January 052013
初旅やいのちの峠越えて海
村上 護
あ、海だ。思わずうれしそうにそうつぶやいてしまうのはなぜだろう。トンネルをいくつか越えたと思っていたらぱっと車窓に広がる海。長い道を歩いていて急に目の前に開ける海。海を目指していてもいなくても、海だ、とつぶやいた後ただただ海を見ている、という経験は今までに幾度となくある。ヒトが海に惹かれるのは回帰の本能からだとも言うが、何かあると、また何もなくても、海が見たいなあ、と急に思うことも確かにある。掲出句の作者も、病と共に過ごした年があらたまり旅に出られるまでになった時ふと、海が見たい、と思ったのだろうか。初旅の華やぎが一句に明るさを、海、の一語が深い余韻を与えて印象的である。『其中つれづれ』(2012)所収。(今井肖子)
February 192013
子猫あそばせ漱石の眠る墓
村上 護
近所の野良猫たちも朝な夕なに恋の声をあげる。じきに子猫の声も混じることだろう。恋のシーズンの恋猫からお腹の大きい孕猫、さらには子猫まで、くまなく季語になっている動物は他にいない。これは猫好きの人間が多いというより、猫が人間の日常への食い込み具合を物語るものだろう。夏目漱石は雑司が谷墓地に眠る。日当りの良い、猫には居心地のよさそうな場所だ。漱石の墓石は大きすぎて下品と苦言するむきもあるが、漱石の一周忌に合わせ妹婿が製作したという墓石は、鏡子夫人の『漱石の思ひ出』によると「何でも西洋の墓でもなし日本の墓でもない、譬へば安楽椅子にでもかけたといつた形の墓をこさへようといふので、まかせ切りにしておきますと、出来上つたのが今のお墓でございます」とある通り、確かに周囲に異彩を放つ。しかし、自然石でもなく、四角四面でもない墓石は、お洒落な漱石にぴったりだと思う。肘掛け椅子のようなやわらかなフォームには幾匹も猫が収まりそうなおっとりとした大らかさがある。とはいえ、大の猫嫌いだったといわれる鏡子夫人は、この墓石のかたちにしたことを多少後悔しているかもしれない。〈ひと枡に一字一字や目借時〉〈四方(よも)見ゆる其中つれづれ日永かな〉『其中つれづれ』(2012)所収。(土肥あき子)
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