ム子句

January 0512013

 初旅やいのちの峠越えて海

                           村上 護

、海だ。思わずうれしそうにそうつぶやいてしまうのはなぜだろう。トンネルをいくつか越えたと思っていたらぱっと車窓に広がる海。長い道を歩いていて急に目の前に開ける海。海を目指していてもいなくても、海だ、とつぶやいた後ただただ海を見ている、という経験は今までに幾度となくある。ヒトが海に惹かれるのは回帰の本能からだとも言うが、何かあると、また何もなくても、海が見たいなあ、と急に思うことも確かにある。掲出句の作者も、病と共に過ごした年があらたまり旅に出られるまでになった時ふと、海が見たい、と思ったのだろうか。初旅の華やぎが一句に明るさを、海、の一語が深い余韻を与えて印象的である。『其中つれづれ』(2012)所収。(今井肖子)


January 1212013

 大空に月ぶら下がり雲凍てぬ

                           池上浩山人

そらく半月と動かない凍雲、冴え冴えとした景である。凍つる雲と、その雲を照らすほどではない寒々とした月、その二つが一対の景をなして広々とした真冬の空と大気を感じさせている。儒子を父に持ち儒学にも明るかった作者であると知ると、中七から下五にかけて確かに漢詩的な印象だ。また、ぶら下がる、という表現は、伝統的な美と格調を重んじたという作風とはやや違っているようにも思えるが、古書修理の職人であった作者の、まさに見たまま感じたままの言葉であり、滲むことも強く光ることもない冬の半月の形のありのままを表していると言える。今日は今年最初の新月、先週末の真夜中に見た半月を思い出している。『新日本大歳時記 冬』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


January 1912013

 雪催木桶二つに水張られ

                           茨木和生

はどんどん厚くなり空気は冷たく、今にも雪になりそうな気配が雪催。東京に住んでいるとそうそう体感することはないが、先週の日曜日の夕方に近所まで出かけた時、これは来るぞというまさに雪催を実感した。その空の色はただ灰色とか暗いとかでは表現できない圧迫感に満ちており、まだ風は無かったが空気の一粒一粒がきんと凍っている。これは明日の分まで買い物をして帰ろう、明日は雪見て巣籠りだね、ということになったがまさにその通りになってしまった。掲出句は翌日、成人の日に籠りつつ読んでいた句集『往馬』(2012)にあった。目の前の木桶にかすかな風がふれてゆく。水面には冷たい漣が立ち、映っているのはまさに前日に見たあの空なのだろう。どこにどんな木桶が置かれているのかわからないが、小さく張られた水が雪催の持つ得も言われぬ重さと静けさをくっきりと表している。(今井肖子)


January 2612013

 一枚の葉書が刺さり冬館

                           石井薔子

館、の句はよく目にするが、冬館、は初めてだった。常用の歳時記には掲載されていず「冬に備えてしつらえをした大きな洋館が連想される」(合本俳句歳時記第四版)とある。洋館、とあるのは、館、だからだろうが、でも夏館は確かに緑に囲まれた洋館が目に浮かぶが、冬館はどっしりとした瓦屋根の日本家屋で、広い庭に雪吊りなど見えてもいいのではないかと思う。いずれにしろ、邸宅と呼べるほどの大きなお屋敷だ。この句の冬館は、高い塀に囲まれていて建物自体は見えていない。その葉書が無かったら通り過ぎてしまうところだが、門の脇の郵便受けから葉書の角が斜めにはみ出していることで、塀の向こうのお屋敷が見えたのだろう。刺さり、と表現することで、冬館はますますしんと静まって、冷たい北風が吹きぬけてゆく。『夏の谿』(2012)所収。(今井肖子)


February 0222013

 寒灯といふ暖色のまたゝける

                           後藤洋子

灯、冬の灯火である。寒中に限らないが、寒、の一字がそうさせるのか、冬灯、よりともしびの色を感じさせない寒々しさがある。それをこの句の作者は、暖色、と表現している、そこが印象的だった。寒灯というと、灯っていても逆に灯っているからこそ寒々しい、と言いたくなるが、遠くまたたく灯火を見ているうちに、寒い闇の中にあるからこその温もりが、その色から伝わってきたのだ。同じ作者に〈地吹雪や白もまた炎えたぎる色〉とある。地吹雪の激しさが冷たい雪の白を、炎えたぎる色、とまで言わせたのだろうが、いずれの句も、独特の色彩感覚と思いきりの良い表現力が、一句を個性的に仕上げている。『曼珠沙華』(1995)所収。(今井肖子)


February 0922013

 春の空後頭部から水の音

                           岩崎康史

月の空は、秋の高い空とはまた違った青さを見せて美しいが、時にゆるゆると霞んだ春の空になる日もある。先週末、雨がぱらついた時は久しぶりにやわらかい土の匂いが漂って、立春の日の空はぼんやりと春めいた色をしていた。掲出句、もう少し春が深まって暖かさを感じる頃だろう、ただ、立春の日の淡い空の色が、昨年の夏に読んだこの句を思い出させた。俳句初心者の高校生が初めての吟行で作った句だ。後頭部から水の音、は、春の池が自分の後ろにある感じ、と本人は言っているが、頭の中で水音がしているようにも思える。それは、せせらぎの音なのか魚が跳ねる音なのか鳥の羽が水面を打つ音なのか。いずれにしても、水音を後ろに感じながら、春の空、と視線を広々とした空へ誘っているのがいい。読者も作者同様、空を見上げ深く一つ息をして、音や光やさまざまな春のざわめきを感じることができるのだ。今井聖『部活で俳句』(2012・岩波書店)所載。(今井肖子)


February 1622013

 早春や目つむりゐても水光り

                           越後貫登志子

春と浅春の違いが話題になった。季感はほとんど同じなので、あとは感覚の違いということだったが、浅春は、春浅し、で立っておりたいてい、浅き春、春浅し、と使われる。浅き春は、春まだ浅いということでやや心情的、言葉として早春よりやわらかい、などなど。確かに個々の感覚なのかもしれないが、この句に詠まれている水のきらめきは、まさに早春のものだろう。風に冷たさが残っていても、そこに春が来ていることを感じさせてくれる。耀く水面を見ていた作者、目を閉じてもその奥にまだ春光が残っている。この句の隣に〈早春の馬梳かれつつ日に眠る〉(小池奇杖)とあり、春は空から日ざしから、と言うけれどほんとうだな、とあらためて思うのだった。『草田男季寄せ 春・夏』(1985)所載。(今井肖子)


February 2322013

 白梅に立ち紅梅を見て居りぬ

                           上迫しな女

年は梅が遅いという。近所の梅園は先週の日曜日で二三分咲きだったが植木市も立って、人がずいぶん出ていた。毎年のことだがまだまだ寒く、じっと佇んでいたりお弁当を広げたりしている人はあまりいないが、焼きそばや甘酒はよく売れていて、屋台の前のテーブルは満席。その真ん中にほぼ満開の紅梅がひょろりと立っていたが、見上げる人もほとんどなく香りも焼きそばにかき消され、なんだか気の毒だった。掲出句の紅梅は梅園の隅にくっきりと濡れたように立つ濃紅梅だろうか、遠くからそれをじっと見ている作者である。青みがかったり黄みがかったり、さまざまにほころんでいる白梅の近景と一点の紅梅の遠景が、一句に奥行きを与えると同時に、梅見らしいそぞろあるきの感じを醸し出している。『旅の草笛』(2001)所収。(今井肖子)


March 0232013

 猫の舌ふれて輪を描く春の水

                           檜山哲彦

解水を湛えた湖や川、春の水は豊かである。この句の場合は猫が飲んでいるのだから池なのか、飼い猫なら小さな器の中のわずかな水ということになる。猫はどんな風に水を飲むのだろう、と検索したら、一秒間に数回という速さで舌を上下させて、本能的に流体力学を利用して優雅に飲んでいるのだとある。動画を見たら、うすももいろの舌先が水面に繊細にふれるたび、水輪の同心円が次々に生まれていた。水が動けば光も動く。猫をやさしい眼差しで見守りながら、そんな小さな水にも春を感じている作者なのだろう。『天響』(2012)所収。(今井肖子)


March 0932013

 さつきまでマラソンコース桃の花

                           峯尾文世

の花は古くから親しまれているが特に都会生活では、雛祭に花屋で買い求めてしばらく楽しむくらいで、梅や桜ほど身近な存在ではないだろう。しかし、ふっくらとしたその形や濃い花の色、なにより、もものはな、という音が、可愛らしく春らしい。華やかでありながらどことなく鄙びていると言われる桃の花、この花らしさはこれまで多く詠まれているが、掲出句の桃の花は新鮮な光を放っている。句集『街のさざなみ』(2012)のあとがきに「常に〈語らぬ俳句〉を心がけてまいりました」とあるが、一読して、あ、いいな、と感じさせる句が並ぶ中、即愛誦句となったのがこの句だった。春を呼ぶマラソン、は誰でも思うところだが、さっきまで、の一語が風景を生き生きと動かす。(今井肖子)


March 1632013

 合作の壁画振り向き卒業す

                           花田いつ枝

年もこの季節がやって来た。自分自身の卒業の思い出はあまりに遠く、ほとんど記憶にないが、最初に卒業生を送り出した時のことはさまざまな場面と共に記憶に刻まれている。初めての袴が意外と楽だったことから、読み上げる時唯一つっかかってしまった生徒の名前まで、おそらく一生忘れないが、〈卒業の涙はすぐに乾きけり〉(今橋眞理子)の明るさが、卒業という別れの本質だろう。掲出句、見送っている教師として読んでも、一緒に校門を出ようとしている家族として読んでも、合作の壁画は、つと振り向いたその子をはじめとする一人一人を育てた、悲喜こもごもの月日を象徴している。最後に振り向いて、あとはただ前を向いて進んでほしい、と願うのみ。『海亀』(2012)所収。(今井肖子)


March 2332013

 ピーちゃんを埋むる穴に椿敷く

                           箭内 忍

が家の庭の片隅にも、ハムスターのチップと金魚のキンキラが眠っていた。三年前に建て替える時は、神主さんにお願いしてその辺りを入念に祓っていただいたが、そっとのぞいても何も見あたらなく、ほっとしたようなさびしいような、そんな思いがした。チップを埋葬した時は、小学生だった姪が、好物だけどたくさんやってはだめと言われていたひまわりの種を敷いてやった、掲出句と比べるとずいぶん現実的だ。椿は庭の片隅にありその下は仄暗く、あたり一面に花が落ちていたのだろう。ふれるとやわらかいその花を冷たい土の上に敷き詰めて、そっとピーちゃんを寝かせてやる。白い文鳥なら花の紅が引き立ち、花が白ならばなお清らかだ。まだ寒さの残る今頃になると、この句と共にピーちゃんを思う作者なのだろう。『シエスタ』(2008)所収。(今井肖子)


March 3032013

 山ざくら一樹一樹の夕日かな

                           細見綾子

冷の東京、今週中には雨の予報も出ているので、土曜日には花も終わっているだろうな、と思いながら書いている。『花の大歳時記』(1990・角川書店)は、梅に始まり、椿、桜、と続く。桜の句は、初花から残花まで数百句、その中に静かに掲出句があった。昨年の吉野山、初めて出会った満開の山桜を思い出す。まさに一樹一樹、少しずつ違う花の色と木の芽のうすみどりが、山を覆い花の谷となって重なり合っていた。仄白い花に映る夕日、紅の兆す花を照らす夕日、彩を織りなす花の山々の彼方にやがて日は落ちて、また新しい花の朝を迎える。夕日を見つめながら、今日の桜を心に刻んでいる作者なのである。(今井肖子)


April 0642013

 花時の竹輪の芯は穴なりし

                           雪我狂流

々に咲きながらいつまでも散らなかった東京の桜、長い花時だった。うららかな花見日和にはあまり恵まれなかったが長かった分、花筵を広げる機会は多かったかもしれない。ちくわは、ちょっとお花見に持っていくおつまみには手軽でよい。そんな花筵の上で浮かんだ一句なのだろうか、考えれば考えるほど何やらおもしろく印象に残っている。「芯」を広辞苑で調べると、「心」の(3)に同じ、とあり、(3)は、物のまん中、物の中央の(固い)部分、かなめ、などとなっている。ちくわの穴は芯なりし、だとちくわを作る行程なのだが、逆だと、どこか哲学的な気分にさせられる。花時の、と軽く切れて、ちょっとざわざわした心地のまま、思わずちくわの穴から空を覗いてしまいそうだ。『俳コレ』(2011・邑書林)所載。(今井肖子)


April 1342013

 霾天の濃きがうすきに動きくる

                           近藤美好女

和九年の作なので混じりけのない?黄沙、それも相当本格的である。これを書いている今日、気象庁の黄沙情報図を見ると、北海道の一部を除いて日本列島全体が黄色く覆われているが、窓から見える東京の空は白く霞んでいて薄曇り、あまり実感はない。掲出句、濃きがうすきに、の漢字とひらがなに黄沙の色の違いがよく見えて、二つの助詞が遠近感をはっきり表している。そして、霾天の、と大きく表現することで、頭上に広がる空の彼方からより濃い砂埃がゆっくりと押し寄せてくる光景が目に浮かび、むずむずぞわぞわ恐ろしい。この句を引いた『ホトトギス雑詠選集 春の部』(1987・朝日新聞社)の作者の地名欄は、黄海道。朝鮮半島の中ほどの地と知れば、黄沙の臨場感も肯ける。(今井肖子)


April 2042013

 蟇ないて唐招提寺春いづこ

                           水原秋桜子

いづこ、について秋桜子自身が「感傷があらわに出すぎていけないと思っている」と、その著書『俳句になる風景』(1948)で述べている掲出句、水原春郎著『秋櫻子俳句365日』(1990・梅里書房)の四月二十日の一句である。ただ、作者は日記の類は嫌いだったということなので、この日に作られたとはかぎらない。蟇は夏季だが、鳴き始めるのは春であり、前出の自著の自解に「山吹のほかに何ひとつ春らしい景物のない講堂のほとりを現わし得ているつもり」とあるので、春を惜しんでいるのだろう。唐招提寺春いづこ、強い固有名詞と詠嘆、ふつうなら上五はさらりと添えるような言葉にするところ、蟇ないて、とこれも主張している。一見ばらばらなようでいて、上五中七の具体性が、感傷をこえた深い心情を感じさせる。(今井肖子)


April 2742013

 旨さうな「うどん」といふ字春の雨

                           岩崎ゆきひろ

どん、とひらがなで書くと、うどんに見えてくる。ことに、ん、の曲線がうどんぽくて、なるほどなあ、と。先月本屋で見かけた雑誌には、うどんの国ニッポン、の見出しと共に、手打うどん、の文字が黒々と躍っていた。うどん屋の看板をあれこれ見てみると、確かに太く勢いのあるものが多くその文字を見ると、ゆでたてのぶっかけうどんを勢いよく啜りたくなるのだ。掲出句、看板を明るく濡らす春の雨である。このところ冷えこんでいる東京の雨には春雨の艶やかな印象は乏しく、育ってきた緑をしっとりと包んでいて、こんな日なら暖かい汁たっぷりのうどんが食べたくなりそうだ。いずれにしても、春の雨、が一句に広がりを与えて詩にしている。『蟹の恋』(2012)所収。(今井肖子)


May 0452013

 夏近し湖の色せる卓布かな

                           佐藤郁良

布はテーブルクロス、ベランダに置かれた丸いテーブルを覆っているのだろうか。気がつくとすっかり新緑の季節、日ごと音を立てて濃くなる若葉に、夏が来るなあ、とうれしくなるのは、毎年のことながら慌ただしい四月が過ぎて一息つく今時分だ。湖は海よりも、おおむね静けさに満ちており、その色はさまざまな表情を持っている。湖の色、と投げかけられて思い浮かぶのはいつか見た読み手それぞれの湖、木々の緑や空や風を映して波立つ水面か、山深く碧く眠る透明な水の耀きか。連休遠出しないから楽しみはベランダで飲む昼ビール、などと言っていてはこういう句は生まれないなあ、とちょっぴり反省。『星の呼吸』(2012)所収。(今井肖子)


May 1152013

 新緑やのけぞる喉に日のまだら

                           榎本 享

休の中頃、水の広がるひたすら広い公園で一日を過ごした。新緑の中で心地よい時間だったが、日の暮れかける頃に不思議な疲れを感じたのは、終日ひんやり渡っていた強めの風のせいかもしれない。明るいけれど不安定な五月だが、この句の新緑は、もう少し夏を実感できる頃合だろう。のけぞる、なのだから、上を向いている。ただ新緑を仰いでいて、そこに木洩れ日がゆれ動いているというだけでは、のけぞる、が強すぎるだろう。ひと休みして、ごくごくと水を飲んでいる喉だとすれば、日のまだら、に滲んで光る汗が見えて、景色が動き出す。『おはやう』(2012)所収。(今井肖子)


May 1852013

 蟻のぼるブロンズ像の長き脚

                           田口紅子

ょうど目の高さにブロンズ像の脚がある。そこを忙しなくのぼったりおりたりしている蟻、ついじっと見入ってしまう気持ちはよくわかる。地面を歩いている蟻ならまだ餌を運んでいたり捜したり、脇目もふらずかなりのスピードで歩いているのも納得だが、ブロンズ像である。蟻にしてみればそそり立つ絶壁、なぜここをのぼろうという気になったのか、自らを追い込みたいのか、案外楽しいのか、風の匂いの降ってくる方へひたすら近づこうとしているのか。そんなことを思いながら先日近所の神社へぶらりと行った折、狛犬の台座の石の隙間に蟻が餌を引きこんでいるのを発見、これも巣なのかな、と思いながらこの句を思い出した。ブロンズ像の顔のでこぼこに、風通しのよいひんやりとした足触りの隠れ家でもあるのかもしれない。『土雛』(2013)所収。(今井肖子)


May 2552013

 薔薇呉れて聖書貸したる女かな

                           高浜虚子

きい朱色の折り鶴が描かれた表紙を開くと写真が載っている。喜壽の春鎌倉自邸の庭先にて著者、とあるその表情は穏やかだがちょっと不機嫌にも見え、男物にしては華奢な腕時計をした手首に七十七歳という齢が確かに感じられる。そんな『喜壽艶』(1950)の帯には、喜壽にして尚匂ふ若さと艶を失はぬ永い俳句作品の中から、特に艶麗なる七十七句を自選自書して、喜壽の記念出版とする、と書かれている。掲出句、自筆の句の裏ページの一文に「ふとしたことで或る女と口をきくやうなことになつた。その女は或とき薔薇を剪つてくれた。そしてこれを讀んで見よと云つて聖書を貸してくれた。さういふ女。」とある、さういふ女、か。薔薇を剪ってくれた時にあった仄かな気持ちが、聖書を読んでみよと手渡された時、やや引いてしまったようにも感じられるが、明治三十二年、二十六歳の作ということは、五十年経っても薔薇の季節になると思い出す不思議な印象の彼女だったのだろう。(今井肖子)


June 0162013

 はらわたに飼ひ殺したる目高かな

                           堀本裕樹

を建て替える前、玄関の前の大きい甕で母がしばらく目高を飼っていた。増えたり減ったりしながら飼われ続ける目高、暗い甕の中で一生を終えるのも何やら気の毒なようにも思ったが、水草にちろちろと見え隠れする大きい目はかわいらしく、見ていると楽しかった。そんな目高を丸呑みしたという掲出句、読んだ時はちょっと驚いたが、半透明な目高の腹がヒトの体内で透きとおり続けているような不思議なゆらめきが、この句を思い出すたびによみがえる。掲出句の前書きに、泳ぎが上手くなると言はれて目高を呑めり、とあり、句集のあとがきに、私の躯のなかには熊野川と紀ノ川が流れている、とある(躯は身ヘンに區)。清流を自在に動き回っている目高なら、速く泳げるようになりたくて掬って呑む、というのもなんとなくわかる気がする。『熊野曼荼羅』(2012)所収。(今井肖子)


June 0862013

 他人事のやうに首振る扇風機

                           大和田アルミ

供の頃、ありとあらゆる文字が人の顔に見えて不思議な気分になったことがある。昼、という字がペンギンに見えてしかたなかったこともあるが、これは形が似ているからか。いずれにしても、ひらがなが様々な表情でこちらを見ているような感覚は今でもどこかに残っているが、その感覚をふと思い出した。掲出句、扇風機が首を振る、というのは、自然に浮かぶ擬人だが、安易な擬人に終わっていないのは、他人事のやうに、という表現だ。他人事、もまた擬人と言えるのだが、人になぞらえているというのではなく、淡々と動く扇風機そのものから感じとっている作者なのだろう。「俳句 唐変木」(2009・5号)所載。(今井肖子)


June 1562013

 一人づつ菖蒲の中を歩きけり

                           長谷川かな女

週末、見頃を迎えつつある明治神宮御苑の菖蒲田へ。緑の中の小径を行くと、梅雨晴の底に水を湛えた菖蒲田が広がり、しっとりとした紫の風が渡ってゆく。休日ということもあり賑わっていたがそう言われてみれば、連れ立ちながらも一人ずつ静かに菖蒲田を巡り、立ち止まっては「都の巽」「十二単」などの名札と花を見比べながら、〈紫の菖蒲に妻と入れ替る〉(古舘曹人)。深い大和紫や光を集める白、すっと立つその茎の先にやわらかくほぐれる花弁、かすかな水音。それらを言葉にすることなく、対峙すると背筋が伸びるような花菖蒲の美しさが見える一句となっている。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


June 2262013

 わが足のああ堪えがたき美味われは蛸

                           金原まさ子

元の歳時記には「蛸」は載っていないが、今が旨いよ、と魚売り場のおじさんが言ったなあ、と思ったら、夏季に掲載されている歳時記もあるという。知能が高いゆえなのか、足を食べるのはストレスからだそうだが、ああもう限界、という感じなのだろうか、その瞬間の鮹の気持ちになると切ない。そう思っていたら、耐えがたき美味であるという、これはさらに切ない。その痛みに我に返りながらも、耐えがたいほど美味であったら、そう考えると抜け出せない自己矛盾に陥ってゆくだろう。もし自分自身を食べ続けてしまったら、最後は何が残るのか。子供の頃満天の星空を見上げながら、この中のいくつがリアルタイムで存在しているのか、と思った瞬間にも似たぞわぞわ感に襲われる。『カルナヴァル』(2013)所収。(今井肖子)


June 2962013

 お面らの笑みて祭を売れ残る

                           坊城俊樹

どもの頃、お祭りは数少ない楽しみのひとつだった。お小遣いとは別にもらえる、当時は直径二十五ミリと大きかった五十円玉を握りしめて、夜店の出ているお地蔵さんまでの道を歩いている時のなんと幸せだったことか。必ず買うのは、ハッカパイプと水風船、綿あめを妹と半分ずつ食べながら歩いていると、いつか夜店の端に着いてしまう。お面はそのあたりに売られていたような気がする。当時、欲しいと思った記憶はないのだが、セルロイドの匂いと白くて細いゴムの記憶はある。掲出句の、お面ら、には、慈しみと郷愁が入り交じる。祭りの翌日、ハッカパイプにお砂糖を入れてみても何の味もせず、ねだって買ってもらったお面は、ぼんやり笑いながら畳の上にころがっていたことだろう。『日月星辰』(2013)所収。(今井肖子)




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