April 262013
山桜あさくせはしく女の鍬
中村草田男
人は俳句に何を求めるのだろうか。俳味、滋味、軽み、軽妙、洒脱、飄逸、諷詠、諧謔、達観、達意、熟達、風雅、典雅、優美、流麗、枯淡、透徹、円熟、寓意、箴言、警句等々。仮にこんな言葉で自分の句を評されてもちっともうれしくないな。草田男の句はこのどれにも嵌らない。人は何故生れたのか、何のために生きるのか、何をするべきなのか、どこへ行くのか、「私」とは何なのか、そんなことを考えさせてくれる作家だ。「あさくせはしく」が原初の性への認識を思わせる。また草田男の季語の使い方にはグローバルで普遍なるものを個別日本的なるものの上に設定しようとする意志を感じる。彼が花鳥諷詠を肯定したのもそういう理由からであったと思う。『朝日文庫・中村草田男』(1984)所収。(今井 聖)
April 252013
春惜しむ兎の耳の冷たさに
澤 好摩
ウサギの耳は本当に冷たいのだろうか。熱燗の熱さに「アチッ」っと耳を触る仕草をする場面がドラマなんかには出てくるけど、人間の耳たぶ同様冷たいのかも。辻まことの「けもの捕獲法」の狩人の話に「兎は耳がちっと長え。なぜ長えかというと、ヤツは目が近目でな、つまり目がわりいすけ自ずと音でモノをききわけるだな」とあり、遠くからでかい声で「ウサギー」を呼ぶ、だんだん間合いを詰めながら声を小さくしていくと、ウサギは馬鹿な人間が見当違いな方向に行っていると思う、最後に耳元で蚊のなくような声で「ウサギー」とささやくと、すっかり安心して目をつぶる、そこを耳をつまみあげて捕まえる。とあったけど、本当かなぁ。春全体のほんわかした空気が兎全体の毛の柔らかさだとすると、耳の冷たさには、時々思い出したようにぶりかえしてくる春の寒さかも。過ぎさってゆく季節の端境にある微妙な寂しさが「兎の耳の冷たさに」託されているように思う。『澤好摩句集』(2009)所収。(三宅やよい)
April 242013
わが鬱の淵の深さに菫咲く
馬場駿吉
鬱なき人は幸いなるかな、である。特に春は誰しも程度の差はあれ、わけもなく時に心が落ちこんでしまうことがあるもの。「春愁」などという小綺麗な言葉もあるけれど、春ゆえの故なき憂鬱、物思いのことである。その鬱の深さは他人にはわからないけれど、淵の深さを示すがごとく、底にわずかな菫がぽつりと咲いているようにも感じられる。咲いた菫がせめてもの救いになっているのだろう。深淵に仮にヘビかザリガニでも潜んでいたとしたら、ああ、救いようがない。掲句の場合、可憐な菫が辛うじて救いになっているけれど、逆に鬱の深さを物語っているとも言えよう。駿吉は耳鼻科医で、造耳術の研究でも知られる。独自な美を探究する俳人であり、美術評論家としても、以前から各界人との交遊は多彩である。俳句は「たった十七音に口を緘(と)じられた欲求不満」である、と書く。他の句に「大寒の胸こそ熱き血の器」がある。句集に『薔薇色地獄』『耳海岸』などがある。菫の句は漱石の有名な句もさることながら、渡辺水巴の「かたまつて薄き光の菫かな」もいとおしい。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)
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