平年よりだいぶ早く、近畿東海が梅雨入り。関東も今日あたりか。(哲




2013ソスN5ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2952013

 夏柳奥に気っ風(ぷ)のいい主人(あるじ)

                           林家たい平

川啄木の歌ではないけれど、今の時季の柳は葉が青々と鮮やかで目にしみるようだ。冬枯れの頃は葉が枯れ落ちてしまい、幽霊も行き場を失うような寒々しい風情。「気っ風のいい主人」とは、八百屋か魚屋あたりだろうか? まあ、どちらでもいいが、さかんに風にゆられている店先の柳の動きと呼応して、店の奥で立ち働く主人にもそれなりの勢いが感じられる。落語家の着目だから、主人は江戸っ子なのかもしれない。「奥」といういささかの距離感が、句に奥行きを与えている(ダジャレじゃないよ)。「気っ風」とか「ご気性(きしょう)」などという言葉は、若い俳人にはもはや縁遠いものだろう。句会で〈天〉をとった句だという。改めての合評会で、たい平が「えーとどなた(の句)でしたっけ」などとトボケて(?)いるのは愛嬌。たい平は「笑点」だけでなく、ラジオのパーソナリティーとしてもなかなかのもの。伸びざかりの明るい中堅真打で、こん平の弟子。高座での田中眞紀子の声帯模写に、たびたび度肝を抜かれたことがある。武蔵野美術大学造形学部出身の変わり種。他に「夏痩せの肩突き刺して滝の糸」がある。俳号は中瀞(ちゅうとろ)。『駄句たくさん』(2013)所載。(八木忠栄)


May 2852013

 青竹の天秤棒に枇杷あふれ

                           江見悦子

りたての青竹に下げられた籠にあふれんばかりの枇杷の色彩が美しい。枇杷の産毛がきらきらと光り輝いている様子まで目に見えるようだ。あるところに「わたしの好物」という文章を寄せるにあたり、迷いなく枇杷について書かせてもらったことがある。そこで枇杷色のことについて触れた。日本の伝統色でありながら馴染みが薄い色名であるが、そのふっくらとしたまろやかな語感にはいかにも枇杷全体が表れているようで、なんとか周知したいと願っている。掲句の夢のような景色に出会うためには中国太湖まで足を伸ばさねばならないようだが、しかし路地を枇杷売りが「びーわー」とのどかにやってくる枇杷色の夕暮れを想像させてもらっただけで幸せに胸はふくらみ、頬はゆるむ。ところで、ひとつの文章に同じ単語を繰り返さないというのは、作文の時間で習ったごく初歩的な禁忌であるが、枇杷好きが高じて今日の文章のなかには九つもの枇杷が登場してしまった。〈潮待ちの港に蝦蛄の量り売り〉〈月桃の葉に爪ほどのかたつむり〉『朴の青空』(2013)所収。(土肥あき子)


May 2752013

 会ひたしや苗代時の田のどぜう

                           鳥居三朗

も会いたい。苗代時のよく晴れた日の田んぼには、いろいろな生きものが動き回っているのが見えて、子供のころには飽かず眺めたものだった。なかでものろのろとしか動けないタニシと、逆に意外にすばしこい動きをするドジョウとが、見飽きぬ二大チャンピオンだったような……。そんな生きものにまた会いたいと思うのは、しかしその生きものと会いたいというよりも、そうやって好奇の目を輝かしていたころの自分に会いたいということだと思う。そのころのドジョウと自分との関係を、そっくりそのまま再現できたらなあと願うわけだが、しかし厳密に言えば、それはかなわぬ願望である。彼も我もがもはや昔のままではないのだし、取り巻く環境も大きく変わっているからだ。なんの変哲もない句だけれど、この無邪気さは時の流れに濾過された心のありようを感じさせる。なお「どぜう」という表記は誤記だろう。ドジョウの旧かな書きは「どじゃう」でなければならない。「どぜう」は「駒形どぜう」などの、いわば商標用に作られた言葉である。「俳句」(2013年6月号)所載。(清水哲男)




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