さて、阪神は今宵から鬼門のナゴドで三連戦だ。勝ち越してくれ。(哲




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April 2342013

 桜貝入る拳を当てにけり

                           滝本香世

つの頃からか、どこの海岸に行ってももっとも美しい貝をひとつを選んで持ち帰っている。集めた貝殻を地図の上に置いていけば、いつか日本の輪郭をなぞることができる予定である。桜貝はニッコウ貝科の一種をいうようだが、桜色の二枚貝を総称する。波打ち際に寄せる貝のなかでも、水に濡れた薄紅色はことに目を引き、ひとつ見つければ、またひとつ、と貝の方から視界に飛び込んでくる。掲句の光景はしばらく波とたわむれていた子どもがあどけない声で問うているのだろう。うららかな春の日差しのもとで、繰り返されるおだやかなひとときだ。小さな掌に隠れるほどの貝が一層愛おしく、淡い色彩も、欠けやすいはかなさも、すべてが幸せの象徴であるかのように感じられる。「どっちの手に入っているか」と、突き出す濡れた指先にもまた桜貝のような可愛らしい爪が並んでいることだろう。「ZouX 326号」所載。(土肥あき子)


April 2242013

 丹念の畔塗死者の道なりし

                           古山のぼる

した田んぼに水を引いて、いわゆる代掻きを行うが、その水が抜けないように泥で畔を塗り固めてゆく。毎春決まり切った仕事なのだが、今年の春は気持ちがちがう。寒い間に不祝儀があって、この畔をしめやかに柩が運ばれて行ったからである。故人を思い出しながらの作業には、おのずからぞんざいにはできぬという心持ちがわいてくる。ていねいに、丹念にと、鍬先へ心が向けられる。村上鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」が実感として迫ってくる。余談めくが、畔塗りの終わった田んぼをあちこち眺めてみると、塗る技術にはやはり歴然とした巧拙の差があって、なんだか痛ましく見えてしまう畔もあったりする。子供の時にそんな畔を見かけては、手仕事の不器用な私は、大人になって畔塗りをしなければならなくなったら、どうしようかと内心でひどく気になったものだった。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 2142013

 孫と居て口数多し葱坊主

                           春藤セイコ

しぶりに、帰省した孫に会いました。うれしい気持ちで、おのずと口が動きます。葱坊主は晩春の季語です。てっぺんに白い小さな無数の花が集まって、球状に見えるかわいらしい姿に、孫を重ねているのかもしれません。句集では、掲句の前に「茶を啜るジーパンの膝に桜餅」があり、祖母は孫に東京の学生生活のことなどを尋ね、孫は桜餅を食べ茶をすすりながらこたえている、そんなゆったりした時間が流れています。作者は、明治四十年に徳島で生まれ、同県小松島で活躍した俳人。孫を詠んだ句はほかに「帰省の子万年床に陽は高し」。祖母の目から見る孫は、いつまでも葱坊主であり、それでいてジーパンをはく現代青年であり、祖母は、お天道様のように万年床に惰眠を貪る姿を見守る存在です。なお句集には、「亡き夫の五十回忌や吾が遅日」「懐手父懐かしく夫恋し」があり、早くに夫と死別していることがわかります。また、「親の墓子の墓参り日暮れけり」からは、子とも死別していることがわかります。亡き人は帰りません。しかし、掲句には、その孫が子が帰省して目の前にいます。口もとは、おのずとゆるむでしょう。『梅の花』(1997)所収。(小笠原高志)




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