@句

January 0412013

 段雲を冬月登る坂登る

                           沢木欣一

雲の段に「きだ」とルビ。きだぐもとは切れ切れの雲のこと。句には前書きがある。「達谷山房を辞すこと遅く」。このとき作者24歳。東京帝大国文科在学中である。当時楸邨の家は世田谷下代田の崖下にあった。同時期の楸邨作品に「澤木欣一に」と前書きを置いて「青蚊帳に茂吉論などもう寝ねよ」がある。楸邨居に押しかけ深夜まで論議を交わし蚊帳に入ってもまだ話やめない青春の瞬間が刻まれている。この句、泊らずに帰ることになって昂ぶった気持のまま崖下の家を辞して深夜の坂を登っている。前年四月に楸邨は波郷とともに「馬酔木」を脱会。八月には欣一と金沢、市振を経て佐渡に旅をし、この年十一月には欣一の応召を送って大洗まで同行する。「寒雷」初期のつわものたち、金子兜太、安東次男、古澤太穂、森澄雄、田川飛旅子、原子公平らは皆口を揃えて、自分は楸邨に特別に可愛がられたわけではないと言い張る。ここが面白いところで誰も自分が特別扱いとされたとは思っていないのだ。その中で欣一だけは別格だったような気がする。欣一は金沢の旧制第四高等学校出身。金沢で中学を出た楸邨が父病臥のため四高進学を断念した経緯があり、そのこともあってというのが通説だが、「茂吉論」など文学的興味が相通ずるところがあったのだろう。坂の途中の段雲、そこを登る冬の月。こういう瞬間を刻印できることが俳句の最たる特性。この段雲もこの坂もこの月もそこを登ってゆく一人の青年も永遠にそこに在りつづける。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


January 1112013

 寒燈の一隅を占め塑像の掌

                           黒田櫻の園

の園は金沢在住の俳人。戦後澤木欣一らと「風」を創刊。「馬酔木」の主要同人としても活躍した。この作句時は39歳。安東次男に次いで寒雷集の次巻頭を占めている。「寒雷」創刊からまだ三年、楸邨の出自である「馬酔木」から多くの若い俊英が投句していたことがうかがえる。前書きに「H氏アトリエ一句」。櫻の園は大学の歯学部を出たが、絵画、焼物の絵付、加賀友禅の絵柄などの製作デザイナーとしてその名を知られた。専門以外の分野に異才を放ったその後の傾向がこの句にも出ている。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


January 1812013

 かなしめば妻はこもれり冬灯の環

                           並木鏡太郎

雷集、一句欄に京都からの投句。鏡太郎さんは1902年生まれ2001年没。京都のマキノプロに入社して映画監督になり嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」シリーズをヒットさせた。このシリーズは40本以上製作され子役の「杉作」を美空ひばりが演じている巻もある。その後鏡太郎さんは東京に移られ毎月寒雷の句会に出席された。痩身でベレー帽に長いコート、いかにも映画人の風貌。披講の折、自分の句が読まれるとひとこと「カガミ」と名乗られた。奥さんは津路清子という芸名の女優。日本映画隆盛の時代の人気監督を影で支えている妻の存在がうかがわれる。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


January 2512013

 冬並木袴の黒を触れ帰る

                           小西甚一

治山田からの投句。作者は1915年生まれで2007年没。楸邨より十歳も年下だが楸邨が晩学だったため、東京文理科大では能勢朝次の担任クラスの同級生であった。氏は35歳で日本学士院賞を受賞し後年には文化功労者となるなど国文学者として名を成したが、俳句は早くからこの年上の同級生に師事。戦後もずっと「寒雷」に拠った。昭和五十年前後、上京して東京句会に現れ句会後の居酒屋で川崎展宏さんと酔っ払いの激論を交わしていたのも記憶に新しい。生真面目に対応する甚一さんにつっかかっていたのはもっぱら展宏さんの方であったが。この当時氏は28歳、文理科大学国文科研究科に在学中。袴を穿いて通学していたことがうかがえる。こういう句を見ると真摯な学徒としての日常を感じる。大戦争の戦時中ですらこの落ち着きである。学園紛争くらいで大騒ぎせず僕も若いうちにもっと勉強しておけばよかったと思うことしきりである。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


February 0122013

 枯園に音なきときぞ猫きたる

                           八木林之助

後「鶴」に投句。石田波郷に師事。鶴賞を受賞し波郷門の重鎮となった。1921年生まれで1993年没。この句の当時21歳。寒雷集二句欄に能村登四郎、森澄雄らと並んで出ている。同じ号の楸邨の句に「幾人(いくたり)をこの火鉢より送りけむ」がある。音をさせて出てくる猫ではなく、音が消えたときに出てくる猫。繊細な感覚が生かされている。「ぞ」を用いた句も最近とんと見ない。いつか使ってみたい。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)


February 0822013

 枯並木蒼天の北何もあらぬ

                           阿部しょう人

者は1900年生まれ1968年没。52年より俳誌「好日」を主宰。著書である俳句の手引き書「俳句 四合目からの出発」はさまざまの例句をあげて欠点を指摘する「べからず集」として話題を呼んだ。この句、新京大同広場の前書きがある。新京は満州国の首都で長春を改名したもの。敗戦の後はまた長春に戻った。「蒼天の北何もあらぬ」が島国に住むものにとっては想像を絶するほどの広大さを思わせる。「何もなし」にすれば字余りは避けられるのに「何もあらぬ」と置いた強い詠嘆を感じさせる効果。枯木立ではなくて枯並木と置いた工夫。どちらも類型を嫌う配慮が見える。才を感じさせるのに十分な手際である。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)

お断り】作者名「しょう」、正しくは竹冠に肖です。


February 1522013

 ねずみの仔凍てし瞼の一文字

                           平山藍子

の鼠の仔は死んでるのかな。生きたまま発見されたけど「凍てし」は寒い外気を喩える比喩なのか。どちらにしても鼠の仔が哀れだなあ。寒鴉なんか季語だし、鴉の孤影とかいってよく詠まれるけど、哀れを詠んでも余り物を少しやろうとかは考えないのだろう。はいはいそれはもっともです。害鳥ですからね。近くの公園で犬を連れて歩いていると近所の爺さんが家を出たり入ったりしてこちらをうかがっている。「犬の糞は持ち帰ること」と公園に貼ってあるのでこちらの所業を見張っているのかなと思い立ち去ってふりかえるとその爺さん、辺りを気にしながら公園のつがい鳩に餌をやっていた。公園には「鳩に餌をやらないで」とも書いてあるのでこちらの眼を気にしていたのだった。こんな爺さんを僕は好きだ。じゃあ、お前、ごきぶりとか蚊はどうなんだといわれると考えてしまうけど。鼠の仔もよく見ると可愛いよね。「寒雷・昭和45年3月号」(1974)所載。(今井 聖)


February 2222013

 二度呼べばかなしき目をす馬の子は

                           加藤楸邨

浜横須賀道路は横須賀に近づくにつれて左右が山。夜は車の数も極端に少ない。路側の灯だけが等間隔に続いていく。走っていていつも思うのはこの山には狸や狐や猪など野生動物が今この時も住んでいるのだろうかということ。ときどき「動物注意」の看板が出てくるから轢かれて死んだりするのも居てそれなりに動物は生息しているのだろう。何を食べているんだろう。冬だと飢えているのだろうな。個人的に飼ったことのある動物は犬、猫、雀、栗鼠(シマリス)、烏。(雀と烏は野鳥なので飼育は禁じられている。両方とも巣から落ちたのを拾ってきて傷が癒えたら野に帰したのである)それから住まいが家畜試験場の中にあったので鶏と豚。栗鼠を除いてはほんとうに賢かった。雀でも鶏でも喜怒哀楽はちゃんとある。雀にいたっては朝寝ているこちらの髪の中に入り込んで起こしにきた。今でもラブラドール犬の梅吉と一緒にベッドで寝ている。こんな句を読むといろんな奴らとの交流を思い出して胸が熱くなる。「角川文庫・新版・俳句歳時記」(1984)所載。(今井 聖)


March 0132013

 雪国やしずくのごとき夜と対す

                           櫻井博道

喩は詩の核だ。喩えこそ詩だ。しずくのごとき夜。絞られた一滴の輝く塊り。「対す」は向き合っているということ。耐えているんだな、雪国の冬に。この「や」は今の俳人はなかなか使えない。「や」があると意味が切れると教えられているから「の」にする人が多いだろうな、今の人なら。「の」にするとリズムの流れはいいけど「対す」に呼応しての重みが失われる。そういう一見不器用な表現で重みを出すってのを嫌うよね、このところは。こういうのを下手とカン違いする人がいる。そうじゃないんだな。武骨な言い方でしか出せない野太さってのがある。やっぱり巧いんだな、博道さん。「寒雷・昭和38年7月号」(1963)所載。(今井 聖)


March 0832013

 勝負せずして七十九年老の春

                           富安風生

、一度も「勝負!」と思ったこともしたこともなくて79歳に相成りましたという句。一高、東大法科を出て逓信省に入り、次官となって官僚の頂点に登りつめる。俳人としては虚子門の大幹部で「若葉」を創刊主宰そして芸術院会員だ。勝負してるじゃん。そんでちゃんと勝ってる。連戦連勝じゃんか。と思うのはこちらのひがみ根性。こういう人に限って勝負したという意識が無いんだな。自然体でなるべくしてなるところに落ち着いたんだと本人は思っていらっしゃる。あるいは、まあ可もなく不可もなくでございますくらいはおっしゃるのかもしれない。苦節何年とかいうのは歯を食いしばってるということだから勝負してるということ。風生さんには苦節の意識も無いんだと思います。あなたは風生を語るときにどうして彼の学歴とか社会的な地位とかを必ず言うのか、それは俳句の良し悪しと別のところで批評してることにならないかと問われたことがある。そうじゃないんだと僕は応える。風生俳句にはっきりと出ている余裕の風情、これは社会的な地位とも無縁ではない。そしてどこか俳句に対して「余技」の意識が感じられる。余技といってもいい加減に関っているという意味ではない。「たかが俳句、されど俳句」の両者の間合をよくわかっているということ。殊に主宰などと呼ばれる人には「されど俳句」の意識が強すぎてやたら肩に力が入ってる方がいらっしゃる。僕も気をつけなきゃ。どこかで「たかが俳句」の「謙虚」も大切なのだ。「別冊若葉の系譜・通巻一千号記念」(2012)所載。(今井 聖)


March 1532013

 田打ち花歩かされては牛買はれ

                           柴田百咲子

号ひゃくしょうしと読む。牛を市場で次々と歩かせて見せて値が付き買われていく。田打ち花は辛夷の花の俗称。田打ちの頃に咲くからということでついた呼び方だろう。この季語が活き活きとはたらいていることは田打ち花を「花辛夷」と置き換えてみるとよくわかる。「花辛夷歩かされては牛買はれ」。歩かされては買はれの「哀感」だけが強調されてツボどころを心得た巧みな句になる。花辛夷をうまく斡旋しましたねという感じ。言い換えれば巧みさだけが目立つ句。田打ち花とすることでその地に生きる実感が湧いて見えてくる。楸邨は歳時記を「死んだ言葉の陳列棚」と言った。陳列棚から選んできて句に嵌めこむという「操作」には、表現と自分とののっぴきならない関係が生じない。そのとき、その瞬間の自然に触れて得られた感動が表現の核になるべきだと。百咲子さんはまぎれもなく楸邨理念の実践者だ。「寒雷」(1972・9月号)所載。(今井 聖)


March 2232013

 櫻のはなし採寸のあひだぢう

                           田中裕明

明な句で日常詠である。「もの」の写生ではなくて事柄のカット。採寸の場には、採寸する人とされる人と二人しかいない可能性が高いのだからその両者の会話だろう。作者がその会話を聞いていたのではないとするなら、作者はされる側の人である。吊るしを買わずオーダーの服であるから懐に多少の余裕のある状況もわかる。僕は昔ブティックで働いていたので採寸をする人であった。採寸をする側は客の話題におあいそをいう。機嫌をそこねないように話を合わせるのである。採寸をする側とされる側の櫻のはなしから両者の立場や生活が次第に浮き彫りになっていく。人間社会を描くとあらゆる角度からその人間に近づく工夫ができる。自然も面白いけど人間はもっと面白い。『セレクション俳人・田中裕明集』(2003)所収。(今井 聖)


March 2932013

 天皇も老斑もたす桜かな

                           田川飛旅子

初読んだときはなんて世間的常識に乗った句だろうと思ったのだった。周知のごとく天皇は敗戦までは「現人神」であられた。負けたら「人間」になられた。その「常識」を踏まえて人間なんだから老斑も持たれるのだと詠んだ。俗臭ぷんぷんの述懐だなあと。最近はこの句が違ってみえてきた。田川さんは大正3年生まれ。昭和15年に応召。海軍大尉に昇進後、海軍少将橋本信太郎の娘信子さんを娶る。その義父は戦隊司令官として重巡羽黒に乗艦しペナン沖にて戦死。田川さんは職業軍人ではなかったが、軍幹部に見込まれた軍国日本のエリートの立場でもあった。そういう世代や立場の人にとって「天皇」という存在がどのように「現人神」であったかということについては戦後生まれの人間の理解と想像を超えるところがある。田川さんは東大出だが、当時の知識人としてそういう「常識」といかに折り合いをつけていたのだろうか。兵は死に瀕したとき天皇陛下万歳ではなく「お母さん」と叫んだというのも「戦後民主主義」によってつくられた意図的な「俗説」臭い。お母さんではなくて「天皇陛下万歳」と心から叫んだ兵も多かったはずである。それは軍国教育による悲劇(喜劇)と言ってしまっていいのか。「天皇の老斑」の問題は今も終わっていないように思える。『邯鄲』(1975)所収。(今井 聖)


April 0542013

 肛門が口山頭火忌のイソギンチャク

                           ドゥーグル・J・リンズィー

うか、肛門イコール口の生物もいるんだ。それが山頭火の生き方と重なる。なんて大胆で微妙な比喩だろう。山頭火の風貌や生き方、その短所も長所もひっくるめての肛門イコール口だ。こういう句はアタマの発想では出てこない。言葉から発する連関では出てこない。実際のイソギンチャクを目の前にして、じっと見て、見尽くして出てくる発想だ。もちろん知識も動員されている。この句を見たら芭蕉も子規も茂吉もうなずくに違いない。虚子はどうかなあ。『平成名句大鑑』(2013)所載。(今井 聖)


April 1242013

 花茣蓙やいたこに渡す皺の札

                           柏原眠雨

寄せともいうイタコは死者の声を伝える職業だ。どうしても死者に会いたいとき、声を聞きたいときに人はイタコを訪れる。花茣蓙に坐っているのはイタコとその客の両方だ。亡くなった人にどうしても聞いてみたいことってあるような無いような。もう絶対聞けないってのが科学的常識だからそんなことはハナから諦めるんだろうな、ふつうは。真実は墓場までもっていくと公言してそのとおり沈黙したまま亡くなった政治家や右翼の大物がいた。永久に明るみに出ない国家間の密約など政治の大悪事がゴマンとあるような気がする。そんなのも当人を呼び出して聞いてみたい。死者を呼び出すにも金がいる。地獄の沙汰も金次第というが、イタコにも生活がある。『平成名句大鑑』(2013)所載。(今井 聖)


April 1942013

 雁帰る攫はれたくもある日かな

                           大石悦子

あ、女性の句だなあと思う。作者が男性ならちょっとがっかりするかもしれない。でももし男性であっても病床にある人なら納得するかもしれない。攫ってくださる対象が異なるだけだから。僕は俳句には真実性が大切で真実か否かは必ずどこかで作品から滲み出すのが秀句の条件だと信じているので、仮に作者名を伏してもこの句が健康な男性の句である可能性は少ないと思うのだ。この句に表れる女性性は橋本多佳子や桂信子のそれと比べると似ているようで違う。多佳子なら攫われたしとはっきり言うだろうし、信子ならこう言わないでもう少し男と間合いを置いた表現にしそうな気がする。悦子さんの時代性は「も」にある。攫われたしというところまで受身に徹し切れない。徹することの気恥ずかしさがあるのかもしれないし、かといって攫われたいなどと言うことでの自らの女性性を認めたくないと肩肘張るわけでもない。「も」がこの方の時代性だと思うのだ。『平成名句大鑑』(2013)所載。(今井 聖)


April 2642013

 山桜あさくせはしく女の鍬

                           中村草田男

は俳句に何を求めるのだろうか。俳味、滋味、軽み、軽妙、洒脱、飄逸、諷詠、諧謔、達観、達意、熟達、風雅、典雅、優美、流麗、枯淡、透徹、円熟、寓意、箴言、警句等々。仮にこんな言葉で自分の句を評されてもちっともうれしくないな。草田男の句はこのどれにも嵌らない。人は何故生れたのか、何のために生きるのか、何をするべきなのか、どこへ行くのか、「私」とは何なのか、そんなことを考えさせてくれる作家だ。「あさくせはしく」が原初の性への認識を思わせる。また草田男の季語の使い方にはグローバルで普遍なるものを個別日本的なるものの上に設定しようとする意志を感じる。彼が花鳥諷詠を肯定したのもそういう理由からであったと思う。『朝日文庫・中村草田男』(1984)所収。(今井 聖)


May 0352013

 木魚ぽんぽんたたかれまるう暮れて居る

                           尾崎放哉

覚の作品。「まるう暮れて」がこの句の眼目。放哉は酒で身をもちくずし最後は寺男をして死んだ。放哉が幼少から青年期まで暮らした鳥取市立川町は近くに中川酒造という大酒造会社があって放哉はその脇を通って鳥取一中に通った。その通学路は寺の多い道である。鳥取市は池田藩三十二万五千石の城下町なので古い寺は多くそれは城周辺に集中している。鳥取一中は城跡にあったのだ。放哉にとって酒と寺との縁は生涯続いた。『大空』(1926)所収。(今井 聖)


May 1052013

 蜘蛛の子の散りたる後の蜘蛛と月

                           加藤楸邨

じ号の楸邨発表句に「すれちがふ水着少女に樹の匂ひ」がありそちらの方に眼を取られてこの句を見過ごしていたのだった。この句、子に去られたあとの親蜘蛛に思いを致している。蜘蛛に感情などあろうはずもない。子を産み育てるのは本能だ。しかし、子がたくさん去ったあとの親蜘蛛の孤独がこの句のテーマ。蜘蛛をおぞましい対象として捉える「通念」への抵抗も感じられる。「もののあはれ」とはこういうことなんだろうなとあらためて思った。「寒雷・350号記念号」(1962)所載。(今井 聖)


May 1752013

 夏座敷母と見知らぬ人のおり

                           西橋朋子

の句の仕掛けは同性としての母に感じる性的な匂い。それを読者に暗示するところにある。それ以外の表現の動機は考えにくい。そこが魅力。父だと会社の同僚でも来ているのか、そんなのは面白くもなんともない。母だからいいのだ。母に客があってたとえば同性のほんとうに只の「見知らぬ人」だったとしたら作者は何を言いたくて書いたのか不明になる。そんな只事のどこに「詩」を見出せようか。まさか座敷ワラシでもあるまい。同じ趣旨の寺山修司の句に「暗室より水の音する母の情事」がある。これを読んだ寺山の素朴なお母さんが怒ったという逸話があったような。俳句はもちろんフィクションでかまわないが寺山のように書くと仕掛けが顕わになる。これみよがしと言ってもいい。「見知らぬ人のおり」ぐらいが俳句性との調和かもしれない。情事なんていうよりもこちらの方がもっと淫靡な感じもある。『17音の青春2013』(2013)所載。(今井 聖)


May 2452013

 「観入」を説きて熱砂に指を挿し

                           山口誓子

相観入とはどういうことか。この用語の発案者斎藤茂吉自身であろうとなかろうとどちらでもいいが誰かがその説明をしていて熱砂に指を差し込んだ。実相観入とは子規提唱の「写生」をその筆頭信奉者である茂吉が解釈したもので、視覚的な対象に自己を投入して、自己と対象とが一つになった世界を「写生」の本義とした短歌理論。当時は俳人も多くがこの理論に影響された。見えるものの中に自己を没入させる。その没入の説明がこの指先になるのであろう。一句「ひねる」という俳諧風流の俗の残滓から文学性を拾い上げようとする当時の俳人たちのエネルギーが伝わってくる。『構橋』(1953)所収。(今井 聖)


May 3152013

 帽灯をはずすと羽抜鳥めくよ

                           野宮猛夫

道に潜るための電球付きのヘルメットが帽灯。採炭の仕事を終えて頭からヘルメットを外すと髪がぺちゃんこになっていて、まるで羽抜鳥のように見える。当時はおしゃれな男性の髪はリーゼントが全盛だったろうから、余計に髪が後ろに突っ立って鳥に似てくる。労働、社会性、党派闘争というホップステップジャンプで導いたのはみんな高学歴エリートたちだ。実社会のみならず俳句の世界でもそうだった。「進歩的」エリートたちは最後のジャンプまで行かずステップまででリベラルを気取るか「わびさび」に引き返して勲章をもらう。野宮さんの作品はそんな意図から抜けている。労働のあとの髪を羽抜鳥に喩えるところからは党派的意図や教訓的箴言には跳ばない。実感そのものである。実はこの実感そのものというのが「詩」の本質なのだと強く思う。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


June 0762013

 巣箱まだ生きてゐるなり倒れ榛

                           中戸川朝人

北と前書きがある。僕はこの風景が史跡多き琵琶湖の北方であることで何かが格別に付加されるとは思わない。どこの場所であろうと見たまま、そのままのこの瞬間にぐいと胸をつかまれるのだ。巣箱は生きていない。巣箱の中に生きているのだ。しかし、地に落ちた巣箱を目にし、その中で鳴いているか動いている小鳥を目にしたとき、作者は巣箱が生きていると言わざるを得ない切迫感にとらわれる。リアリティはまだある。「倒れ榛」だ。タオレハン、タオレハンと口にして言ってみるといかに調子の悪い語呂かということがわかる。榛(はん)は田んぼべりに稲架用にボーっと立っているひょろひょろの木。そんなどこにでもある、草で言えば雑草のような木に生まれた命だ。きれいな音律の下五などいくらでも斡旋できように。演出では届かない世界が示されている。技術を超えた技術が二個所。『巨樹巡礼』(2013)所収。(今井 聖)


June 1462013

 立ちしまま息をととのふ水中花

                           櫻井博道

中花だから「立ちし」はわかるけど、なんで「息をととのふ」なのかというと作者の呼吸が苦しかったのだった。宿痾の結核とずっと付き合ってきた博道(はくどう)さんが水中花を見ている。対象と自己とが一枚になるようにという楸邨の方法がここにも生かされている。逆に考えてみよう。博道さんの人生についてまったく無知であったとき、或は作者名を消してこの句だけを見たとき、この「息ととのふ」は同様の感興を伝えるや否や。本人についての正確な事実を知っている場合よりは漠然とはするけれど、やはり作者の尋常ではない呼吸の状況が推測できると僕は思う。水中花を見ているときも呼吸への意識が離れないということであることだけはこの表現から確かだからだ。『椅子』(1989)所収。(今井 聖)


June 2162013

 履歴書に残す帝国酸素かな

                           摂津幸彦

なで終わるのだから、帝国で切れずに帝国酸素と一気に読むかたちだろう。履歴書が出てくるから帝国酸素は会社名という想定だろう。実際にありそうな社名だが実在したかどうかはどちらでもいい。帝国酸素という社名から作者は大戦前の命名という設定なのだ。「残す」だから過去に存在したという意味が強調される。帝国が滅びてその名が社名に残っている。そこを突くアイロニーがこの句の狙いだ。「酸素」にはそういう空気はその後もつながっているという仕掛けもあるのかもしれぬがそれは作者の想定外かもしれない。定型のリズム575をその区切りで意味を繋げないで転がして思わぬ効果を狙う。この句で言えば「かな」はただゴロの良さによって口をついて出るあまり意味のない切れ字だ。俳句という枠の中で何かを言うという作り方ではなく湧いてくる言葉の片々をパズルのように並べてみて一句の効果を計る作り方だ。『摂津幸彦選集』(2006)所収。(今井 聖)


June 2862013

 はしれ雷声はりあげて露語おしう

                           古沢太穂

ず「はしれ雷」がいいな。俳人は季語を気にして歳時記を携行する。「それ季語の傍題(副題)にあるから大丈夫」なんていう会話は日常だ。例えば梅雨という季語なら、僕の持っている文庫本の歳時記には走り梅雨や梅雨夕焼など傍題が11個並んでいる。その中から自分の句に合う傍題を選んでくる。それは既製服を選んでくるということだ。たった17音しかない詩形のまあ5音を、吊ってある棚から選んでくる。言葉との格闘、ひいては自己表出の戦線を自ら狭めていることにならないか。「はしれ雷」は新鮮、斬新。この作者の個人的な言葉になっている。「おしう」は「教う」。旧文法で現代仮名遣いは太穂さんの特徴。マルクス主義の信奉者でその党派の人。古典の教義で現在を変えようとした太穂さんらしい選択だ。『古沢太穂』(1993)所収。(今井 聖)




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