節分ですね。「もうあかん追儺の豆に歯がたたず」(小寺正三)。(哲




2013ソスN2ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0322013

 節分の高張立ちぬ大鳥居

                           原 石鼎

分の日、大鳥居の向こうには高張が連なる参道が見えます。節分は、旧暦の大晦日です。かつては、一年の負債の一切を負い、あるいは清算し、新年に向けてリセットできる日でした。「鬼は外、福は内。」旧い年の穢れをはらい、新春を迎える大声の儀式です。高張は、節句、例祭、季節の祭に境内に立てる木の柱。その上に提灯をつけて高張提灯をともす祭もあります。高張を立たせることで、上(神)とつながる柱を立たせようとしたのでしょうか。神を数える助数詞は「柱」ですから、高きにおわす神と地上とをはし渡しする高張なのかもしれません。諏訪大社の「御柱祭」には、そのような気持がありそうです。掲句を嘱目として読むと、たとえば、作者の故郷、出雲大 社に向かう商店街の坂道をゆっくり歩きながら、大鳥 居が視界に入り、その向こうに高張が立ち並ぶ、遠近法的な配置が見えてきます。手前に大鳥居、向こうに高張。高く、奥行きのある空間のその先には、にぎわいの豆まきの声と音が空にはじけましょう。私は本日、鶴岡八幡宮の節分節会に詣でます。「日本大歳時記・冬」(1981講談社)所載。(小笠原高志)


February 0222013

 寒灯といふ暖色のまたゝける

                           後藤洋子

灯、冬の灯火である。寒中に限らないが、寒、の一字がそうさせるのか、冬灯、よりともしびの色を感じさせない寒々しさがある。それをこの句の作者は、暖色、と表現している、そこが印象的だった。寒灯というと、灯っていても逆に灯っているからこそ寒々しい、と言いたくなるが、遠くまたたく灯火を見ているうちに、寒い闇の中にあるからこその温もりが、その色から伝わってきたのだ。同じ作者に〈地吹雪や白もまた炎えたぎる色〉とある。地吹雪の激しさが冷たい雪の白を、炎えたぎる色、とまで言わせたのだろうが、いずれの句も、独特の色彩感覚と思いきりの良い表現力が、一句を個性的に仕上げている。『曼珠沙華』(1995)所収。(今井肖子)


February 0122013

 枯園に音なきときぞ猫きたる

                           八木林之助

後「鶴」に投句。石田波郷に師事。鶴賞を受賞し波郷門の重鎮となった。1921年生まれで1993年没。この句の当時21歳。寒雷集二句欄に能村登四郎、森澄雄らと並んで出ている。同じ号の楸邨の句に「幾人(いくたり)をこの火鉢より送りけむ」がある。音をさせて出てくる猫ではなく、音が消えたときに出てくる猫。繊細な感覚が生かされている。「ぞ」を用いた句も最近とんと見ない。いつか使ってみたい。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます