出勤時に駅のプラットホームで電車を待つ人が吐く息に注目してみよう。『娑婆娑婆』(2011)所収。(三宅やよい)


January 3112013

 グリム読む天井に出し雪の染み

                           石井薔子

の頃は「青空文庫」で昔懐かしい童話が手軽に見つけられる。この句に触発され、さっそくグリム童話の「白雪姫」を電子書籍版でダウンロードしてみた。何と日本語訳は菊池寛になっている。「むかしむかし、冬のさなかのことでした。雪が鳥の羽のようにヒラヒラと天からふっていましたときに、ひとりの女王さまがこくたんのわくのはまった窓のところにすわってぬいものをしておいでになりました」と物語は始まる。寝床に入って暗い天井を見ながら母親に読んでもらった童話の数々。天井にしみ出した雪の染みが動物に見えたり、魔法使いの顔になったり、ぼんやりと見つめるうちに深い眠りに引き込まれてゆく。絶え間なく降り積もり雪は雪国では死活問題だろうが、東京に住む私にとっては別世界の象徴でもある。雨の染みではなく「雪の染み」なればこそグリム童話が似つかわしいのだろう。『夏の谿』(2012)所収。(三宅やよい)


February 0722013

 ふりそそぐひかり私の逆上がり

                           徳永政二

かった冬を抜け、ようやく立春を迎えた。これからは一日一日日が長くなり、日差しは明るさを増してゆくだろう。本格的な春がどんどん近づいてくる。「光の春」はロシアで使われていた言葉らしいが、緯度の高い国々に住む人たちにとって春は希望そのもの。降り注ぐ光に春を待つ気持ちが強く反応し、この言葉が生まれたのだろう。鉄棒を握って「えいっ」とばかりに足を振り上げて回る逆上がり。まぶしい青空がうわっと顔に降りかかりくるっと回転する。逆上がりが苦手な私はなかなか回転出来なかったので、あおむけの顔に日の光を存分に浴びた覚えがある。眩しい日差しと手のひらの鉄の匂い。もうすぐ春がやってくる。掲句は川柳フォト句集のうちの一句。『カーブ』に引き続き、写真と川柳のセンスあるコラボレーションがふんだんに楽しめる。「春がくる河馬のとなりに河馬がいる」「あの人もりっぱな垢になりはった」『大阪の泡』(2012)所収。(三宅やよい)


February 1422013

 中年やバレンタインの日は昨日

                           小西昭夫

レンタインは昨日だったのか!と後から思うぐらいだからチョコレートのプレゼントはなかったのだろう。バレンタインデーと言っても楽しいのはお目当ての彼氏がいる若い人たちばかり。大方の中年男性は職場で義理チョコを差し出されて初めて気づく日だろう。義理チョコをもらっても食べるのは奥さんか子供。ホワイトデーのお返しは買った方がいいかな、返す必要もないか、なんて頭を悩ますのも気重である。「中年や遠くみのれる夜の桃」と西東三鬼を思わせ初句の出だしではあるが、今の中年はこの句が醸し出すエロスからも遠く、冴えない現実を送っているのだ。「ゴミ箱につまずくバレンタインの日」(東英幸)なんて句もあり、そんなお父さんたちが空手で家に帰ってきても「チョコレートは?」なんて聞かないように。『季語きらり』{2011}所載。(三宅やよい)


February 2122013

 風光る一瞬にして晩年なリ

                           糸 大八

というにはまだまだ寒い毎日だけど光はふんだんに降り注ぎ、あたりの風景を明るくしている。寒気の残る風が光るという発想を誰が見出し、季語になっていったのか。近代的抒情を感じさせる言葉だが正岡子規も用いているぐらいだから使われだして長いのだろう。もちろん風そのものが光るわけではないが、今までくすんで見えた黒瓦だとか生垣などが輝きを増すにつれ、それらを磨きあげる風の存在を感じる。「一瞬にして」の措辞は光のきらめきから引き出されているのだろうが、その言葉に対して「晩年」の二文字が時間の対比を際立たせる。一日一日は長いのに今まで歩んできた月日のあっけなさを思わずにはいられない。いつが自分の晩年なのか、人生後半にさしかかると、春の明るさのうちにこうした句が身にしみる。『白桃』(2011)所収。(三宅やよい)


February 2822013

 大空にしら梅をはりつけてゆく

                           山西雅子

戸の偕楽園では2月20日から「梅まつり」が始まる。梅の香に着実に近づいている春を感じることができることだろう。いつも散歩で通りかかる近所の家のしら梅も見ごろである。「白梅のあと紅梅の深空あり」の飯田龍太の句にあるごとく本来は白梅より紅梅の花期はやや遅いようだ。しら梅の姿そのものが早春の冷たさのようでもある。カンと張り切った青空に五弁の輪郭のくっきりとしたしら梅を見上げると「はりつける」という形容が実感として感じられる。それだけでなく一輪一輪ほころんでゆくしら梅を見つめての時間の経過が「ゆく」に込められており、日々しら梅を見つめ続ける作者の丁寧なまなざしが感じられる。毎年、青梅の吉野梅林を見にゆくのだけど今年はいつが見頃だろうか?楽しみだ。『沙鴎』(2009)所収。(三宅やよい)


March 0732013

 ぶつかって蝶が生まれる土俵かな

                           小倉喜郎

よいよ春場所が始まる。先場所は日馬富士が全勝優勝したが今場所はどうだろう。昔地方に住んでいて、毎日中入り前から相撲中継を見ていたときには一度本物の勝負を見てみたいものだと思っていた。東京にきてその気があればいつでも両国国技館へ行けるのになかなか腰が上がらない。実際見に行った人の話では張り切った力士の身体と身体のぶつかる音、組むうちにだんだん赤みを帯びてゆく肌の色など臨場感にあふれたものらしい。やっぱり何でもライブが一番。立ち会いのぶつかり合うその瞬間、火花ではなくひらひら紋白蝶など生まれる発想が奇想天外のようで説得力があるのは柔らかな力士の肉体がイメージとしてあるからか、など掲句を眺めながら考えている。『あおだもの木』(2012)所収。(三宅やよい)


March 1432013

 鶴帰るとき置いてゆきハルシオン

                           金原まさ子

ルシオンは睡眠薬。ごく普通に処方される薬のようで海外旅行に行くとき、季節の変わり目などで寝つきが悪いときなど私も処方してもらった覚えがある。なんと言っても「ハルシオン」という音の響きの良さ、楽曲や芝居の題名のようだ。鶴の優雅さと白妙の羽の白さが睡眠薬の錠剤の色を連想させる。鶴が置いてゆくハルシオンは良く効きそうだ。西東三鬼の句に「アダリンが白き軍艦を白うせり」という句があるが、アダリンは芥川龍之介も用いていたらしい。昔の睡眠薬は強い副作用を伴ったようだが最近はだいぶ改良されたと聞く。それでも睡眠薬という言葉は不安定な心の在り方と「死」を連想させる。神経を持つ動物は必ず眠るというが、自然に眠れなくなるのは動物としての機能が阻害され、脳が覚醒してしまうことで、眠りを意識して不眠が昂じるとはやっかいなことだ。掲句には「うつせみの世は夢にすぎず/死とあらがいうるものはなし」とヴィヨンの「遺言詩集」の言葉が添えられている。『カルナヴァル』(2013)所収。(三宅やよい)


March 2132013

 春昼や魔法の利かぬ魔法壜

                           安住 敦

法壜とは懐かしい言葉だ。「タイガー魔法瓶」などは会社の正式名に入っているところはともかくも日常生活で魔法壜という言葉にお目にかかる機会はほとんどない。今は「瓶」と「壜」の漢字の使い分けに正確な違いはないようだが、ガラスとの連想で言うなら「曇る」という字を含んだ「壜」がより好ましく感じられる。湯沸かしポットが登場して以来卓上に置いてあった魔法壜は姿を消してしまった。昔の魔法壜は内側がガラスで割れやすく、遠足で友達の魔法壜仕様の水筒を落として割ってしまった苦い思い出がある。昭和30年代当時は小学生が持つ水筒としては高級品だった。お湯が長い間冷めないからと「魔法壜」なんだろうが掲句の魔法壜はすぐお湯が冷めてしまうのか?リフレインを含んだ言回しと、ちょっと間延びしたなまぬるい春昼の雰囲気とがよく馴染んでいる。「日本大歳時記」(1983)所載。(三宅やよい)


March 2832013

 もう春の月と呼んでもいい親しさ

                           中西ひろ美

晩、犬の散歩で東の空を見上げる。冬の月は寒々とした空に鋭く光って、冴え冴えとしており峻厳と言った形容が似合う。その月がぼんやりと湿気を帯びた空気に黄色味が強くなり雪洞のような温かみが感じられるようになるとコートを脱いで身軽に歩ける春の夜の訪れである。「外にも出よ触るるばかりに春の月」の中村汀女の句が懐かしく思い出される。3月に入って、昼は初夏のような陽射し照らされ、夜は冬の寒さに震えたりとジェットコースターのような気温の変化に悩まされている。今か今かと開花準備をしていた桜もさぞとまどったことだろう。この頃は着膨れないで犬の散歩に出かけられるようになった。今宵は満月、やさしい春の月が浮かぶ空を見上げながら掲句をほろりと呟いてみたい。『haikainokuni@』(2013)所収。(三宅やよい)


April 0442013

 花冷の醤油の瓶にかこまれをり

                           ねじめ正也

京の桜はそろそろ終わりか、早々と開花したわりに、三月下旬の気温が低かったおかげで花持ちがよかった。一升瓶に入った醤油がずらり置かれている情景を考えると食料品店だろう。日銭を稼ぐのが基本の商売だから世の中が花見で浮かれていようが商売を休むことはない。何だか今日はやけに冷えるなと帳場に座って手をこする。回りは真っ黒のショウユビンがずらりと並んでいる。「花冷え」というはかない美しさを持った言葉とずっしりと重量を持った日常が静かに一体化してゆくようだ。自分を軸に営まれる現実の生活と俳句の季語の織りなす世界が重なってゆけば日々の生活が豊かになる。逆に言えば観念としての季語に肉付けするのは時代を生きるそうした個々の生活感情と言えるかもしれない。作者は詩人で作家であるねじめ正一氏の父君、掲句が収録されている句集には清水哲男さんが解説を書いている。『蠅取リボン』(1991)所収。(三宅やよい)


April 1142013

 まっさらなノートを下ろす花の雨

                           陽山道子

も書いていないまっさらなノートの1ページ目を開いて書き始めるのはいつでも少し緊張する。学生時代友達のノートを借りて、余白の白も清潔に整然と並んだ几帳面な文字列に圧倒された思い出がある。私の場合いつだって綺麗に使おうと思って書き始めるのに、2ページ、3ページと使ううち乱雑になってゆく字と無原則な書き込みにノートはボロボロになっていった。使うことと汚すことが同義であるような私にとっておろしたてのノートはいつだってまぶしい存在だ。掲句は目の前に開くまっさらなノートと柔らかに降り続ける花の雨の取り合わせが素敵だ。ノートと同様、これから始まる新しい学年、新しい学校での生活に初々しく緊張している心持が想像される。白いページに字を記していく後ろめたいような、もったいないような気持ちが花びらを散らす雨の情感に通じるようだ。せめて、しめやかに花を散らさぬよう降っておくれ、花時の雨ほど降り方が気にかかる雨はない。『おーい雲』(2012)所収。(三宅やよい)


April 1842013

 寝ぶそくの日や輝きて木の芽と鳩

                           八田木枯

田木枯少年句集には作者が10代の頃からの作品が収録されている。昭和初期若い俳人は俳句の世界で早熟な才能を現していた。昭和30年代の俳句の頂点ともいえる時代を支えたのは10代の頃より俳句を作り始めた俳人たちだった。石田波郷、三橋敏雄、伊丹三樹彦、みな10代で代表作といえる俳句を生み出している。俳句が若者と老人の文学と言われる由縁がそこにあるのかもしれない。さて掲句であるが、年を重ねると夜更かしするにも体力がなくなり翌朝はひたすら身体がだるいだけだが、緑のつやつやした葉っぱを噴きだす木の芽と鳩ばかりでなく寝ぶそくの若い肉体も季節のただ中で息づいている。私などは若い頃はひたすら自分の若さが疎ましかったが、この句集に収録されている句の数々は、若い時期にしかできない表現を俳句で定着させようとする意欲が感じられる。昨年逝去した俳人をしのぶ貴重な句集だと思う。『八田木枯少年期句集』(2012)所収。(三宅やよい)


April 2542013

 春惜しむ兎の耳の冷たさに

                           澤 好摩

サギの耳は本当に冷たいのだろうか。熱燗の熱さに「アチッ」っと耳を触る仕草をする場面がドラマなんかには出てくるけど、人間の耳たぶ同様冷たいのかも。辻まことの「けもの捕獲法」の狩人の話に「兎は耳がちっと長え。なぜ長えかというと、ヤツは目が近目でな、つまり目がわりいすけ自ずと音でモノをききわけるだな」とあり、遠くからでかい声で「ウサギー」を呼ぶ、だんだん間合いを詰めながら声を小さくしていくと、ウサギは馬鹿な人間が見当違いな方向に行っていると思う、最後に耳元で蚊のなくような声で「ウサギー」とささやくと、すっかり安心して目をつぶる、そこを耳をつまみあげて捕まえる。とあったけど、本当かなぁ。春全体のほんわかした空気が兎全体の毛の柔らかさだとすると、耳の冷たさには、時々思い出したようにぶりかえしてくる春の寒さかも。過ぎさってゆく季節の端境にある微妙な寂しさが「兎の耳の冷たさに」託されているように思う。『澤好摩句集』(2009)所収。(三宅やよい)


May 0252013

 ウーと出てマンボと続く潮干狩

                           佐山哲郎

ういう俳句の良さを伝えるのは難しい。まず「ウー、マンボ!」とマラカス両手に軽快に身体を揺する曲の出だしを知らないと、このワクワク感が読み手に伝わらないだろう。頭の中で鳴り響くマンボのリズムにのって熊手とバケツを提げ、ズボンをまくり上げて海に入ってゆく。開放感にあふれた気分に青い海と空が眩しい。映画の1シーンとして背後にこの曲を流してみれば昔懐かしい日本映画と言った雰囲気。これから潮干狩りを思うたび私の中ではこの曲が流れそうである。「マンボ五番「ヤア」とこどもら私を越える」川柳の中村富二の句にあるが、こちらも同じ曲を主題にしていると考えられる。いずれもレトロな昭和の記憶を引き出す句である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(三宅やよい)


May 0952013

 この顔を五月の風にあづけけり

                           三吉みどり

葉風、薫風。五月は湿気も少なく、柔らかなみどりの若葉が心地よい風を送ってくれる。四季折々風や雨に名前が付いているが、この季節の風ほど気持ちよく匂いやかな風はないように思う。吹く風に「顔をあづける」のだから爽やかな風に思う存分頬を打たせているのだろう。新緑の道をゆく爽快さが感じられる。「この顔」「五月」と頭韻を踏むなだらかなリズムがさらりと吹き抜けてゆく五月の風のようだ。夏に向かう明るさをはらんだこの時期を思う存分満喫しているさまが想像できる。「手をたたきましよ鯉が来る夏が来る」「ガラス器に淡き影ある夏はじめ」等も季節を先駆けるみずみずしい気分に満ちた句である。『花の雨』(2011)所収。(三宅やよい)


May 1652013

 たけのこに初めてあたる雨がある

                           中西ひろ美

けのこの伸びるのは早い。「竹の子がほめてほめてと伸びてゆく」という紀本直美の句があるけど、本当にとどまるところを知らない伸び方である。地面からちょいと頭が見えかけたものでも掘りさげるとかなり大きなサイズのたけのこになる。掘り起こしたら早めに料理しないと日が経てばたつほどエグミが出てくる。堀ったばかりのタケノコを刺身のように薄く切って食べるのが一番旨いというがまだ試したことはない。暗い地下からほっこり頭を出したタケノコに当たる雨は若葉雨だろうか。土の匂いとたけのこに降り注ぐ柔らかな雨を思うと読む側の心持もしっとりとしてくる。ぽこっと芽を出したたけのこをじっと見つめている作者のまなざしの優しさが伝わってくる句だ。「古い匂いも出てくるこどもの日」「京都までおいで一通の若葉」『haikainokuni@』(2013)所収。(三宅やよい)


May 2352013

 鏡なすまひる石階をゆく毛虫

                           金尾梅の門

桜のころは毛虫が多くて、おちおち桜の木の下で遊べなかった。あの黒くもにゃもにゃした毛虫は今でも桜を食い荒らしているのだろうか。都会では桜並木の下でもあまり毛虫を見ないように思う。掲句、鏡なす昼の光に石段の照り返しが眩しい。何もかも動きを止めたような昼下がり、全身をくねらせながら石段を這ってゆく毛虫にふと目をとめたまま視線がはずせなくなったのだろう。もどかしいぐらいゆっくりした毛虫の動きが時間の長さを読み手に感じさせる。金尾梅の門(かなおうめのかど)古風な俳号を持つこの俳人は大須賀乙字に学んだ富山生まれの俳人だそうだ。『現代俳句全集』(1958)所載。(三宅やよい)


May 3052013

 きすべらとべらべらきすと選り分けて

                           榎本 亨

すもぺらも瀬戸内でよく捕れる小魚。もうそろそろきす釣りは始まったろうか。夏に広島へ帰省した時には親戚一同で小舟を出して糸釣をした思い出がある。きすは銀色、ぺらは虹色の鱗を持つ小魚で天ぷらにしたり煮付けにするとおいしい。両方とも淡泊な味わいの白身魚だ。船の上で船頭さんが釣りたてのキスをさばいて船飯を作ってくれたが、その味は忘れられない。釣果を提げて家に帰ってからは大変。掲句のように「きすぺらぺと」より分けながら鱗を引いてさばいてゆく。このときばかりは、いい気になって次から次へ釣り上げていった昼間の楽しさが恨めしくなる。さばき終えた小魚を、煮て、焼いて、てんぷらにして大勢で賑わう食卓で夕飯が始まる。『おはやう』(2012)所収。(三宅やよい)


June 0662013

 逝く猫に小さきハンカチ持たせやる

                           大木あまり

むたびに切なさに胸が痛くなる句である。身近に動物を飼ったことのある人なら年をとって弱ってゆく姿も、息を引き取るまで見守るつらさを知っているだろう。二度と動物は飼わないと心に決めてもぽっかり穴のあいた不在を埋めるのは難しい。この頃はペットもちゃんと棺に入れて火葬してくれる業者がいるらしいが、小さな棺に収まった猫に小さなハンカチを持たせてやる飼い主の気持ちが愛おしくも哀しい。とめどなくあふれる涙を拭いながら、小さい子供が幼稚園や小学校に行くときの母の気遣いのようにあの世に旅立つ猫にハンカチを持たせてやる。永久の別れを告げる飼い主の涙をぬぐうハンカチと猫の亡きがらに添えられた小さなハンカチ。掲句の「ハンカチ」は季語以上の働きをこの句の中で付与されていると思う。『星涼』(2010)所収。(三宅やよい)


June 1362013

 玉手箱風なり 開ければさくらんぼ

                           伊丹三樹彦

形名産「佐藤錦」を送っていただいたことがある。蓋を開ければぎっしりと大粒のさくらんぼがきれいに詰められていて、ルビー色に光るその美しさにため息が出た。詰められた箱は何の変哲もない白い果物用のダンボールだったのだけど、蓋を開けたときの感嘆はまさしく玉手箱を開けたときの驚きだった。掲句では、そうした感嘆の比喩ではなく詰められている箱そのものが玉手箱のようなので「玉手箱風」なのだろうか。この「〜風」が謎だけれど、箱詰めにされた「さくらんぼ」ほどきらめきが魅力的な果物はないように思う。その美しさは虚子の「茎右往左往菓子器のさくらんぼ」の自在さとはまた違った魅力がある。『続続知見』(2010)所収。(三宅やよい)


June 2062013

 青梅雨や部屋がまるごと正露丸

                           小林苑を

ッパのマークの正露丸。お腹が痛いときのみならず虫歯にも効くという万能薬。その昔、フンコロガシの糞のような正露丸や黄色っぽい肝油を顔をしかめて飲んだものだ。あの独特のにおいと味。漢方薬を飲み慣れた人はなんとも思わないかもしれないが、小学生の私には嫌な薬だった。梅雨時のじめじめした部屋が「まるごと」正露丸!まるで部屋の中にいる自分も正露丸の中に丸め込まれたみたい。じめじめと毎日降り続く雨に悩まされているとき、陰気臭くてやだなあ。と愚痴をこぼす代わりに「部屋が丸ごと正露丸」と呟けば漫画チックな図が想像されてクスッと笑えそう。『点る』(2010)所収。(三宅やよい)


June 2762013

 太る妻よ派手な夏着は捨てちまへ

                           ねじめ正也

ばさんを漫画に描くときにはむっちりした二の腕とたっぷりした贅肉をつけた体型で口のあたりにくっきりとした法令線を入れればそれらしくなる。パターンの描き方だが自分がその年齢になってみると何を食べてもすぐ太ってしまうのに閉口している。掲句の妻も中年過ぎてムクムク太ってきて若い頃似合っていた派手な色柄の夏着が似合わなくなったのだろう。花模様や大柄な模様は身体の肉付きをことさらたっぷり見せてしまうから厄介だ。この頃は昔ほど服装に年代層の差はなくなってきたように思うが、若い頃買ったものは型も古びており、何よりその服を着ていた若い頃の顔や体型との落差がありすぎて哀しい。端からその様子を見ている夫が「捨てちまへ」とかける言葉は妻に対する愛情なのだ。『蠅取リボン』(1991)所収。(三宅やよい)




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