東京三鷹市の高齢者お祝い金の対象が99歳以上になった。(哲




2013N25句(前日までの二句を含む)

February 0522013

 如月や閑と木の家紙の家

                           照屋眞理子

画「裏窓」の原作者ウイリアム・アイリッシュの小説で「日本の家は木と紙でできているので、一本のカミソリがあれば侵入可能」とあるのを見つけたときにはずいぶん驚いた。障子と襖を思えばおよそ間違いではないが、おそらく作家の頭には紙でできたテントのようなしろものが浮かんでいたのではないか。たしかに煉瓦の家に暮らす国から見れば、木の柱と紙の仕切りとはいかにも華奢に思えることだろう。子どもたちが襖や障子の近くで遊ぶことが禁じられていたのは、破いたり、壊したりしない用心だった。表千家の茶室で扁平な太鼓帯にするのは「壁土をこすって傷つけないように」と聞いて、細やかな作法はこの傷つきやすい日本家屋によって生まれたものだとあらためて思ったものだ。掲句に通う凛とした気配に、冴え渡る如月の空気のなかで、まるで襟を合わせたような神妙な面持ちの家屋を思う。そして、その中に収まるきれいに揃った畳の目や、磨かれた柱を日本に暮らすわたしたちは思い浮かべることができる。〈開かずの間いえ雪野原かも知れず〉〈この世にも少し慣れたかやよ子猫〉『やよ子猫』(2012)所収。(土肥あき子)


February 0422013

 立春の日射しへ雪を抛り上げ

                           大滝時司

日立春。「ちっとも春らしくないな」という人がいるけれど、立春は春のはじまる日なのであって、春ではない。灰色に塗りつぶした画用紙の隅っこくらいに、ぽつんと緑か黄色の点を打ち、この点を春と見立てた感じである。つまり、季節はまだまだ冬の色のほうが勝っているということだ。東京辺りでもそんな具合だから、北国は依然として冬の真っ盛りにある。毎日のように雪が降るし、除雪作業に追われる日々はつづいたままだ。でも逆に、そんな土地柄だからこそ、「春」という言葉には鋭敏なのである。立春と聞いて明るい心になるのは、雪の少ない地方の人よりも、だんぜん雪国の人のほうが多いだろう。この句には、その気分がよく出ている。珍しく晴れた立春の日射しに向かって、勢いよくスコップの雪を抛り上げる作者の動きは軽快だ。明日も明後日も除雪作業はつづいていくのだが、作者の心には早や雪解け水のように明るいものが流れはじめているのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 0322013

 節分の高張立ちぬ大鳥居

                           原 石鼎

分の日、大鳥居の向こうには高張が連なる参道が見えます。節分は、旧暦の大晦日です。かつては、一年の負債の一切を負い、あるいは清算し、新年に向けてリセットできる日でした。「鬼は外、福は内。」旧い年の穢れをはらい、新春を迎える大声の儀式です。高張は、節句、例祭、季節の祭に境内に立てる木の柱。その上に提灯をつけて高張提灯をともす祭もあります。高張を立たせることで、上(神)とつながる柱を立たせようとしたのでしょうか。神を数える助数詞は「柱」ですから、高きにおわす神と地上とをはし渡しする高張なのかもしれません。諏訪大社の「御柱祭」には、そのような気持がありそうです。掲句を嘱目として読むと、たとえば、作者の故郷、出雲大 社に向かう商店街の坂道をゆっくり歩きながら、大鳥 居が視界に入り、その向こうに高張が立ち並ぶ、遠近法的な配置が見えてきます。手前に大鳥居、向こうに高張。高く、奥行きのある空間のその先には、にぎわいの豆まきの声と音が空にはじけましょう。私は本日、鶴岡八幡宮の節分節会に詣でます。「日本大歳時記・冬」(1981講談社)所載。(小笠原高志)




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