May 272013
会ひたしや苗代時の田のどぜう
鳥居三朗
私も会いたい。苗代時のよく晴れた日の田んぼには、いろいろな生きものが動き回っているのが見えて、子供のころには飽かず眺めたものだった。なかでものろのろとしか動けないタニシと、逆に意外にすばしこい動きをするドジョウとが、見飽きぬ二大チャンピオンだったような……。そんな生きものにまた会いたいと思うのは、しかしその生きものと会いたいというよりも、そうやって好奇の目を輝かしていたころの自分に会いたいということだと思う。そのころのドジョウと自分との関係を、そっくりそのまま再現できたらなあと願うわけだが、しかし厳密に言えば、それはかなわぬ願望である。彼も我もがもはや昔のままではないのだし、取り巻く環境も大きく変わっているからだ。なんの変哲もない句だけれど、この無邪気さは時の流れに濾過された心のありようを感じさせる。なお「どぜう」という表記は誤記だろう。ドジョウの旧かな書きは「どじゃう」でなければならない。「どぜう」は「駒形どぜう」などの、いわば商標用に作られた言葉である。「俳句」(2013年6月号)所載。(清水哲男)
February 182014
恋猫の体つめたくして帰る
鳥居三朗
歌にも寒がりだと強調されるわりに、猫が恋を謳歌するのは一年のなかでもっとも気温が低いこの時期から始まる。なにもこんな季節にうろつかなくてもと思うのだが自然の摂理が彼らをそうさせるのだから気をもんでも仕方ない。毎年思うことだが、現代ではペットとして同格の犬と猫も歳時記のなかではずいぶんと差がついている。猫は発情期はもとより孕猫、子猫、果てはかまど猫まで季語となっているのに対し、犬はながらく人間の従者となって働く猟犬だけだった。のちに山本健吉が「冬の犬」を季語として立てたが、採用していない歳時記も多く、飛び抜けた例句も出ていないようで定着とはいえないだろう。そこへいくと発情する猫の鳴き声は猫好きでさえ迷惑に思うしろものだが、芭蕉から現在までずいぶん作品にされている。掲句の猫もようやく戻ってきた身体を撫でる飼い主の手をするりと抜けて、なにくわぬ顔で毛づくろいでもしているのだろう。『山椒の木』(2002)所収。(土肥あき子)
December 262015
千の葉の国に住みつき大根食ぶ
鳥居三朗
千葉という県名は、県庁所在地の千葉市の地名から名付けられたというが、千葉という地名そのものの由来は諸説ある。しかし、千の葉、と美しい言葉で表現されると、豊かな自然と土壌が思われてなるほどと思う。千葉県八千代市にお住いだった作者、千葉名産のピーナッツが好物と伺ったが、今日は大根を食べている。今が旬のこの野菜、生でも煮ても焼いてもおいしく、その生活感が日常の幸せを思わせる。都会過ぎないけれど便利で住みやすい八千代での暮しにしみじみと幸せを感じながら、よく煮えて味のしみた大根をおいしそうに食べている様子が思い浮かぶ。飾らず優しく自然体だった鳥居三朗さんだが、今年の九月、あっというまに旅立たれてしまわれた。思い出されるのは笑顔ばかり、心よりご冥福を祈りつつ今年最後の一句に。合掌。『てつぺんかけたか』(2015)所収。(今井肖子)
January 022016
豆味噌つまみて二日の夜になり
鳥居三朗
愛知県生まれの作者にとって、豆味噌は故郷の味だったのか。そうは一度にたくさん食べられるものでもない豆味噌、つまむ、は、お酒のあてにしている感じもするし、重箱の隅のそれをちょこちょこ楽しんでいるとも思え、二日の夜、がまたちょうどよい頃合いだ。この句の調べは、四四四五、集中の一句前に〈おみくじからから吉吉初詣〉という句もあり、いずれもひとつひとつの言葉が破調のリズムと相まって心地よい軽みを生んでいる。〈地球より外に出でたし春の夜は〉。春を待たずに一人旅に出てしまわれた作者だが、今頃遥か彼方の地で楽しい時間を過ごしているに違いないと思えてくる。『てつぺんかけたか』(2015)所収。(今井肖子)
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