Nj句

January 0712013

 不機嫌に樫の突つ立つ七日かな

                           熊谷愛子

語は「七日」で、一月七日のこと。習慣的に関東の松の内は七日まで(関西では十五日までとされているが、最近ではどうなのだろう)だから、今日で正月も正月気分もおしまいだ。多くの人にとって、正月は非日常に遊ぶ世界ではあるが、三が日を過ぎるあたりから、その非日常の世界を日常が侵食してくる。お節に飽きてきてカレーライスを食べたくなったり、ゴミの収集がはじまったりと、非日常が徐々に崩れてくる。同じ作者に「初夢の釘うつところ探しゐて」という句があり、ここでは早々に日常に侵入されてしまっている。客の多い家ともなると、主婦が非日常に遊ぶなんてことは不可能だ。それでもまあ、松の内という意識があるから、なんとなく七日くらいまでは正月気分をかき立てているわけだ。この句は、そんな気分で七日を迎えた主婦が、久しぶりに醒めた視線でまわりの景色を見渡したときの印象だろう。樫の木が不機嫌そうに立っているのが、目についた。なんだか人間どもの心理的物理的な落花狼藉の態を、ひややかに見つめつづけていたような雰囲気である。この樫の木の不機嫌も、やがては日常の中に溶けて消えてしまうのだが、今日七日のこのひんやりとした存在感は、特別に作者の心に突き刺さったのだった。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


January 1412013

 華美ひと色に成人式の子女あはれ

                           相馬遷子

席はしなかったが、私のころの成人式は戦後もまだ十数年の時期で、およそ「華美」とはほど遠かった。それが十年も経つと、東京オリンピックも過ぎ、この句のような様相を呈してきたのだった。俳句はまた風俗史の役割をもっていることが、よくわかる。キーワードは、むろん「あはれ」だ。現今と同じように、とりわけて女性の和装姿が華美になり、その華美にうっとりしているような女性の姿は好ましいが、一方ではあまりの無邪気さに危うさも感じられる。これからの長い人生には山あり谷ありで、決して無邪気に二十歳を受けとめてはいけないのにと、余計なお世話ながら作者ははらはらしている。人生の節目ごとに、こうやって人は流されていくのかという思いもわいてくる。こうした思いは、「あはれ」という厚みのある日本語でないと表現できないだろう。『雪嶺』(1969)所収。(清水哲男)


January 2112013

 ちちははもおとうとも亡しのつぺ汁

                           八木忠栄

ちははもおとうとも亡し……。八木忠栄に少し遅れて、私も同じ境遇になった。「のっぺ(い)汁」は、作者の故郷である新潟の家庭料理として有名だ。父母も弟も健在だったころには、よく家族みんなで食べたことを思い出している。思えば、そのころが家の盛りだったなアというわけである。正月や盆などの年中行事に食されることが多いそうだから、のっぺ汁はそのときどきの思い出を喚起してくれる料理でもあるだろう。この句を読んで、さて我が家の料理では何が該当するだろうかと考えてみた。が、残念なことに、何も思い当たらない。私の故郷である山口で有名なのは下関のフグ料理くらいで、我が家のような寒村暮らしには無縁であった。フグどころか、当時は海の魚を口にしたことはなかった。つまり私には、掲句のように食べ物から家族を思いだすよすがはないのである。寂しい話だが、仕方がない。それにしても弟に先に逝かれるのはこたえるな。作者に「弟勝彦を悼む、二句」があり、一句は次のようだ。「元天体少年おくる冬の岸」。合掌。『海のサイレン』(2013)所収。(清水哲男)


January 2812013

 寒天を震るわせている大太鼓

                           あざ蓉子

時記で「寒天」を調べると、いわゆる傍題として「冬の空」の項目に添えられている。これに従えば、句意は「大太鼓の重低音が勇壮に、寒々とした冬の空を震わせるように響いている」となる。ところが「寒天」にはもう一つの意味があって、言わずと知れた食べ物としてのそれだ。こちらの寒天は厳冬期に製造されるから、冬空と区別するために、歳時記には「寒天製す」などの別項目が立てられている。この食べ物のほうの命名者は隠元和尚だそうで、彼は「寒空」や「冬の空」を意味する漢語の寒天に「寒晒心太(かんざらしところてん)」の意味を込めて、寒天と命名したという。明らかに掲句はこの二つの「寒天」を意識していて、実景としてはゼリー状に濁った冬空をぷるぷると震わせて大太鼓の音が響く情景を詠んでいる。寒々とした曇天の冬空を震わせて太鼓が打ち鳴らされる情景は、身の引き締まる思いがわいてくるのと同時に、鬱屈した思いを解きほぐすような効果を生む。「花組」(57号・2013年1月刊)所載。(清水哲男)


February 0422013

 立春の日射しへ雪を抛り上げ

                           大滝時司

日立春。「ちっとも春らしくないな」という人がいるけれど、立春は春のはじまる日なのであって、春ではない。灰色に塗りつぶした画用紙の隅っこくらいに、ぽつんと緑か黄色の点を打ち、この点を春と見立てた感じである。つまり、季節はまだまだ冬の色のほうが勝っているということだ。東京辺りでもそんな具合だから、北国は依然として冬の真っ盛りにある。毎日のように雪が降るし、除雪作業に追われる日々はつづいたままだ。でも逆に、そんな土地柄だからこそ、「春」という言葉には鋭敏なのである。立春と聞いて明るい心になるのは、雪の少ない地方の人よりも、だんぜん雪国の人のほうが多いだろう。この句には、その気分がよく出ている。珍しく晴れた立春の日射しに向かって、勢いよくスコップの雪を抛り上げる作者の動きは軽快だ。明日も明後日も除雪作業はつづいていくのだが、作者の心には早や雪解け水のように明るいものが流れはじめているのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 1122013

 旗立てて古りし傷撫づ建国日

                           長かずを

後の祝日風景で、もっとも変わったのは、ほとんどの家で国旗を掲げなくなったことだろう。戦前は、田舎の隅々にいたるまで、国旗掲揚は普通のことだった。最近では官庁などのお役所や、バスなどの交通機関くらいでしか見られない。この句の作者はそんな風潮に抗しているのか、あるいは昔ながらの習慣が捨てられずに、玄関脇に国旗を立てている。そして立てた国旗を見上げながら、無意識のうちにかつて受けた古傷の痕を撫でている自分に気がついた。この傷は、むろんお国のために戦った際の傷でなければならない。とはいえこの句には、建国記念の日を心から祝っているのでもなければ、そのかみの戦争を呪っているわけでもあるまい。国旗の掲揚と戦争による古傷との取り合わせは痛々しいが、作者当人はことさらに何かを訴えたいのではなく、逆にそんな時代を生きてこざるを得なかった宿命を諦観している。言うならば、この諦観はいつの時代にも私たち庶民の心情を支配してきたのであり、そのことがまた生き抜くための知恵であったことに思い当たる。哀しいかな、それが現実というものだと思う。『合本俳句歳時記・新版』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


February 1822013

 乗り継いで鴬餅は膝の上

                           小田玲子

物用に「鴬餅」を求めた。近畿地方の名物である。乱雑に扱えば、せっかくの美しい鴬餅が、箱の中で偏ったり形が崩れたりしてしまう。だから乗り継ぐ度に、丁寧に膝の上に置いておくのだ。この行為だけをとれば、日常的に誰もがやっていることであり、特別に珍重すべきことではない。しかし、作者があえてこうして俳句に詠んだのは、このときのこの行為に、言外の思いをこめたかったがためだろう。つまり、これから訪ねていく先の相手に対する緊張感のほどを、平凡な行為に託したかったということだ。そのことによって、なんでもない日常的な行為が、作者にとっては特別な意味があることを、さりげなく読者にささやくかたちで告げようとしている。けれん味の無い詠みぶりだけに、読者にもその思いが抵抗感なく伝わってくる。日常を日常として詠むことにより、人生のある断面がすうっと濃く浮かび上がってくる。俳句の面白さの一つが、ここにある。『表の木』(2012)所収。(清水哲男)


February 2522013

 パリパリの私のきもち春キャベツ

                           紀本直美

が来た喜びを、新鮮でパリパリの春キャベツに託している。なんのけれん味もなく、天真爛漫に詠まれたこの句を読むと、こちらまでが愉快な心持ちになってくる。春を迎えた気分は、こうでなくてはいけない。でも、私には違う気分の春もあった。昭和三十三年、大学に入学して宇治に下宿したてのころである。当時の宇治は観光名所ではあったけれど、町には一軒の喫茶店もなく、適当な飲み屋もなかった。昼間は修学旅行生でにぎわうが、夜になれば急に森閑としてしまう。そんな夜に、友人になったばかりの詩人・佃學(故人)とよく飲みに行ったのが、宇治橋のたもとに出ていた屋台であった。そこで安酒をあおりながら、いつも食べていたのが春キャベツだったのだ。べつに風流心からじゃない。その屋台では、キャベツだけはいくら注文してもタダだったからという情けない理由による。佃も私も、相当に鬱屈していた。青春に特有の世間への反発心がそうさせていたのだろう。パリパリとキャベツを噛みながら、暗い宇治川の川面をめがけて、それが口癖だった佃の「くそ喰らえっ」という咆哮を、つい昨日のことのように思い出す。『さくらさくさくらミルフィーユ』(2013)所収。(清水哲男)


March 0432013

 出さざりし返信はがき冴返る

                           谷上佳那

かの会合への出欠を知らせる返信はがきだろう。ためらいなく出席か欠席を決められる場合はよいが、そうもいかないときには、本当に困る。出るべきか、それとも……などと逡巡しているうちに、投函の期限が来てしまう。こうなると出欠席の問題とはべつに、もう一つの重荷を背負ったような気持ちになり、気分が落ち込む。出欠を問うている相手側は、なんと非礼な……と思ったりするかもしれないけれど、返信する側にもそれなりの事情があるわけで、ぐずぐずと返事をのばしているうちに、こういうことになってしまうのだ。返事を出す側の善意の持って行き場所がなくなった結果が、これなのである。折りから寒さがぶり返してきて、それだけでも鬱然とするのに、心までもが寒くなってしまうとは。とかくこの世は厄介だ。『鳥眠る樹』(2012)所収。(清水哲男)


March 1132013

 石楠花の蕾びつしり枯れにけり

                           照井 翠

色の花が咲く、いわゆる「アズマシャクナゲ」の蕾だろう。例年ならばそれこそ「びっしり」とついた蕾が春の到来を告げてくれるのだが、それが今年はことごとく枯れてしまっのだ。枯れたのは、今日でまる二年目になる福島の大津波のせいである。かつて見聞したこともない異常な光景だが、この異常は自然界にとどまるわけにはいかなかった。「気の狂(ふ)れし人笑ひゐる春の橋」。作者は釜石市で被災した。「死は免れましたが、地獄を見ました」と句集後記にあり、また「三・一一神はゐないかとても小さい」という極限状況のなかで、辛うじて正気を保つことができたのは、長年携わってきた俳句のお陰だとも……。ここで読者は少し明るい気持ちにもなれるのだが、昨今のマスコミが伝えている現在の福島の様子には、依然として厳しいものがある。何ひとつ動いていないと言ってもよいだろう。直接に被災はしていない私などが、机上から何を言っても空しいとは思うのだけれど、他方で何かを言わなければ気が済まない思いがむくむくと頭をもたげてくるのも正直なところだ。『龍宮』(2012)所収。(清水哲男)


March 1832013

 強風や原発の底に竹の根

                           夏石番矢

どもの頃「地震のときは竹やぶに逃げろ」と教わった。関東大震災で怖い目に遭った母親からだったかもしれない。たしかに竹やぶのある土地は、竹の根が張り巡らされているので、少々の地震くらいではびくともしないように思える。しかしそれは表面に近い土地の部分について言えることであり、地下深くの竹の地下茎が腐って水を含み地盤沈下の原因になることが多いと言われている。つまり、竹やぶは決して地震に強いとは言えないわけだ。原発周辺の竹やぶをざわざわと揺さぶっている不気味な強風のなかで、作者はこの言い伝えを思い出したのだろう。そして原発の底に触れている無数の竹の根を想像している。一見頑丈そうなその環境が、実はそうではないと知っている作者は、とくに福島原発がダメージを受けた後だけに、不安な気持ちを押し隠すことができないでいる。この句を拡大解釈しておけば、すべての世の安全対策に対する疑念ないしは皮肉を提出しているということになるだろう。『ブラックカード』(2012)所収。(清水哲男)


March 2532013

 ホームランあのすかんぽを越ゆるべし

                           上久保忠彦

んだ途端に、子どものころの田んぼ野球を思い出した。グラウンドなどという洒落た土地ではなく、稲の切り株が残ったままの田んぼで野球をやっていた。だから、どこまで飛んだらホームランかなどと、お互いに取り決めてからゲームに入る。作者が田んぼ野球をやっているかどうかはわからないが、いずれにしても立派なグラウンドじゃない。ホームベースからかなり離れたところに、スカンポが群生しているので、そこまで飛んだらホームランと決めていたのだろう。打席に立って、「あのすかんぽを越ゆるべし」と勇み立つ気持ちはよくわかる。すかんぽは「酸葉(すいば)」とも言い、紅紫色の茎を剥いてしゃぶると酸っぱい味がする。このどこにでもある植物を知らない人が増えてきたが、もはや酸葉をしゃぶるような時代ではないから止むを得ないか……。味の切れ目が縁の切れ目ということだ。さて甲子園の選抜がはじまり、プロ野球の開幕ももうすぐだ。球春到来のこの時期に、しかし私たちの田んぼ野球のシーズンは閉幕するのが常だった。田植えの時期が迫った田んぼは、野球遊びどころではなくなるからである。『彩 円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


April 0142013

 入学式の真中何か落ちる音

                           衣斐しづ子

賓などの祝辞や挨拶がつづくなか、静かな入学式場の真ん中あたりから、いきなり何かが落ちた音がした。一瞬ざわめきのように周囲の空気が揺れて、しかしその後は何事もなかったように、式が進行していく。いったい、何がどんな弾みで落下したのか。しばらく気にしていた作者も、やがてそんなことは忘れてしまう。が、後に入学式のことを思い出すたびに、必ずこの不思議な音も思い出すのだから、すっかり忘れてしまったというわけではない。いや、年月を経るにつれて、だんだん思い出すのはこの音のことばかりになってきた。こういうことは、記憶のメカニズムにはありがちだろう。小学校から大学まで、私も入学式には出席したけれど、式のメインである校歌斉唱や祝辞などは何一つ覚えていない。覚えているのは、記念撮影のときに乗った教壇がいまにも壊れそうに古ぼけていたこととか……。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所収。(清水哲男)


April 0842013

 花冷の紙芝居屋の弔辞かな

                           堀下 翔

を見送ってから一年が過ぎた。火葬場の玄関に、桜の花が散り敷かれていたことを思い出す。人情的に言って、春の葬儀は理不尽に写る。ものみな新しい生命に躍動する季節の死は、なんとなく不自然に思え、納得のいかない思いが残る。句の葬儀は花冷えのなかで行われているので、気温の低い分だけ、死の現実を受け入れやすくなっている。少しは理不尽さが緩和されている。葬儀はしめやかに進行していき、やがて弔辞がはじまった。述べるのが紙芝居屋だと知ったときに、作者の心は少しゆらめいたにちがいない。故人との関係で誰が弔辞を述べようとも構わないわけだが、いつもはハレの場で演じている人がケの言葉をつらねることに、いささかの危惧の念と、そして同時に好奇心を覚えたからである。紙芝居屋の弔辞が果たして芝居がかっていたかどうかは知らないが、人生の微苦笑譚はどこにでも転がっていることに、作者があらためて気づいた句ということになりそうだ。俳誌「里」(2013年4月号)所載。(清水哲男)


April 1542013

 竹秋や盛衰もなきわが生家

                           山田弘子

先になると、竹の葉は黄ばんでくる。地下の筍に養分を吸い取られるせいだ。この現象を、他の植物の秋枯れになぞらえて「竹の秋」と言う。枯れた葉がみな散ってしまい丸裸になるような植物に比べれば、竹の秋の変化などは盛衰とは言えぬほどのそれである。同じように、竹やぶを控えたわが生家も、ほとんど何事も起こることなく、長い時間を経過してきた。いつ来て見ても、昔のままのたたずまいであり、住んでいる家族も変わらない。そんな情景をそのままに詠んだ句ではあるが、作者の内心には盛衰のない生家にも、いつかは大きな変化が訪れることを不安に思う気持ちがあるような気がする。今後、「盛」はないかもしれないけれど、いつの日かの「衰」は避け難いだろう。この春はひとまず安泰の生家を見つめながら、作者の心境にはおだやかだけとは言いきれないところがありそうだ。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


April 2242013

 丹念の畔塗死者の道なりし

                           古山のぼる

した田んぼに水を引いて、いわゆる代掻きを行うが、その水が抜けないように泥で畔を塗り固めてゆく。毎春決まり切った仕事なのだが、今年の春は気持ちがちがう。寒い間に不祝儀があって、この畔をしめやかに柩が運ばれて行ったからである。故人を思い出しながらの作業には、おのずからぞんざいにはできぬという心持ちがわいてくる。ていねいに、丹念にと、鍬先へ心が向けられる。村上鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」が実感として迫ってくる。余談めくが、畔塗りの終わった田んぼをあちこち眺めてみると、塗る技術にはやはり歴然とした巧拙の差があって、なんだか痛ましく見えてしまう畔もあったりする。子供の時にそんな畔を見かけては、手仕事の不器用な私は、大人になって畔塗りをしなければならなくなったら、どうしようかと内心でひどく気になったものだった。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 2942013

 かく甘き玉子焼なれ若楓

                           対中いずみ

葉若葉の季節になってきた。どの木々のみどりも美しいが、楓(かえで)のそれは抜きんでている。ハイキングでの昼食の時間だろうか。玉子焼きは弁当のおかずの定番といってよいだろうが、作者はこのときの甘い味に大いに満足して、玉子焼きはいつもこのような甘さであるべきだと悦に入っている。若い楓の葉が発する清らかな風のなか、さぞかしおいしかったろうなと、生つばが出てきそうな句だ。食べ物の句は、すべからくこのようにあるべきだ。またぞろ貧乏話で恐縮だが、子供の頃、我が家では鶏を飼っていたけれど、卵はめったに口に入らなかった。現金収入を得るための大事な商品だったからだ。何かの拍子に傷ついたり割れたりしてしまい、売り物にならなくなった卵一個を弟と分けあったことを思い出す。生卵をきちんと半分ずつに分けるだなんて、至難の業である。当然、喧嘩になった。食べ物を争う喧嘩ほど悲しいものはない。このような句が現れてくるなど、想像もつかなかった時代もあったということである。『巣箱』(2012)所収。(清水哲男)


May 0652013

 もう着れぬ青い服あり修司の忌

                           桑田真琴

山修司の忌日は1983年5月4日である。あれからもう三十年が経ったのか。掲句の作者の年譜からすると、そのときの作者は二十歳そこそこの若さだった。そんな日々に着ていた青い服がまだ残っており、それはどこかで当時の修司を愛読した気分につながっていて、甘酸っぱい若き日々のあれこれを思い起こさせる。しかし、その服が「もう着れぬ」ように、修司も作者の心には生きているが、現実的によみがえることはないのである。青春は過ぎやすし。いまにしてこの感慨が、五月の風のように胸元を吹き過ぎていく。葬儀は亡くなってから四日後の9日に、青山斎場でいとなまれた。上天気の日で、気持ちの良い葬儀だった。「あらゆる寺山作品のなかで、ベストはこの葬儀だったね」と、寺山の歌人としての出立に立ち会った杉山正樹は言っていた。「他者の死は、かならず思い出に変わる。思い出に変わらないのは、自分の死だけである」(修司「旅路の果て」より)。『上馬処暑』(2013)所収。(清水哲男)


May 1352013

 糸底にサンドペーパー緑さす

                           ふけとしこ

い間茶碗などを買ってないから、すっかり忘れていた。新しい陶器類を求めると、糸底がざらついているものがあって、そのまま使うとテーブルを傷つけたり、重ねた他の食器を引っ掻いてしまうことがある。「糸底」とは「本体をろくろから糸を使って切り離すところから」陶器の底を言う。「糸尻」とも。そのざらつきを滑らかにするために、サンドペーパー(紙やすり)で糸底を磨くのである。気の利いた店ならば買ったときに磨いてくれるが、句の場合はどうだったのだろうか。「緑さす」とは若葉影が映ることだから、新緑の美しい屋外の陶器市での情景かもしれない。いずれにしても、真新しい陶器の肌に若葉の色彩が微妙に写り込んで細かく揺れている。もうそれを見ているだけで、「夏は来ぬ」の清々しくも初々しい感情がわいてくるのである。「ほたる通信II」(2013年5月)所載。(清水哲男)


May 2052013

 三十分のちの世恃む昼寝かな

                           加藤静夫

者によっては、大袈裟な句と受け取る人もいるだろう。「三十分のちの世」などと言っても、「現在の世」とほとんど変わりはないからである。たまには三十分の間に大きな地震が起きたりして、世の中がひっくり返るような騒ぎになるかもしれないが、そうした事態になることは稀である。私たちは三十分どころか二十四時間後だって、今と同じ世の中がつづくはずだと思っている。今も明日の今頃も、ずうっと先の今頃も、世に変わりはないはずだと無根拠に信じているから、ある意味で安穏に生きていけるのだ。しかし、だからこそ、なんとか三十分後の世が変わってくれと恃(たの)みたくなる気持ちの強くなるときがある。たとえば私などは原稿に切羽詰まったときがそうで、どうにも書きようがなく困り果てて、ええいままよとばかり昼寝を決め込むときがある。まさに三十分後の世に期待をかけるわけだが、たまには思わぬアイディアが湧いてきたりして、効果があったりするのだから馬鹿にできない。でも、よくよく考えてみれば、この効果は「世」が変わった結果ではなく、自分自身が変わったそれなのだけれど、ま、そのあたりは物は考えようということでして……。『中肉中背』(2008)所収。(清水哲男)


May 2752013

 会ひたしや苗代時の田のどぜう

                           鳥居三朗

も会いたい。苗代時のよく晴れた日の田んぼには、いろいろな生きものが動き回っているのが見えて、子供のころには飽かず眺めたものだった。なかでものろのろとしか動けないタニシと、逆に意外にすばしこい動きをするドジョウとが、見飽きぬ二大チャンピオンだったような……。そんな生きものにまた会いたいと思うのは、しかしその生きものと会いたいというよりも、そうやって好奇の目を輝かしていたころの自分に会いたいということだと思う。そのころのドジョウと自分との関係を、そっくりそのまま再現できたらなあと願うわけだが、しかし厳密に言えば、それはかなわぬ願望である。彼も我もがもはや昔のままではないのだし、取り巻く環境も大きく変わっているからだ。なんの変哲もない句だけれど、この無邪気さは時の流れに濾過された心のありようを感じさせる。なお「どぜう」という表記は誤記だろう。ドジョウの旧かな書きは「どじゃう」でなければならない。「どぜう」は「駒形どぜう」などの、いわば商標用に作られた言葉である。「俳句」(2013年6月号)所載。(清水哲男)


June 0362013

 人の世の芯まで愛す小玉葱

                           陽山道子

理の付け合わせに使われる小玉葱。普通の玉葱よりも柔らかくて、甘味も濃い。形状もいかにも可愛らしいから、小玉葱が嫌いな人はあまりいないだろう。作者は「人の世」もそのようであり、小玉葱が芯まで美味しいように、人の世も芯まで愛し得ると述べている。……とはいうものの、あまりそんなに理屈のかった句として読んではつまらない。小玉葱の球体から地球のそれ、さらには「人の世」と連想して、「みんな、良いなあ」と、機嫌よく思ったよ、ということだろう。作者の、そんなおおらかな心情を読み取って、読者が少しハッピーな気分になれば、句は成功である。なお小玉葱のことを「ペコロス」と言うが、この命名は日本独自のものであり、由来は不明だと「ウィキペディア」に出ている。『おーい雲』(2012)所収。(清水哲男)


June 1062013

 君はただそこにいるのか茄子の花

                           岡本敬三

ういう人に出会ったことはないが、私は子供のころから「茄子の花」が好きだった。低く咲く地味な花だが、よく見れば凛とした可憐な風情がただよっており、色彩も上品である。この句は、そうしたたたずまいの茄子の花に「君」と呼びかけていると解釈できるが、もう一方では、茄子の花のように控えめではあるが凛とした存在である人を念頭に詠まれたともとれる。作者の中では、おそらくそれらは同時に存在しているのではあるまいか。「そこにいるのか」と問われるほどに目立たない存在。そういう存在にこそ関心を抱き、敬愛の念を示す作者の心。世の中、こういう人ばかりだったらどんなに平和で静かなことだろうか……。作者の岡本敬三君は、この六月三日に他界した。六十二歳。彼こそがまず「そこにいたのか」と言ってもよいような控えめな人柄であった。合掌。俳誌「ににん」(10号・2003年4月)所載。(清水哲男)


June 1762013

 いっぴきの金魚と暮らす銀座に雨

                           好井由江

先で雨が降ってきたりすると、なんとなく留守にしてきた家のことが気になったりする。この作者の気持ちには、それに近いものがあるだろう。東京に住んではいても、多くの人にとっては「銀座」は普通の街ではない。誰かに会うとか買い物に行くとか催し物を観るためにとか、たいていは何かちゃんとした目的があって出かけるところだ。その意味から言うと、銀座は旅先のようなものなのである。そんな銀座にいて、雨に降られている。にわか雨なのか、急に雨脚が強くなってきたのか。いずれにしても、思わず空を見上げてしまうような雨の中で、作者は飼っている「いっぴきの金魚」のことを思い出している。案じるというほどではないけれど、ちらりとその姿が気になっている。そしてこのときに作者は、常日ごろ金魚と「いっしょに暮ら」しているんだなあ、家族みたいな間柄なのだなあという実感を抱いたのだった。銀座の雨が金魚いっぴきと結びつく。切なくも洒落た句境と読んだ。『風の斑』(2013)所収。(清水哲男)


June 2462013

 沢蟹が廊下に居りぬ梅雨深し

                           矢島渚男

の句には、既視感を覚える。いつかどこかで、同じような光景を見たことがあるような……。しかし考えてみれば、そんなはずは、ほとんどない。廊下に沢蟹がいることなど、通常ではまずありえないからである。にもかかわらず、親しい光景のような感じは拭いきれない。なぜだろうか。それはたぶん「廊下」のせいだろうなと思う。それも自宅など住居の廊下ではなく、学校や公民館などの公共的な建物のそれである。これが自宅の廊下であれば、きっと作者は驚いたり、訝しく思うはずだ。いったい、どうやって侵入してきたのだろう。いつ誰が持ち込んだのか、という方向に意識が動くはずである。ところが作者は、少しも驚いたり訝しく思ったりはしていない。そこに沢蟹がいるのはごく自然の成り行きと見ており、意識はあくまでも梅雨の鬱陶しさにとらわれている。公共の建物の廊下は、家庭のそれとは違って道路に近い存在なので、見知らぬ人間はもとより、沢蟹のような小さな生き物がいたとしても、あまり違和感を覚えることはない。降りつづく雨の湿気が充満しているなかに、沢蟹が這う乾いた音を認めれば、作者ならずとも微笑して通り過ぎていくだろう。そしてまた、意識は梅雨の暗さに戻るのだ。と思って句を読み返すと、見たこともないはずの情景が一層親しく感じられてくる。『延年』(2002)(清水哲男)




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