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2013ソスN1ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2112013

 ちちははもおとうとも亡しのつぺ汁

                           八木忠栄

ちははもおとうとも亡し……。八木忠栄に少し遅れて、私も同じ境遇になった。「のっぺ(い)汁」は、作者の故郷である新潟の家庭料理として有名だ。父母も弟も健在だったころには、よく家族みんなで食べたことを思い出している。思えば、そのころが家の盛りだったなアというわけである。正月や盆などの年中行事に食されることが多いそうだから、のっぺ汁はそのときどきの思い出を喚起してくれる料理でもあるだろう。この句を読んで、さて我が家の料理では何が該当するだろうかと考えてみた。が、残念なことに、何も思い当たらない。私の故郷である山口で有名なのは下関のフグ料理くらいで、我が家のような寒村暮らしには無縁であった。フグどころか、当時は海の魚を口にしたことはなかった。つまり私には、掲句のように食べ物から家族を思いだすよすがはないのである。寂しい話だが、仕方がない。それにしても弟に先に逝かれるのはこたえるな。作者に「弟勝彦を悼む、二句」があり、一句は次のようだ。「元天体少年おくる冬の岸」。合掌。『海のサイレン』(2013)所収。(清水哲男)


January 2012013

 九十年生きし春着の裾捌き

                           鈴木真砂女

着は新春に着る晴れ着です。卆寿をこえても春着に袖を通す嬉しさは、若いころと変わりません。いや、若いとき以上にうきうきするのは、その粋な着こなしと裾捌(すそさば)きに円熟味を増してきたからでしょう。毎夜、銀座の酔客たちを小気味よく捌いてきた女将ですから、その立居振舞は舞踊のお師匠さんのように洗練されていたことでしょう。「裾捌き」という日本語は、今はもう、舞台と花柳界だけの言葉になってしまったのでしょうが、掲句のこれは、まぎれもなく真砂女の身のことば、身体言語です。あるいは、数学的比喩を使えば、「九十年生きし」は積分的で、「春着の裾捌き」は微分的です。積み重ねた日々を記憶している身体には、今日も巧みな身のこなしでたをやめぶりを舞っている、そんな老境の矜持があります。ただ、このような持続力は、日々目利きの観者たちの目にさらされていたから可能で、一方で、舞台の幕を引いたときには、「カーテンを二重に垂らし寝正月」という句もあり、オンとオフがはっきりしていたようです。以下蛇足。野田秀樹に『キル』という舞台作品があります。ジンギスカンが現代によみがえり、ファッションデザイナーとして世界を征服する(制服で征服する)というストーリーを初演は堤真一が、再演は妻夫木聡が演じています。『キル』というタイトルは、「切る・着る・kill・生きる」の掛詞になっていて、一方掲句では、「生き」「春着」「裾捌き」の「ki」が脚韻となり、句がステップを踏んでいます。『鈴木真砂女全句集』(2 010・角川学芸)所収。(小笠原高志)


January 1912013

 雪催木桶二つに水張られ

                           茨木和生

はどんどん厚くなり空気は冷たく、今にも雪になりそうな気配が雪催。東京に住んでいるとそうそう体感することはないが、先週の日曜日の夕方に近所まで出かけた時、これは来るぞというまさに雪催を実感した。その空の色はただ灰色とか暗いとかでは表現できない圧迫感に満ちており、まだ風は無かったが空気の一粒一粒がきんと凍っている。これは明日の分まで買い物をして帰ろう、明日は雪見て巣籠りだね、ということになったがまさにその通りになってしまった。掲出句は翌日、成人の日に籠りつつ読んでいた句集『往馬』(2012)にあった。目の前の木桶にかすかな風がふれてゆく。水面には冷たい漣が立ち、映っているのはまさに前日に見たあの空なのだろう。どこにどんな木桶が置かれているのかわからないが、小さく張られた水が雪催の持つ得も言われぬ重さと静けさをくっきりと表している。(今井肖子)




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