晴れるのは嬉しいけれど、「空梅雨」になどなりませんように。(哲




2013ソスN6ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0562013

 緑陰に置かれて空の乳母車

                           結城昌治

が繁った木陰の気持ち良さは格別である。夏の風が涼しく吹き抜けて汗もひっこみ、ホッと生きかえる心地がする。その緑陰に置かれている乳母車。しかも空っぽである。乗せてつれてこられた幼児は今どこにいるのか。あるいは幼児はとっくに成長してしまって、乳母車はずっと空っぽのまま置かれているのか。成長したその子は、今どこでどうしているのだろう? いずれにせよ、心地よいはずの緑陰にポッカリあいたアナである。その空虚感・欠落感は読者の想像力をかきたて、妄想を大きくふくらませてくれる。若い頃、肺結核で肋骨を12本も除去されたという昌治の、それはアナなのかもしれない。藤田貞利は「結城昌治を読む」(「銀化」2013年5月号)で、「昌治の俳句の『暗さ』は昭和という時代と病ゆえである」と指摘する。なるほどそのように思われる。清瀬の結核療養所で石田波郷と出会って、俳句を始めた。波郷の退所送別会のことを、昌治は「みな寒き顔かも病室賑へど」と詠んだ。『定本・歳月』(1987)所収。(八木忠栄)


June 0462013

 十薬や予報どほりに雨降り来

                           栗山政子

年も5月14日の沖縄を皮切りに、例年だと今週あたりで北海道を除く日本列島が粛々と梅雨入りする。サザエさんの漫画では雨のなか肩身狭そうに社員旅行をしている気象庁職員や、あまり当たらないがたまに当たることから「河豚」を「測候所」と呼んでいた時代もあったというが、気象衛星や蓄積データの功績もあり、いまや90%の確率という。十薬とはドクダミをいい、日陰にはびこり、独特のにおいから嫌われることも多いが、花は可憐で十字に開く純白の苞が美しい。掲句では、雨が降ることで十薬の存在をにわかに際立たせている。さらに「予報どほり」であることが、なんともいえない心の屈託を表している。毎朝テレビを付けていれば、また新聞を開けば目にする天気予報である。天気に左右される職業でない限り、通り雨や日照雨(そばえ)を「上空の気圧の谷の接近で午後3時から5時までの間でにわか雨となるところがあるでしょう」などと解明されるのは、どことなく味気ないのだ。いや、的中することが悪いというわけではない。お天気でさえ間違いがないという、そのゆるぎなさに一抹のさみしさを感じるのだ。せめて「今日の午後は狐の嫁入りが見られるでしょう」のように、民間伝承を紛れ込ませてくれたら楽しめるような気がするのだがいかがなものだろう。〈喉元を離るる声や朴の花〉〈露草や口笛ほどの風が吹き〉『声立て直す』(2013)所収。(土肥あき子)


June 0362013

 人の世の芯まで愛す小玉葱

                           陽山道子

理の付け合わせに使われる小玉葱。普通の玉葱よりも柔らかくて、甘味も濃い。形状もいかにも可愛らしいから、小玉葱が嫌いな人はあまりいないだろう。作者は「人の世」もそのようであり、小玉葱が芯まで美味しいように、人の世も芯まで愛し得ると述べている。……とはいうものの、あまりそんなに理屈のかった句として読んではつまらない。小玉葱の球体から地球のそれ、さらには「人の世」と連想して、「みんな、良いなあ」と、機嫌よく思ったよ、ということだろう。作者の、そんなおおらかな心情を読み取って、読者が少しハッピーな気分になれば、句は成功である。なお小玉葱のことを「ペコロス」と言うが、この命名は日本独自のものであり、由来は不明だと「ウィキペディア」に出ている。『おーい雲』(2012)所収。(清水哲男)




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