今日は梅雨寒の一日になりそうですね。夏風邪にご用心。(哲




2013ソスN6ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0262013

 薔薇の園水面を刻む風の術

                           中村草田男

薇園の中の池の情景でしょうか。句集では、「術」に「すべ」のルビがあります。水面には薔薇の花びらが映り込んでいますが、風が吹いているので、その姿は小刻みに変化しつづけています。水面は、空の青と薔薇の赤とが溶け合うようにゆらいでいますが、けっして混ざり合うことはない、水面です。咲いている薔薇と水面の薔薇は、実像と虚像の関係にありますが、風がドローイングしているととらえる作者の眼には戯れがあります。昭和三十四年、虚子先生の告別式からしばらく経ってからの句なので、あるいは虚子先生の面影を偲んでいるのかもしれませんが、これはわかりません。むしろ、風が施した「術」は花鳥諷詠で、それを客観写生して亡師に捧げている。この方が少し近いようです。なお、Bara・kiZamu・kaZe・suBeの濁音によって、風紋が響いています。『中村草田男集』(1984・朝日文庫)所収。(小笠原高志)


June 0162013

 はらわたに飼ひ殺したる目高かな

                           堀本裕樹

を建て替える前、玄関の前の大きい甕で母がしばらく目高を飼っていた。増えたり減ったりしながら飼われ続ける目高、暗い甕の中で一生を終えるのも何やら気の毒なようにも思ったが、水草にちろちろと見え隠れする大きい目はかわいらしく、見ていると楽しかった。そんな目高を丸呑みしたという掲出句、読んだ時はちょっと驚いたが、半透明な目高の腹がヒトの体内で透きとおり続けているような不思議なゆらめきが、この句を思い出すたびによみがえる。掲出句の前書きに、泳ぎが上手くなると言はれて目高を呑めり、とあり、句集のあとがきに、私の躯のなかには熊野川と紀ノ川が流れている、とある(躯は身ヘンに區)。清流を自在に動き回っている目高なら、速く泳げるようになりたくて掬って呑む、というのもなんとなくわかる気がする。『熊野曼荼羅』(2012)所収。(今井肖子)


May 3152013

 帽灯をはずすと羽抜鳥めくよ

                           野宮猛夫

道に潜るための電球付きのヘルメットが帽灯。採炭の仕事を終えて頭からヘルメットを外すと髪がぺちゃんこになっていて、まるで羽抜鳥のように見える。当時はおしゃれな男性の髪はリーゼントが全盛だったろうから、余計に髪が後ろに突っ立って鳥に似てくる。労働、社会性、党派闘争というホップステップジャンプで導いたのはみんな高学歴エリートたちだ。実社会のみならず俳句の世界でもそうだった。「進歩的」エリートたちは最後のジャンプまで行かずステップまででリベラルを気取るか「わびさび」に引き返して勲章をもらう。野宮さんの作品はそんな意図から抜けている。労働のあとの髪を羽抜鳥に喩えるところからは党派的意図や教訓的箴言には跳ばない。実感そのものである。実はこの実感そのものというのが「詩」の本質なのだと強く思う。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)




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