「四月は残酷きわまる月だ」とエリオットは書いた。そうかもなあ。(哲




2013ソスN4ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0142013

 入学式の真中何か落ちる音

                           衣斐しづ子

賓などの祝辞や挨拶がつづくなか、静かな入学式場の真ん中あたりから、いきなり何かが落ちた音がした。一瞬ざわめきのように周囲の空気が揺れて、しかしその後は何事もなかったように、式が進行していく。いったい、何がどんな弾みで落下したのか。しばらく気にしていた作者も、やがてそんなことは忘れてしまう。が、後に入学式のことを思い出すたびに、必ずこの不思議な音も思い出すのだから、すっかり忘れてしまったというわけではない。いや、年月を経るにつれて、だんだん思い出すのはこの音のことばかりになってきた。こういうことは、記憶のメカニズムにはありがちだろう。小学校から大学まで、私も入学式には出席したけれど、式のメインである校歌斉唱や祝辞などは何一つ覚えていない。覚えているのは、記念撮影のときに乗った教壇がいまにも壊れそうに古ぼけていたこととか……。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所収。(清水哲男)


March 3132013

 休日を覆ひ尽くしてゐる桜

                           今井肖子

開の桜並木の全体を、構図の中に納め切っています。花の下にいる休日の人々は花に覆い尽くされ、俯瞰した視点からは桜ばかり。一句は、屏風絵のような大作になっています。「桜」を修飾している四文節のうち三文節が動詞で、意味上の主語である「桜」は、「覆ひ+尽くして+ゐる」という過剰な動詞によって、大きく、絢爛に、根を張ることができています。なるほど、桜を描くには形容詞では負けてしまう、動詞でなければ太刀打ちできない名詞であったのかと気づかされました。句集には、掲句同様、率直かつ大胆な構図の「海の上に大きく消ゆる花火かな」があります。蕪村展、ユトリロ展、スーラ展、探幽展からモチーフを得た句も並び、中でも前書きにモネ展の「春光やモネの描きし水動く」は、睡蓮の光を見つめるモネの眼遣いを追慕しているように読み取れます。こういうところに、作者の絵心が養われているゆえんがあるのでしょう。『花もまた』(2013)所収。(小笠原高志)


March 3032013

 山ざくら一樹一樹の夕日かな

                           細見綾子

冷の東京、今週中には雨の予報も出ているので、土曜日には花も終わっているだろうな、と思いながら書いている。『花の大歳時記』(1990・角川書店)は、梅に始まり、椿、桜、と続く。桜の句は、初花から残花まで数百句、その中に静かに掲出句があった。昨年の吉野山、初めて出会った満開の山桜を思い出す。まさに一樹一樹、少しずつ違う花の色と木の芽のうすみどりが、山を覆い花の谷となって重なり合っていた。仄白い花に映る夕日、紅の兆す花を照らす夕日、彩を織りなす花の山々の彼方にやがて日は落ちて、また新しい花の朝を迎える。夕日を見つめながら、今日の桜を心に刻んでいる作者なのである。(今井肖子)




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