九州、四国と中国が早くも梅雨入り。網走では桜が満開と。(哲




2013N528句(前日までの二句を含む)

May 2852013

 青竹の天秤棒に枇杷あふれ

                           江見悦子

りたての青竹に下げられた籠にあふれんばかりの枇杷の色彩が美しい。枇杷の産毛がきらきらと光り輝いている様子まで目に見えるようだ。あるところに「わたしの好物」という文章を寄せるにあたり、迷いなく枇杷について書かせてもらったことがある。そこで枇杷色のことについて触れた。日本の伝統色でありながら馴染みが薄い色名であるが、そのふっくらとしたまろやかな語感にはいかにも枇杷全体が表れているようで、なんとか周知したいと願っている。掲句の夢のような景色に出会うためには中国太湖まで足を伸ばさねばならないようだが、しかし路地を枇杷売りが「びーわー」とのどかにやってくる枇杷色の夕暮れを想像させてもらっただけで幸せに胸はふくらみ、頬はゆるむ。ところで、ひとつの文章に同じ単語を繰り返さないというのは、作文の時間で習ったごく初歩的な禁忌であるが、枇杷好きが高じて今日の文章のなかには九つもの枇杷が登場してしまった。〈潮待ちの港に蝦蛄の量り売り〉〈月桃の葉に爪ほどのかたつむり〉『朴の青空』(2013)所収。(土肥あき子)


May 2752013

 会ひたしや苗代時の田のどぜう

                           鳥居三朗

も会いたい。苗代時のよく晴れた日の田んぼには、いろいろな生きものが動き回っているのが見えて、子供のころには飽かず眺めたものだった。なかでものろのろとしか動けないタニシと、逆に意外にすばしこい動きをするドジョウとが、見飽きぬ二大チャンピオンだったような……。そんな生きものにまた会いたいと思うのは、しかしその生きものと会いたいというよりも、そうやって好奇の目を輝かしていたころの自分に会いたいということだと思う。そのころのドジョウと自分との関係を、そっくりそのまま再現できたらなあと願うわけだが、しかし厳密に言えば、それはかなわぬ願望である。彼も我もがもはや昔のままではないのだし、取り巻く環境も大きく変わっているからだ。なんの変哲もない句だけれど、この無邪気さは時の流れに濾過された心のありようを感じさせる。なお「どぜう」という表記は誤記だろう。ドジョウの旧かな書きは「どじゃう」でなければならない。「どぜう」は「駒形どぜう」などの、いわば商標用に作られた言葉である。「俳句」(2013年6月号)所載。(清水哲男)


May 2652013

 百合落ちてスローテンポの風となる

                           服部千恵子

りそうでない句です。歳時記数冊で、百合の句数十にあたってみましたが、百合に「落ちる」という動詞を使った句はみつかりませんでした。花瓶や生け花に挿されている百合は、落ちる前にしおれて処分されるでしょうし、庭や野山の百合が落ちる場面を目にすることも稀な偶然です。百合にかぎらず、花が散る、落ちる瞬間を目にすることは実は稀なことで、ゆえに、散る桜に心ひかれるのかもしれません。掲句は、実景嘱目ではなく、虚構でしょう。それゆえ、読む側も自由に場を設定して楽しませていただきます。たとえば、お見合いの席で緊張している二人の会話はちぐはぐでかみ合わない。そのとき、今まで目に入ることもなかった床の間の白い百合の花弁が落下傘のようにゆっくりひらりと舞い落ちる。敏感になっている二人は、波紋のように広がるスローテンポの風を感じ、たがいに百合の匂いにつつまれる。ぎこちなかった二人が微笑し合う。ちょっと乙女チックに夢想しすぎました。なお、掲句は、「風人句会・十周年記念合同句集」(2002)所載。以下、作者のあとがきから抜粋します。「風人句会の良さは、なんといっても師匠のいないことでしょう。ひとりひとりが師匠であり、同時に弟子でもある。(略)師匠がいない良さは他にもあります。それはいろいろな俳人を師匠にできること。おかげで私ものびのびと俳句を作ってきました。(略)今日も私は『たんぽぽのぽぽのあたり』を探しているのです。」(小笠原高志)




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