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June 0362013

 人の世の芯まで愛す小玉葱

                           陽山道子

理の付け合わせに使われる小玉葱。普通の玉葱よりも柔らかくて、甘味も濃い。形状もいかにも可愛らしいから、小玉葱が嫌いな人はあまりいないだろう。作者は「人の世」もそのようであり、小玉葱が芯まで美味しいように、人の世も芯まで愛し得ると述べている。……とはいうものの、あまりそんなに理屈のかった句として読んではつまらない。小玉葱の球体から地球のそれ、さらには「人の世」と連想して、「みんな、良いなあ」と、機嫌よく思ったよ、ということだろう。作者の、そんなおおらかな心情を読み取って、読者が少しハッピーな気分になれば、句は成功である。なお小玉葱のことを「ペコロス」と言うが、この命名は日本独自のものであり、由来は不明だと「ウィキペディア」に出ている。『おーい雲』(2012)所収。(清水哲男)


June 0262013

 薔薇の園水面を刻む風の術

                           中村草田男

薇園の中の池の情景でしょうか。句集では、「術」に「すべ」のルビがあります。水面には薔薇の花びらが映り込んでいますが、風が吹いているので、その姿は小刻みに変化しつづけています。水面は、空の青と薔薇の赤とが溶け合うようにゆらいでいますが、けっして混ざり合うことはない、水面です。咲いている薔薇と水面の薔薇は、実像と虚像の関係にありますが、風がドローイングしているととらえる作者の眼には戯れがあります。昭和三十四年、虚子先生の告別式からしばらく経ってからの句なので、あるいは虚子先生の面影を偲んでいるのかもしれませんが、これはわかりません。むしろ、風が施した「術」は花鳥諷詠で、それを客観写生して亡師に捧げている。この方が少し近いようです。なお、Bara・kiZamu・kaZe・suBeの濁音によって、風紋が響いています。『中村草田男集』(1984・朝日文庫)所収。(小笠原高志)


June 0162013

 はらわたに飼ひ殺したる目高かな

                           堀本裕樹

を建て替える前、玄関の前の大きい甕で母がしばらく目高を飼っていた。増えたり減ったりしながら飼われ続ける目高、暗い甕の中で一生を終えるのも何やら気の毒なようにも思ったが、水草にちろちろと見え隠れする大きい目はかわいらしく、見ていると楽しかった。そんな目高を丸呑みしたという掲出句、読んだ時はちょっと驚いたが、半透明な目高の腹がヒトの体内で透きとおり続けているような不思議なゆらめきが、この句を思い出すたびによみがえる。掲出句の前書きに、泳ぎが上手くなると言はれて目高を呑めり、とあり、句集のあとがきに、私の躯のなかには熊野川と紀ノ川が流れている、とある(躯は身ヘンに區)。清流を自在に動き回っている目高なら、速く泳げるようになりたくて掬って呑む、というのもなんとなくわかる気がする。『熊野曼荼羅』(2012)所収。(今井肖子)




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