April 082013
花冷の紙芝居屋の弔辞かな
堀下 翔
母を見送ってから一年が過ぎた。火葬場の玄関に、桜の花が散り敷かれていたことを思い出す。人情的に言って、春の葬儀は理不尽に写る。ものみな新しい生命に躍動する季節の死は、なんとなく不自然に思え、納得のいかない思いが残る。句の葬儀は花冷えのなかで行われているので、気温の低い分だけ、死の現実を受け入れやすくなっている。少しは理不尽さが緩和されている。葬儀はしめやかに進行していき、やがて弔辞がはじまった。述べるのが紙芝居屋だと知ったときに、作者の心は少しゆらめいたにちがいない。故人との関係で誰が弔辞を述べようとも構わないわけだが、いつもはハレの場で演じている人がケの言葉をつらねることに、いささかの危惧の念と、そして同時に好奇心を覚えたからである。紙芝居屋の弔辞が果たして芝居がかっていたかどうかは知らないが、人生の微苦笑譚はどこにでも転がっていることに、作者があらためて気づいた句ということになりそうだ。俳誌「里」(2013年4月号)所載。(清水哲男)
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