昔の紀元節。「雲にそびゆる?ちほの?ねおろしに草も木も…」。(哲




2013N211句(前日までの二句を含む)

February 1122013

 旗立てて古りし傷撫づ建国日

                           長かずを

後の祝日風景で、もっとも変わったのは、ほとんどの家で国旗を掲げなくなったことだろう。戦前は、田舎の隅々にいたるまで、国旗掲揚は普通のことだった。最近では官庁などのお役所や、バスなどの交通機関くらいでしか見られない。この句の作者はそんな風潮に抗しているのか、あるいは昔ながらの習慣が捨てられずに、玄関脇に国旗を立てている。そして立てた国旗を見上げながら、無意識のうちにかつて受けた古傷の痕を撫でている自分に気がついた。この傷は、むろんお国のために戦った際の傷でなければならない。とはいえこの句には、建国記念の日を心から祝っているのでもなければ、そのかみの戦争を呪っているわけでもあるまい。国旗の掲揚と戦争による古傷との取り合わせは痛々しいが、作者当人はことさらに何かを訴えたいのではなく、逆にそんな時代を生きてこざるを得なかった宿命を諦観している。言うならば、この諦観はいつの時代にも私たち庶民の心情を支配してきたのであり、そのことがまた生き抜くための知恵であったことに思い当たる。哀しいかな、それが現実というものだと思う。『合本俳句歳時記・新版』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


February 1022013

 軍港へ貨車の影ゆく犬ふぐり

                           秋元不死男

いですね。今年は梅の開花が二週間ほど遅れているそうですが、先月末、谷保天満宮の梅林に探梅しに行くと、百本ほどの梅の木の中で、三本ほど、花が開いているものがありました。それも、一本の中で二輪、三輪ほどの開花ですから、一分咲き未満です。天神様お墨付きの梅は、永い間春のブランドの座を保っていますが、梅と違って犬ふぐりは、河川敷のグランド隅に見つける花です。誰にも気づかれずに踏みつけられることもある花ですが、無所属の自由さがあり、春を一番に知らせるこの野の花が好きです。球春も、犬ふぐりとともにやってきます。掲句のように、犬ふぐりは何かの脇に咲いていて、けっして主役にはならず、また、群生するところを見かけません。軍港へ向かう貨車は、金属の物体を運び、鉄路の音を立てて、重くゆっくり移動しています。この時、作者は、鉄路の音を耳にしながらも、影の動きの中に、はっきり犬ふぐりを見つめています。影だから、犬ふぐりは踏みつけられることはない。それを喜んでいると読むのは僭越でしょう。ただ、昭和十八年二月十日夜、迎えに来た妻とわが家へ帰る時の「獄を出て触れし枯木と聖き妻」「北風沁む獄出て泪片目より」「寒燈の街にわが影獄を出づ」(「瘤」)の句にもあるように、京大俳句事件で新興俳句の弾圧に連座し、二年間、獄中生活を送った身です。掲句の鉄路の音に、不吉で不条理なものを感じつつ、しかしそれは音の無い影の移動に変換されて、作者は、青紫の小さな花一輪に、ささやかな春を見い出しています。『秋元不死男全句集』(1980・角川書店)所収。(小笠原高志)


February 0922013

 春の空後頭部から水の音

                           岩崎康史

月の空は、秋の高い空とはまた違った青さを見せて美しいが、時にゆるゆると霞んだ春の空になる日もある。先週末、雨がぱらついた時は久しぶりにやわらかい土の匂いが漂って、立春の日の空はぼんやりと春めいた色をしていた。掲出句、もう少し春が深まって暖かさを感じる頃だろう、ただ、立春の日の淡い空の色が、昨年の夏に読んだこの句を思い出させた。俳句初心者の高校生が初めての吟行で作った句だ。後頭部から水の音、は、春の池が自分の後ろにある感じ、と本人は言っているが、頭の中で水音がしているようにも思える。それは、せせらぎの音なのか魚が跳ねる音なのか鳥の羽が水面を打つ音なのか。いずれにしても、水音を後ろに感じながら、春の空、と視線を広々とした空へ誘っているのがいい。読者も作者同様、空を見上げ深く一つ息をして、音や光やさまざまな春のざわめきを感じることができるのだ。今井聖『部活で俳句』(2012・岩波書店)所載。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます