June 102013
君はただそこにいるのか茄子の花
岡本敬三
そういう人に出会ったことはないが、私は子供のころから「茄子の花」が好きだった。低く咲く地味な花だが、よく見れば凛とした可憐な風情がただよっており、色彩も上品である。この句は、そうしたたたずまいの茄子の花に「君」と呼びかけていると解釈できるが、もう一方では、茄子の花のように控えめではあるが凛とした存在である人を念頭に詠まれたともとれる。作者の中では、おそらくそれらは同時に存在しているのではあるまいか。「そこにいるのか」と問われるほどに目立たない存在。そういう存在にこそ関心を抱き、敬愛の念を示す作者の心。世の中、こういう人ばかりだったらどんなに平和で静かなことだろうか……。作者の岡本敬三君は、この六月三日に他界した。六十二歳。彼こそがまず「そこにいたのか」と言ってもよいような控えめな人柄であった。合掌。俳誌「ににん」(10号・2003年4月)所載。(清水哲男)
June 162013
与太者も足裏白き昼寝かな
岡本敬三
六月三日に他界された岡本さんの句です。月曜の清水さんも「控えめな人柄であった」とおっしゃっているとおり、句会では、細身の躯を控えめにたたみ、主張するというよりも、よく人の話に耳を傾ける人でした。だから、文学少女の心を保ち続けている女性たちに慕われることが多く、他の男衆はうらやましがっておりました。怒る、どなる、意地悪をいう、そんな感情はどこかに置いてきて、句会をしみじみ楽しんでおられました。掲句は、十年ほど前の「蛮愚句会」で詠まれた句です。岡本さんが、「ぼくは、足の裏が好きなんですよ」と云ったことが印象深く、後にも先にもそんな嗜好を聞いたのはこれっきり、ありません。考えてみれば、足の裏はふだん隠れていて、体の中でも気にしない部分です。たとえば、悪人には悪人の人相とか、善人には善人の人相とかがあるのかと思われますが、足の裏は、善人も悪人も偉人も凡人も大差ないでしょう。人類は、足の裏において平等に白い、岡本氏はこう言いたかったのかどうか、もう聞けないのが悲しい。たぶん、そんな大げさには考えていないよと、静かに、喉の奥からおっしゃるでしょう。なお、岡本敬三の小説に『根府川へ』(筑摩書房)があります。句誌『蛮愚』(別冊・30回記念・2002)所載。(小笠原高志)
August 212013
秋刀魚の目ひたすら遠し三尾買う
岡本敬三
敬三さんが私たちの余白句会に、何回かゲスト参加した時期があった。参加されなくなってしばらく経つなあと思っていたら、六月三日に亡くなったとの報に驚いた。以前は酒乱気味だったと聞いていたが、お会いした頃は目立ちたがらず、句会でも静かな存在だった。店先の秋刀魚であろう、その目に向けられたまなざしは静かに慈愛に満ちていて、「おいしそうに輝いているから買おう」という気持ちは、ここには働いていない。掲句を引用して、清水哲男は「秋刀魚を買うというごく普通の行為にしても、その底に、死んだ魚の目のありように触発されたからだと述べずにはいられない」とコメントしている。「一尾」ではなく、せめて「三尾」買ったところになぜかホッとできる。秋刀魚の「ひたすら遠」い目に惹かれて買ったのであろう。他に「君はただそこにいるのか茄子の花」という句があり、私には「茄子の花」に敬三自身が重なって感じられる。合掌。「ににん」51号(2013)所載。(八木忠栄)
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