ZouXでもお世話になった作家の岡本敬三氏が亡くなりました。合掌。(哲




2013ソスN6ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0662013

 逝く猫に小さきハンカチ持たせやる

                           大木あまり

むたびに切なさに胸が痛くなる句である。身近に動物を飼ったことのある人なら年をとって弱ってゆく姿も、息を引き取るまで見守るつらさを知っているだろう。二度と動物は飼わないと心に決めてもぽっかり穴のあいた不在を埋めるのは難しい。この頃はペットもちゃんと棺に入れて火葬してくれる業者がいるらしいが、小さな棺に収まった猫に小さなハンカチを持たせてやる飼い主の気持ちが愛おしくも哀しい。とめどなくあふれる涙を拭いながら、小さい子供が幼稚園や小学校に行くときの母の気遣いのようにあの世に旅立つ猫にハンカチを持たせてやる。永久の別れを告げる飼い主の涙をぬぐうハンカチと猫の亡きがらに添えられた小さなハンカチ。掲句の「ハンカチ」は季語以上の働きをこの句の中で付与されていると思う。『星涼』(2010)所収。(三宅やよい)


June 0562013

 緑陰に置かれて空の乳母車

                           結城昌治

が繁った木陰の気持ち良さは格別である。夏の風が涼しく吹き抜けて汗もひっこみ、ホッと生きかえる心地がする。その緑陰に置かれている乳母車。しかも空っぽである。乗せてつれてこられた幼児は今どこにいるのか。あるいは幼児はとっくに成長してしまって、乳母車はずっと空っぽのまま置かれているのか。成長したその子は、今どこでどうしているのだろう? いずれにせよ、心地よいはずの緑陰にポッカリあいたアナである。その空虚感・欠落感は読者の想像力をかきたて、妄想を大きくふくらませてくれる。若い頃、肺結核で肋骨を12本も除去されたという昌治の、それはアナなのかもしれない。藤田貞利は「結城昌治を読む」(「銀化」2013年5月号)で、「昌治の俳句の『暗さ』は昭和という時代と病ゆえである」と指摘する。なるほどそのように思われる。清瀬の結核療養所で石田波郷と出会って、俳句を始めた。波郷の退所送別会のことを、昌治は「みな寒き顔かも病室賑へど」と詠んだ。『定本・歳月』(1987)所収。(八木忠栄)


June 0462013

 十薬や予報どほりに雨降り来

                           栗山政子

年も5月14日の沖縄を皮切りに、例年だと今週あたりで北海道を除く日本列島が粛々と梅雨入りする。サザエさんの漫画では雨のなか肩身狭そうに社員旅行をしている気象庁職員や、あまり当たらないがたまに当たることから「河豚」を「測候所」と呼んでいた時代もあったというが、気象衛星や蓄積データの功績もあり、いまや90%の確率という。十薬とはドクダミをいい、日陰にはびこり、独特のにおいから嫌われることも多いが、花は可憐で十字に開く純白の苞が美しい。掲句では、雨が降ることで十薬の存在をにわかに際立たせている。さらに「予報どほり」であることが、なんともいえない心の屈託を表している。毎朝テレビを付けていれば、また新聞を開けば目にする天気予報である。天気に左右される職業でない限り、通り雨や日照雨(そばえ)を「上空の気圧の谷の接近で午後3時から5時までの間でにわか雨となるところがあるでしょう」などと解明されるのは、どことなく味気ないのだ。いや、的中することが悪いというわけではない。お天気でさえ間違いがないという、そのゆるぎなさに一抹のさみしさを感じるのだ。せめて「今日の午後は狐の嫁入りが見られるでしょう」のように、民間伝承を紛れ込ませてくれたら楽しめるような気がするのだがいかがなものだろう。〈喉元を離るる声や朴の花〉〈露草や口笛ほどの風が吹き〉『声立て直す』(2013)所収。(土肥あき子)




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