2013N2句

February 0122013

 枯園に音なきときぞ猫きたる

                           八木林之助

後「鶴」に投句。石田波郷に師事。鶴賞を受賞し波郷門の重鎮となった。1921年生まれで1993年没。この句の当時21歳。寒雷集二句欄に能村登四郎、森澄雄らと並んで出ている。同じ号の楸邨の句に「幾人(いくたり)をこの火鉢より送りけむ」がある。音をさせて出てくる猫ではなく、音が消えたときに出てくる猫。繊細な感覚が生かされている。「ぞ」を用いた句も最近とんと見ない。いつか使ってみたい。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)


February 0222013

 寒灯といふ暖色のまたゝける

                           後藤洋子

灯、冬の灯火である。寒中に限らないが、寒、の一字がそうさせるのか、冬灯、よりともしびの色を感じさせない寒々しさがある。それをこの句の作者は、暖色、と表現している、そこが印象的だった。寒灯というと、灯っていても逆に灯っているからこそ寒々しい、と言いたくなるが、遠くまたたく灯火を見ているうちに、寒い闇の中にあるからこその温もりが、その色から伝わってきたのだ。同じ作者に〈地吹雪や白もまた炎えたぎる色〉とある。地吹雪の激しさが冷たい雪の白を、炎えたぎる色、とまで言わせたのだろうが、いずれの句も、独特の色彩感覚と思いきりの良い表現力が、一句を個性的に仕上げている。『曼珠沙華』(1995)所収。(今井肖子)


February 0322013

 節分の高張立ちぬ大鳥居

                           原 石鼎

分の日、大鳥居の向こうには高張が連なる参道が見えます。節分は、旧暦の大晦日です。かつては、一年の負債の一切を負い、あるいは清算し、新年に向けてリセットできる日でした。「鬼は外、福は内。」旧い年の穢れをはらい、新春を迎える大声の儀式です。高張は、節句、例祭、季節の祭に境内に立てる木の柱。その上に提灯をつけて高張提灯をともす祭もあります。高張を立たせることで、上(神)とつながる柱を立たせようとしたのでしょうか。神を数える助数詞は「柱」ですから、高きにおわす神と地上とをはし渡しする高張なのかもしれません。諏訪大社の「御柱祭」には、そのような気持がありそうです。掲句を嘱目として読むと、たとえば、作者の故郷、出雲大 社に向かう商店街の坂道をゆっくり歩きながら、大鳥 居が視界に入り、その向こうに高張が立ち並ぶ、遠近法的な配置が見えてきます。手前に大鳥居、向こうに高張。高く、奥行きのある空間のその先には、にぎわいの豆まきの声と音が空にはじけましょう。私は本日、鶴岡八幡宮の節分節会に詣でます。「日本大歳時記・冬」(1981講談社)所載。(小笠原高志)


February 0422013

 立春の日射しへ雪を抛り上げ

                           大滝時司

日立春。「ちっとも春らしくないな」という人がいるけれど、立春は春のはじまる日なのであって、春ではない。灰色に塗りつぶした画用紙の隅っこくらいに、ぽつんと緑か黄色の点を打ち、この点を春と見立てた感じである。つまり、季節はまだまだ冬の色のほうが勝っているということだ。東京辺りでもそんな具合だから、北国は依然として冬の真っ盛りにある。毎日のように雪が降るし、除雪作業に追われる日々はつづいたままだ。でも逆に、そんな土地柄だからこそ、「春」という言葉には鋭敏なのである。立春と聞いて明るい心になるのは、雪の少ない地方の人よりも、だんぜん雪国の人のほうが多いだろう。この句には、その気分がよく出ている。珍しく晴れた立春の日射しに向かって、勢いよくスコップの雪を抛り上げる作者の動きは軽快だ。明日も明後日も除雪作業はつづいていくのだが、作者の心には早や雪解け水のように明るいものが流れはじめているのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 0522013

 如月や閑と木の家紙の家

                           照屋眞理子

画「裏窓」の原作者ウイリアム・アイリッシュの小説で「日本の家は木と紙でできているので、一本のカミソリがあれば侵入可能」とあるのを見つけたときにはずいぶん驚いた。障子と襖を思えばおよそ間違いではないが、おそらく作家の頭には紙でできたテントのようなしろものが浮かんでいたのではないか。たしかに煉瓦の家に暮らす国から見れば、木の柱と紙の仕切りとはいかにも華奢に思えることだろう。子どもたちが襖や障子の近くで遊ぶことが禁じられていたのは、破いたり、壊したりしない用心だった。表千家の茶室で扁平な太鼓帯にするのは「壁土をこすって傷つけないように」と聞いて、細やかな作法はこの傷つきやすい日本家屋によって生まれたものだとあらためて思ったものだ。掲句に通う凛とした気配に、冴え渡る如月の空気のなかで、まるで襟を合わせたような神妙な面持ちの家屋を思う。そして、その中に収まるきれいに揃った畳の目や、磨かれた柱を日本に暮らすわたしたちは思い浮かべることができる。〈開かずの間いえ雪野原かも知れず〉〈この世にも少し慣れたかやよ子猫〉『やよ子猫』(2012)所収。(土肥あき子)


February 0622013

 書を売つて書斎のすきし寒(さむさ)哉

                           幸田露伴

寒を過ぎたとはいえ、まだまだ寒さは厳しい。広い書斎にも蔵書があふれてしまい、仕方なく整理して売った。ようやくできた隙間にホッとするいっぽうで、寒い季節にあって、その隙間がいやに寒々しく感じられ、妙に落着かないのであろう。昨日までそこに長い期間納まっていて、今は売られてしまった蔵書のことが思い起こされる。その感慨はよくわかる。書棚に納められているどの一冊も、自分と繋がりをもっていたわけだもの。蔵書は経済的理由からではなく、物理的理由から売られたのであろう。理由はいずれにしろ、そこにぽっかりとできた隙間、その喪失感は寒々しいものだ。身を切られるような心境であろうし、同じようなことは多くの人が大なり小なり経験していることでもある。誰にとっても蔵書が増えるのは仕方がないけれど、じつに厄介だ。露伴は若くして俳句に親しみ多くの句を残しただけでなく、俳諧七部集の評釈でもよく知られている。他に「人ひとりふえてぬくとし榾の宿」がある。『蝸牛庵句集』(1949)所収。(八木忠栄)


February 0722013

 ふりそそぐひかり私の逆上がり

                           徳永政二

かった冬を抜け、ようやく立春を迎えた。これからは一日一日日が長くなり、日差しは明るさを増してゆくだろう。本格的な春がどんどん近づいてくる。「光の春」はロシアで使われていた言葉らしいが、緯度の高い国々に住む人たちにとって春は希望そのもの。降り注ぐ光に春を待つ気持ちが強く反応し、この言葉が生まれたのだろう。鉄棒を握って「えいっ」とばかりに足を振り上げて回る逆上がり。まぶしい青空がうわっと顔に降りかかりくるっと回転する。逆上がりが苦手な私はなかなか回転出来なかったので、あおむけの顔に日の光を存分に浴びた覚えがある。眩しい日差しと手のひらの鉄の匂い。もうすぐ春がやってくる。掲句は川柳フォト句集のうちの一句。『カーブ』に引き続き、写真と川柳のセンスあるコラボレーションがふんだんに楽しめる。「春がくる河馬のとなりに河馬がいる」「あの人もりっぱな垢になりはった」『大阪の泡』(2012)所収。(三宅やよい)


February 0822013

 枯並木蒼天の北何もあらぬ

                           阿部しょう人

者は1900年生まれ1968年没。52年より俳誌「好日」を主宰。著書である俳句の手引き書「俳句 四合目からの出発」はさまざまの例句をあげて欠点を指摘する「べからず集」として話題を呼んだ。この句、新京大同広場の前書きがある。新京は満州国の首都で長春を改名したもの。敗戦の後はまた長春に戻った。「蒼天の北何もあらぬ」が島国に住むものにとっては想像を絶するほどの広大さを思わせる。「何もなし」にすれば字余りは避けられるのに「何もあらぬ」と置いた強い詠嘆を感じさせる効果。枯木立ではなくて枯並木と置いた工夫。どちらも類型を嫌う配慮が見える。才を感じさせるのに十分な手際である。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)

お断り】作者名「しょう」、正しくは竹冠に肖です。


February 0922013

 春の空後頭部から水の音

                           岩崎康史

月の空は、秋の高い空とはまた違った青さを見せて美しいが、時にゆるゆると霞んだ春の空になる日もある。先週末、雨がぱらついた時は久しぶりにやわらかい土の匂いが漂って、立春の日の空はぼんやりと春めいた色をしていた。掲出句、もう少し春が深まって暖かさを感じる頃だろう、ただ、立春の日の淡い空の色が、昨年の夏に読んだこの句を思い出させた。俳句初心者の高校生が初めての吟行で作った句だ。後頭部から水の音、は、春の池が自分の後ろにある感じ、と本人は言っているが、頭の中で水音がしているようにも思える。それは、せせらぎの音なのか魚が跳ねる音なのか鳥の羽が水面を打つ音なのか。いずれにしても、水音を後ろに感じながら、春の空、と視線を広々とした空へ誘っているのがいい。読者も作者同様、空を見上げ深く一つ息をして、音や光やさまざまな春のざわめきを感じることができるのだ。今井聖『部活で俳句』(2012・岩波書店)所載。(今井肖子)


February 1022013

 軍港へ貨車の影ゆく犬ふぐり

                           秋元不死男

いですね。今年は梅の開花が二週間ほど遅れているそうですが、先月末、谷保天満宮の梅林に探梅しに行くと、百本ほどの梅の木の中で、三本ほど、花が開いているものがありました。それも、一本の中で二輪、三輪ほどの開花ですから、一分咲き未満です。天神様お墨付きの梅は、永い間春のブランドの座を保っていますが、梅と違って犬ふぐりは、河川敷のグランド隅に見つける花です。誰にも気づかれずに踏みつけられることもある花ですが、無所属の自由さがあり、春を一番に知らせるこの野の花が好きです。球春も、犬ふぐりとともにやってきます。掲句のように、犬ふぐりは何かの脇に咲いていて、けっして主役にはならず、また、群生するところを見かけません。軍港へ向かう貨車は、金属の物体を運び、鉄路の音を立てて、重くゆっくり移動しています。この時、作者は、鉄路の音を耳にしながらも、影の動きの中に、はっきり犬ふぐりを見つめています。影だから、犬ふぐりは踏みつけられることはない。それを喜んでいると読むのは僭越でしょう。ただ、昭和十八年二月十日夜、迎えに来た妻とわが家へ帰る時の「獄を出て触れし枯木と聖き妻」「北風沁む獄出て泪片目より」「寒燈の街にわが影獄を出づ」(「瘤」)の句にもあるように、京大俳句事件で新興俳句の弾圧に連座し、二年間、獄中生活を送った身です。掲句の鉄路の音に、不吉で不条理なものを感じつつ、しかしそれは音の無い影の移動に変換されて、作者は、青紫の小さな花一輪に、ささやかな春を見い出しています。『秋元不死男全句集』(1980・角川書店)所収。(小笠原高志)


February 1122013

 旗立てて古りし傷撫づ建国日

                           長かずを

後の祝日風景で、もっとも変わったのは、ほとんどの家で国旗を掲げなくなったことだろう。戦前は、田舎の隅々にいたるまで、国旗掲揚は普通のことだった。最近では官庁などのお役所や、バスなどの交通機関くらいでしか見られない。この句の作者はそんな風潮に抗しているのか、あるいは昔ながらの習慣が捨てられずに、玄関脇に国旗を立てている。そして立てた国旗を見上げながら、無意識のうちにかつて受けた古傷の痕を撫でている自分に気がついた。この傷は、むろんお国のために戦った際の傷でなければならない。とはいえこの句には、建国記念の日を心から祝っているのでもなければ、そのかみの戦争を呪っているわけでもあるまい。国旗の掲揚と戦争による古傷との取り合わせは痛々しいが、作者当人はことさらに何かを訴えたいのではなく、逆にそんな時代を生きてこざるを得なかった宿命を諦観している。言うならば、この諦観はいつの時代にも私たち庶民の心情を支配してきたのであり、そのことがまた生き抜くための知恵であったことに思い当たる。哀しいかな、それが現実というものだと思う。『合本俳句歳時記・新版』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


February 1222013

 鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな

                           松瀬青々

こを書くとき、折々今日は何の日か確かめる。七十二候や一般的な行事以外でも、なかなか面白い発見をすることもある。そして、今日2月12日はブラジャーの日。1913年、アメリカでマリー・フェルブ・ジャコブが現在の形に近いブラを発明、特許取得。世界初のブラジャーはハンカチをリボンで結んだだけという単純なものだったという。そして下着メーカー、ワコールがこの日を制定した。女性にとっては必需品でも、男性には謎の多い蠱惑的なしろものだろう。掲句、上五「鞦韆」に「ふらここ」のルビあり。同義の「ブランコ」より大人っぽく、「しゅうせん」より軽やかだ。健康的な女性のはつらつと弾む胸は、男性ならずとも目を引きつける。ふらここの描く弧からこぼれるような胸乳を想像するとき、性的な魅力を超越した屈託のない美しさを感じる。春をつかさどるといわれる佐保姫が霞の衣をまとい、たわむれに鞦韆を漕いでいるかのように。『松苗』(1939)所収。(土肥あき子)


February 1322013

 冬川や朽ちて渡さぬ橋長し

                           寺田寅彦

境の川にかかる橋は別として、車輛が頻繁に通るような橋は、今どきは耐震性も見かけもずいぶん立派なものになってきている。ここで詠まれている橋は木橋か土橋か、いずれにせよ老朽化してしまって、人が渡ることが禁じられている橋であろう。冬であれば、人が通らない橋は一段と寒々しく眺められ、渡れないということで実際以上に長い橋のように感じられるのだ。おそらく、その川は郊外を流れているのであろう。川はいつもより水かさが増して、白々と流れているかのように想像される。だからなおさらのこと、橋の老朽化が強く印象づけられ、いっそう長いものに感じられるのであろう。寒さのなかにも、古き良き時代の風景を感じさせてくれる句である。俳人としてもよく知られている寅彦は、二十歳の頃に俳句を見てもらうために夏目漱石を訪ね、いくつかの俳句が「ホトトギス」に掲載された。漱石には「谷深み杉を流すや冬の川」がある。『俳句と地球物理』(1997)所収。(八木忠栄)


February 1422013

 中年やバレンタインの日は昨日

                           小西昭夫

レンタインは昨日だったのか!と後から思うぐらいだからチョコレートのプレゼントはなかったのだろう。バレンタインデーと言っても楽しいのはお目当ての彼氏がいる若い人たちばかり。大方の中年男性は職場で義理チョコを差し出されて初めて気づく日だろう。義理チョコをもらっても食べるのは奥さんか子供。ホワイトデーのお返しは買った方がいいかな、返す必要もないか、なんて頭を悩ますのも気重である。「中年や遠くみのれる夜の桃」と西東三鬼を思わせ初句の出だしではあるが、今の中年はこの句が醸し出すエロスからも遠く、冴えない現実を送っているのだ。「ゴミ箱につまずくバレンタインの日」(東英幸)なんて句もあり、そんなお父さんたちが空手で家に帰ってきても「チョコレートは?」なんて聞かないように。『季語きらり』{2011}所載。(三宅やよい)


February 1522013

 ねずみの仔凍てし瞼の一文字

                           平山藍子

の鼠の仔は死んでるのかな。生きたまま発見されたけど「凍てし」は寒い外気を喩える比喩なのか。どちらにしても鼠の仔が哀れだなあ。寒鴉なんか季語だし、鴉の孤影とかいってよく詠まれるけど、哀れを詠んでも余り物を少しやろうとかは考えないのだろう。はいはいそれはもっともです。害鳥ですからね。近くの公園で犬を連れて歩いていると近所の爺さんが家を出たり入ったりしてこちらをうかがっている。「犬の糞は持ち帰ること」と公園に貼ってあるのでこちらの所業を見張っているのかなと思い立ち去ってふりかえるとその爺さん、辺りを気にしながら公園のつがい鳩に餌をやっていた。公園には「鳩に餌をやらないで」とも書いてあるのでこちらの眼を気にしていたのだった。こんな爺さんを僕は好きだ。じゃあ、お前、ごきぶりとか蚊はどうなんだといわれると考えてしまうけど。鼠の仔もよく見ると可愛いよね。「寒雷・昭和45年3月号」(1974)所載。(今井 聖)


February 1622013

 早春や目つむりゐても水光り

                           越後貫登志子

春と浅春の違いが話題になった。季感はほとんど同じなので、あとは感覚の違いということだったが、浅春は、春浅し、で立っておりたいてい、浅き春、春浅し、と使われる。浅き春は、春まだ浅いということでやや心情的、言葉として早春よりやわらかい、などなど。確かに個々の感覚なのかもしれないが、この句に詠まれている水のきらめきは、まさに早春のものだろう。風に冷たさが残っていても、そこに春が来ていることを感じさせてくれる。耀く水面を見ていた作者、目を閉じてもその奥にまだ春光が残っている。この句の隣に〈早春の馬梳かれつつ日に眠る〉(小池奇杖)とあり、春は空から日ざしから、と言うけれどほんとうだな、とあらためて思うのだった。『草田男季寄せ 春・夏』(1985)所載。(今井肖子)


February 1722013

 手にゲーテそして春山ひた登る

                           平畑静塔

にゲーテ。これは、持つ自由、読む自由、自由に言葉を使える軽やかさがあります。春山をひたすら登る。これは、歩く自由。野に解き放たれた犬のように、春山を登る喜びがあります。俳句としては例外的に接続詞「そして」を入れていますが、句の中に自然になじんでいて、軽やかな調べを作っています。「そして」は順接なので足し算的な意味がありますが、掲句では同時に、失われたものを取り返す意味もあるように読めます。掲句は、『月下の俘虜』(酩酊社・1955)所収ですが、作者は、昭和15年2月、京都府特高に連行され、一年間京都拘置所で拘留。「足袋の底記憶の獄を踏むごとし」。昭和19年、軍医として中国西京に赴き、昭和21年3月帰還。「徐々に徐々に月下の俘虜として進む」「冬海へ光る肩章投げすてぬ」「噴煙の春むらさきに復員す」。新興俳句弾圧事件で投獄されながら、執行猶予付きで他より早く保釈されたのは、軍医としての「手」を必要とされたからでしょうか。しかし、ほんとうに春はやってきて、手にゲーテをかむように読み、足に春山を踏みしめて、失われていた自由を取り戻せた、春の句です。以下蛇足。「手にゲーテ」とはいかにも三高京大ですね。うらやましい教養主義です。それがキザではないのがいいなあ。(小笠原高志)


February 1822013

 乗り継いで鴬餅は膝の上

                           小田玲子

物用に「鴬餅」を求めた。近畿地方の名物である。乱雑に扱えば、せっかくの美しい鴬餅が、箱の中で偏ったり形が崩れたりしてしまう。だから乗り継ぐ度に、丁寧に膝の上に置いておくのだ。この行為だけをとれば、日常的に誰もがやっていることであり、特別に珍重すべきことではない。しかし、作者があえてこうして俳句に詠んだのは、このときのこの行為に、言外の思いをこめたかったがためだろう。つまり、これから訪ねていく先の相手に対する緊張感のほどを、平凡な行為に託したかったということだ。そのことによって、なんでもない日常的な行為が、作者にとっては特別な意味があることを、さりげなく読者にささやくかたちで告げようとしている。けれん味の無い詠みぶりだけに、読者にもその思いが抵抗感なく伝わってくる。日常を日常として詠むことにより、人生のある断面がすうっと濃く浮かび上がってくる。俳句の面白さの一つが、ここにある。『表の木』(2012)所収。(清水哲男)


February 1922013

 子猫あそばせ漱石の眠る墓

                           村上 護

所の野良猫たちも朝な夕なに恋の声をあげる。じきに子猫の声も混じることだろう。恋のシーズンの恋猫からお腹の大きい孕猫、さらには子猫まで、くまなく季語になっている動物は他にいない。これは猫好きの人間が多いというより、猫が人間の日常への食い込み具合を物語るものだろう。夏目漱石は雑司が谷墓地に眠る。日当りの良い、猫には居心地のよさそうな場所だ。漱石の墓石は大きすぎて下品と苦言するむきもあるが、漱石の一周忌に合わせ妹婿が製作したという墓石は、鏡子夫人の『漱石の思ひ出』によると「何でも西洋の墓でもなし日本の墓でもない、譬へば安楽椅子にでもかけたといつた形の墓をこさへようといふので、まかせ切りにしておきますと、出来上つたのが今のお墓でございます」とある通り、確かに周囲に異彩を放つ。しかし、自然石でもなく、四角四面でもない墓石は、お洒落な漱石にぴったりだと思う。肘掛け椅子のようなやわらかなフォームには幾匹も猫が収まりそうなおっとりとした大らかさがある。とはいえ、大の猫嫌いだったといわれる鏡子夫人は、この墓石のかたちにしたことを多少後悔しているかもしれない。〈ひと枡に一字一字や目借時〉〈四方(よも)見ゆる其中つれづれ日永かな〉『其中つれづれ』(2012)所収。(土肥あき子)


February 2022013

 肉マンを転んでつぶす二月かな

                           井川博年

い日にせっかく買ったアツアツの肉マンを「転んでつぶす」とは、なんてマン(間)がいいんでしょ、と我が友人ゆえに揶揄したくもなる句だ。余白句会の創立(1990年9月)メンバーでありながら、俳句が上達することに必死で抵抗しているとしか思われない(?)博年(俳号:騒々子)が、1992年2月の余白句会で席題「二月」で珍しく〈天〉を獲得した句である。作者会心の作らしく、本人がうるさく引き合いに出す句である。通常、俳句は年月かけて精進すれば、良くも悪くもたいていはうまくなってしまうように思われる。いや、その「うまく」が曲者なのだけれど、博年は懸命に「うまく」に抵抗しているのではなかろうか? 今も。えらい! 掲句は長い冬場のちょいとした意外性と他愛ないユーモアが、句会で受け入れられたかも。俳人はこういう句は決して作らないだろう。ちなみに博年の好物は鰻(外で食べる鰻重か鰻丼)だそうである。逆に大嫌いなものは漬物。どうやら、松江のお坊っちゃまで育ったようだ。同じ日の句会で「蛇出でて女人の墓に憩いける」が、なぜか〈人〉に選ばれている。蛇足として、博年を詠んだ拙句をここに付します。「句会果て井川博年そぞろ寒」。「OLD STATION」15号(2012)所収。(八木忠栄)


February 2122013

 風光る一瞬にして晩年なリ

                           糸 大八

というにはまだまだ寒い毎日だけど光はふんだんに降り注ぎ、あたりの風景を明るくしている。寒気の残る風が光るという発想を誰が見出し、季語になっていったのか。近代的抒情を感じさせる言葉だが正岡子規も用いているぐらいだから使われだして長いのだろう。もちろん風そのものが光るわけではないが、今までくすんで見えた黒瓦だとか生垣などが輝きを増すにつれ、それらを磨きあげる風の存在を感じる。「一瞬にして」の措辞は光のきらめきから引き出されているのだろうが、その言葉に対して「晩年」の二文字が時間の対比を際立たせる。一日一日は長いのに今まで歩んできた月日のあっけなさを思わずにはいられない。いつが自分の晩年なのか、人生後半にさしかかると、春の明るさのうちにこうした句が身にしみる。『白桃』(2011)所収。(三宅やよい)


February 2222013

 二度呼べばかなしき目をす馬の子は

                           加藤楸邨

浜横須賀道路は横須賀に近づくにつれて左右が山。夜は車の数も極端に少ない。路側の灯だけが等間隔に続いていく。走っていていつも思うのはこの山には狸や狐や猪など野生動物が今この時も住んでいるのだろうかということ。ときどき「動物注意」の看板が出てくるから轢かれて死んだりするのも居てそれなりに動物は生息しているのだろう。何を食べているんだろう。冬だと飢えているのだろうな。個人的に飼ったことのある動物は犬、猫、雀、栗鼠(シマリス)、烏。(雀と烏は野鳥なので飼育は禁じられている。両方とも巣から落ちたのを拾ってきて傷が癒えたら野に帰したのである)それから住まいが家畜試験場の中にあったので鶏と豚。栗鼠を除いてはほんとうに賢かった。雀でも鶏でも喜怒哀楽はちゃんとある。雀にいたっては朝寝ているこちらの髪の中に入り込んで起こしにきた。今でもラブラドール犬の梅吉と一緒にベッドで寝ている。こんな句を読むといろんな奴らとの交流を思い出して胸が熱くなる。「角川文庫・新版・俳句歳時記」(1984)所載。(今井 聖)


February 2322013

 白梅に立ち紅梅を見て居りぬ

                           上迫しな女

年は梅が遅いという。近所の梅園は先週の日曜日で二三分咲きだったが植木市も立って、人がずいぶん出ていた。毎年のことだがまだまだ寒く、じっと佇んでいたりお弁当を広げたりしている人はあまりいないが、焼きそばや甘酒はよく売れていて、屋台の前のテーブルは満席。その真ん中にほぼ満開の紅梅がひょろりと立っていたが、見上げる人もほとんどなく香りも焼きそばにかき消され、なんだか気の毒だった。掲出句の紅梅は梅園の隅にくっきりと濡れたように立つ濃紅梅だろうか、遠くからそれをじっと見ている作者である。青みがかったり黄みがかったり、さまざまにほころんでいる白梅の近景と一点の紅梅の遠景が、一句に奥行きを与えると同時に、梅見らしいそぞろあるきの感じを醸し出している。『旅の草笛』(2001)所収。(今井肖子)


February 2422013

 暮雪飛び風鳴りやがて春の月

                           水原秋桜子

書に、「八王子は天候の急変すること多し」とあります。作者は、昭和二十年の東京空襲で自宅・病院・学校を焼失し、八王子市中野に転居。掲句は、昭和二十四年の作です。八王子は、東京から内陸へ約40km、奥多摩山地のふもとで、東側は平地、西側は盆地のような地形ですから、都心とは気温・気候は違って、冬は3℃くらい低く、夏は3℃くらい暑い内陸型の気候で、前書のとおり、たしかに天候が急変することの多い土地です。関東地方は、立春を過ぎてから一度まとまった雪が降って、それからようやく春を迎えることが多く、これはたぶん、西風から東風に切り変わる時の現象でしょう。ですから掲句は、春一番ならぬ春を告げる暴風雪。暮れ時から夜にかけて、街の色彩がモノクロの闇へと移り変わる中、雪の白が斜めにドローイングしているようです。また、「ボセツ・トビ・カゼ」と濁音が連なり、吹雪を音標化しています。五七五は、動・動・静へと納まって、春の月は澄み、清らかです。昭和二十四年の心持ちとして読むのは方向違いでしょうが、叙景そのものから、人と時代の背景を推測する寄り道も、俳句には許されているように思われます。以下蛇足。森進一さんに歌っていただきたい句です。森進一さんの声は、吹雪、風鳴り、しぶきの声です。森進一さんの声を聴くとき、その濁音は、じかに鼓膜をふるわせます。尺八のむら息もそうですが、日本の耳は、噪音を求めているところがあります。「水原秋桜子集」(1984・朝日文庫)所収。(小笠原高志)


February 2522013

 パリパリの私のきもち春キャベツ

                           紀本直美

が来た喜びを、新鮮でパリパリの春キャベツに託している。なんのけれん味もなく、天真爛漫に詠まれたこの句を読むと、こちらまでが愉快な心持ちになってくる。春を迎えた気分は、こうでなくてはいけない。でも、私には違う気分の春もあった。昭和三十三年、大学に入学して宇治に下宿したてのころである。当時の宇治は観光名所ではあったけれど、町には一軒の喫茶店もなく、適当な飲み屋もなかった。昼間は修学旅行生でにぎわうが、夜になれば急に森閑としてしまう。そんな夜に、友人になったばかりの詩人・佃學(故人)とよく飲みに行ったのが、宇治橋のたもとに出ていた屋台であった。そこで安酒をあおりながら、いつも食べていたのが春キャベツだったのだ。べつに風流心からじゃない。その屋台では、キャベツだけはいくら注文してもタダだったからという情けない理由による。佃も私も、相当に鬱屈していた。青春に特有の世間への反発心がそうさせていたのだろう。パリパリとキャベツを噛みながら、暗い宇治川の川面をめがけて、それが口癖だった佃の「くそ喰らえっ」という咆哮を、つい昨日のことのように思い出す。『さくらさくさくらミルフィーユ』(2013)所収。(清水哲男)


February 2622013

 一所懸命紅梅も白梅も

                           西嶋あさ子

HK放送文化研究所によると、「一所懸命」は武士が賜った「一か所」の領地を命がけで守り、それを生活の頼りにして生きたことに由来した言葉で、これが転じて「物事を命がけでやる」という意味となったという。そのうち文字のほうも、命がけで守り通すことから、一生をかけての意味を強め「一生懸命」とも書かれるようになったようだ。今では「一生懸命」と表記・表現される場合が多くなり、多くの新聞や雑誌、放送用語で統一して使用されているという。しかし、掲句を見ると、やはり「一所」でなければならないことが確かにあると思う。ひとところを死守するのは、人間も植物も同じである。毎年同じ場所で、同じ枝からほつりほつりとほころび始める。梅の花がことにつぶらで健気に感じられるのは、冴え返る清冽な空気によるものだろう。一所懸命という音には、凛々しさとともに、痛々しいような切なさもどこかに感じられる。身を切る空気のなかで咲く梅のもつ不憫さも、この言葉は抱えているのである。〈光かと見えて燕の来たりけり〉〈蝌蚪の紐こはごは覗く確と見る〉『的礫』(2013)所収。(土肥あき子)


February 2722013

 坐りだこ囲炉裏に痛し稗の飯

                           高村光太郎

襲で家を焼かれ、敗戦直前から花巻近郊の山小屋で、敢えて孤愁の日々を過ごした光太郎の暮らしぶりを偲ばせる句である。「独居自炊孤坐黙念」の七年間を送ったという。今日の一部文人たちによる「山小屋へ出かけてのくらし/仕事」とはワケがちがう。「ペンだこ」ではなく「坐りだこ」が、山での暮らしぶりと詩人の決意のほどを物語っている。小屋に坐りつづけている暮らしだから、「坐りだこ」が囲炉裏の板の間ではきつくこたえる。しかも鍋で煮て食べるのは白米ではなく、稗の飯である。稗や粟も忘れられつつある昨今。オーバーな表現というわけではない。骨太の男が黙念と囲炉裏の板の間に坐って稗の飯を食べる、その寒々しさ。戦争協力詩を書いた光太郎にとって、それはつくづくニッポンの寒々しさであり、痛さそのものであったと思われる。「焼け残った父光雲譲りの道具で囲炉裏を切り、煮炊、夜は炬燵にして寒さをしのいだ。電気、水道のない生活」(内藤好之)だった。光太郎が残した俳句は六十余句だと言われるが、「短詩形のもつ一種独特な詩的表現は、小生自身の詩作に多くの要素を与へてくれます」と中村草田男への手紙に書いている。他に「百燭に雉子の脂のぢぢと鳴る」がある。内藤好之『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


February 2822013

 大空にしら梅をはりつけてゆく

                           山西雅子

戸の偕楽園では2月20日から「梅まつり」が始まる。梅の香に着実に近づいている春を感じることができることだろう。いつも散歩で通りかかる近所の家のしら梅も見ごろである。「白梅のあと紅梅の深空あり」の飯田龍太の句にあるごとく本来は白梅より紅梅の花期はやや遅いようだ。しら梅の姿そのものが早春の冷たさのようでもある。カンと張り切った青空に五弁の輪郭のくっきりとしたしら梅を見上げると「はりつける」という形容が実感として感じられる。それだけでなく一輪一輪ほころんでゆくしら梅を見つめての時間の経過が「ゆく」に込められており、日々しら梅を見つめ続ける作者の丁寧なまなざしが感じられる。毎年、青梅の吉野梅林を見にゆくのだけど今年はいつが見頃だろうか?楽しみだ。『沙鴎』(2009)所収。(三宅やよい)




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