May 182013
蟻のぼるブロンズ像の長き脚
田口紅子
ちょうど目の高さにブロンズ像の脚がある。そこを忙しなくのぼったりおりたりしている蟻、ついじっと見入ってしまう気持ちはよくわかる。地面を歩いている蟻ならまだ餌を運んでいたり捜したり、脇目もふらずかなりのスピードで歩いているのも納得だが、ブロンズ像である。蟻にしてみればそそり立つ絶壁、なぜここをのぼろうという気になったのか、自らを追い込みたいのか、案外楽しいのか、風の匂いの降ってくる方へひたすら近づこうとしているのか。そんなことを思いながら先日近所の神社へぶらりと行った折、狛犬の台座の石の隙間に蟻が餌を引きこんでいるのを発見、これも巣なのかな、と思いながらこの句を思い出した。ブロンズ像の顔のでこぼこに、風通しのよいひんやりとした足触りの隠れ家でもあるのかもしれない。『土雛』(2013)所収。(今井肖子)
May 172013
夏座敷母と見知らぬ人のおり
西橋朋子
この句の仕掛けは同性としての母に感じる性的な匂い。それを読者に暗示するところにある。それ以外の表現の動機は考えにくい。そこが魅力。父だと会社の同僚でも来ているのか、そんなのは面白くもなんともない。母だからいいのだ。母に客があってたとえば同性のほんとうに只の「見知らぬ人」だったとしたら作者は何を言いたくて書いたのか不明になる。そんな只事のどこに「詩」を見出せようか。まさか座敷ワラシでもあるまい。同じ趣旨の寺山修司の句に「暗室より水の音する母の情事」がある。これを読んだ寺山の素朴なお母さんが怒ったという逸話があったような。俳句はもちろんフィクションでかまわないが寺山のように書くと仕掛けが顕わになる。これみよがしと言ってもいい。「見知らぬ人のおり」ぐらいが俳句性との調和かもしれない。情事なんていうよりもこちらの方がもっと淫靡な感じもある。『17音の青春2013』(2013)所載。(今井 聖)
May 162013
たけのこに初めてあたる雨がある
中西ひろ美
たけのこの伸びるのは早い。「竹の子がほめてほめてと伸びてゆく」という紀本直美の句があるけど、本当にとどまるところを知らない伸び方である。地面からちょいと頭が見えかけたものでも掘りさげるとかなり大きなサイズのたけのこになる。掘り起こしたら早めに料理しないと日が経てばたつほどエグミが出てくる。堀ったばかりのタケノコを刺身のように薄く切って食べるのが一番旨いというがまだ試したことはない。暗い地下からほっこり頭を出したタケノコに当たる雨は若葉雨だろうか。土の匂いとたけのこに降り注ぐ柔らかな雨を思うと読む側の心持もしっとりとしてくる。ぽこっと芽を出したたけのこをじっと見つめている作者のまなざしの優しさが伝わってくる句だ。「古い匂いも出てくるこどもの日」「京都までおいで一通の若葉」『haikainokuni@』(2013)所収。(三宅やよい)
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