梅雨の時期は一年中でいちばん空を見上げることが多いのかも。(哲




2013ソスN6ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2662013

 百丁の冷奴くう裸かな

                           矢吹申彦

書に「大相撲巡業」とある。俳句だけ読むと「お、何事ぞ!」と思うけれど、大相撲か、ナルホドである。夏のどこかの巡業地で出遭った実際の光景かもしれない。相撲取りの食欲とはいえ、「百丁」はオーバーな感じがしないこともないけれど、一つの部屋ではなく巡業の一行が一緒に昼食をとっているのだろう。二十人いるとしても一人で五丁食べるなら、「百丁」はあながちオーバーとは言えない。大きなお相撲さんたちがそろって、裸で汗を流しながらたくさんの冷奴を食べている。豪儀な光景ではないか。ユーモラスでもある。稽古でほてった裸と冷奴の取り合わせが鮮やかである。「百丁の冷奴」を受けた相撲取りたちの「くう裸かな」が、無造作に見えて大胆でおおらかである。申彦はよく知られたイラストレーターだが、俳句は三十歳をむかえる頃から始めたというから、今や大ベテラン。「詩心のない者は俳句を遊べても、俳句に遊べない」と述懐している。「遊べても……遊べない」そのあたりがむずかしい。俳句関連著書に『子供歳時記ー愉快な情景』がある。俳号は「申」から「猿人」。他に「想うこと昨日に残して鯵たたく」がある。「俳句αあるふぁ」(1994 年夏号)所載。(八木忠栄)


June 2562013

 縄跳びの二重くぐりや雲の峰

                           金中かりん

雨が続くなか、ふとした晴れ間にははっきり夏の刻印が押されたような雲が空に描かれる。縄跳びは冬の季語にもなることがあるが、この場合は夏の遊びとして扱われている。二重くぐりとは、二重跳びと呼んでいたものだと思う。一度跳ぶ間に二回縄を回す跳び方だ。縄は耳元でびゅんと風を切り、高く跳ぶ足元を心地よく二度通過する。二重跳びや、逆上がり、跳び箱など、初めて成功したときはまるで奇跡が起こったかのような嬉しさだが、一度できてしまえばあとは身体が覚えてくれている。振り返ってみれば、あれもこれもできるはずもないと思っていたことばかりだ。夏空に描かれた力瘤のような雲の峰が、新しいなにかへ力を貸してくれるように、もくもくと湧き上がる。〈鶏頭の凭れ合ひしが種子こぼす〉〈暗闇にくちなはの香の立つてをり〉『かりん(※書名は漢字)』(2013)所収。(土肥あき子)


June 2462013

 沢蟹が廊下に居りぬ梅雨深し

                           矢島渚男

の句には、既視感を覚える。いつかどこかで、同じような光景を見たことがあるような……。しかし考えてみれば、そんなはずは、ほとんどない。廊下に沢蟹がいることなど、通常ではまずありえないからである。にもかかわらず、親しい光景のような感じは拭いきれない。なぜだろうか。それはたぶん「廊下」のせいだろうなと思う。それも自宅など住居の廊下ではなく、学校や公民館などの公共的な建物のそれである。これが自宅の廊下であれば、きっと作者は驚いたり、訝しく思うはずだ。いったい、どうやって侵入してきたのだろう。いつ誰が持ち込んだのか、という方向に意識が動くはずである。ところが作者は、少しも驚いたり訝しく思ったりはしていない。そこに沢蟹がいるのはごく自然の成り行きと見ており、意識はあくまでも梅雨の鬱陶しさにとらわれている。公共の建物の廊下は、家庭のそれとは違って道路に近い存在なので、見知らぬ人間はもとより、沢蟹のような小さな生き物がいたとしても、あまり違和感を覚えることはない。降りつづく雨の湿気が充満しているなかに、沢蟹が這う乾いた音を認めれば、作者ならずとも微笑して通り過ぎていくだろう。そしてまた、意識は梅雨の暗さに戻るのだ。と思って句を読み返すと、見たこともないはずの情景が一層親しく感じられてくる。『延年』(2002)(清水哲男)




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