2013N7句

July 0172013

 木苺やある晴れた日の記憶満ち

                           矢島渚男

う木苺の盛りは過ぎただろうか。気がつけば、木苺を見なくなってから久しい。子どもの頃には山道のあちこちに自生していたから、学校からの帰り道、空の弁当箱にぎっしりと詰めて帰って、おやつ代わりにしたものだった。もっとも、弁当箱の中でつぶれて汗をかいたような木苺は、そんなに美味ではなかったけれど。そんな体験のない若い人には、この句の良さはわかるまい。字面上の意味は誰にでもわかるけれど、木苺という季節の産物とおのれの記憶とが、このようにしっかりと結びつくという心的構造は理解できないはずだ。木苺に限らず、季節の産物に記憶がしみ込むというようなことは、よほど自然が身辺に豊かでなければ起こり得ないからである。図鑑や歳時記なんぞで木苺を検索するような時代になってしまっては、とうてい無理な相談である。そう考えれば、俳句の季語が持つ機能の一つである季節の共有感覚も、いまや失われたと言ってもよいかもしれない。作者や私の木苺と若い読者の木苺とで共有できるのは、その色彩や形状くらいのものだからだ。つまり決して大げさではなく、現代の木苺は鑑賞するものではあっても、生活とともにあるわけではないから、さながら季節の記号のような存在と化してしまっている。それが良いとか悪いとかと言う前に、このようでしかあり得なくなった現代の私たちの環境には、ただ呆然としてしまうばかりだ。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


July 0272013

 紙袋に子犬をもらひ日日草

                           小谷延子

年1月に12年飼っていた三毛猫を亡くし、しばらく味気ない生活を送っていたが、先月、三毛と白黒の姉妹を引き取った。2匹は一向に緊張する様子もなく、移動中もキャリーバックのなかでもくんずほぐれつ動き回る。そんな様子を思い出し、掲句にまず驚いたのは紙袋である。猫だったらそれはもうたいへんな事態になることは必至であろう。おそらくこの子犬、血統書などとは縁遠く、生まれちゃったからもらってくれない?という願いのもとに作者の手に渡ったのだろう。それも、たまたま立ち寄った行きがかり上という気配すらある。しかし、日日草の斡旋によって、双方にとって幸せな出会いだったことがわかる。紙袋のなかでじっと不安そうにしている子犬も、すぐに飼い主になつき、新しい散歩道で新しい友達に出会うことだろう。暑さに強く、次々と鮮やかな花を咲かせる日日草が、子犬の健やかな成長を象徴している。『楓の実』(2013)所収。(土肥あき子)


July 0372013

 夏の旅雑技(サーカス)の象に会ひてより

                           財部鳥子

性六人(高橋順子、嵯峨恵子、他)による歌仙「上海渡海歌仙・雑技の巻」の発句である。いずこのサーカスにせよ、サーカスの〈花〉は何といっても象である。馬や熊、ライオンなど多くの動物が登場しても、あの巨体でのっそりとけなげな芸を披露してくれる象こそ、サーカスの花形であることはまちがいあるまい。上記の歌仙に付して森原智子が「いつか中国旅行の途次、財部鳥子、高橋順子といった方たちと歌仙を捲いたことがあった…」と書いている。この歌仙全体を読みこんでみると、遣われている言葉から推して、どうやら中国旅行に出かけたときの成果のように思われる。この発句は旅先上海への挨拶であろう。私事になるが、十数年前に鳥子を含む詩人たちで中国を公式訪問した際、サーカスではないけれど、上海雑技団のいくつかの曲芸などの舞台公演を見て、その高度なワザに度肝をぬかれた思い出がある。掲句は、やはり「象に会ひて」より上海雑技(サーカス)は始まり、旅が始まったということなのだろう。どこかしら夏の旅心も異国にあって、うれしそうにはずんで感じられる。歌仙での鳥子の俳号は杜李子。同じ歌仙の「月」の座で、杜李子は「満月をそのままにして子は眠り」と付けている。『歌仙』(1993)所収。(八木忠栄)


July 0472013

 いっぱいの打水宇宙ステーション

                           紀本直美

いた庭に打水をする。水が黒い後になって点々と敷石に散り、土を濡らし、庭木の葉を濡らし、湿った水の匂いが立ち上る。マンション住まいになってから如雨露で植木に水をやることはあっても、庭に打水をする。玄関の掃除のあとにちょいと水を撒く、あの気持ちよさは味わえずにいる。それにしても打水から宇宙ステーション。この大胆な飛び方に脱帽。俳句の枠組みに頭を縛られていると出てこない発想だ。確かに点々と乾いた土に広がる水の跡は暗黒の宇宙にさんざめく星々のきらめき。そして回転しながら水を撒いてゆく私そのものが宇宙ステーションなのかもしれない。そんな想像に身をゆだねて勢いよく水を撒けば、ますます打水が楽しくなりそうだ。『さくさくさくらミルフィーユ』(2013)所収。(三宅やよい)


July 0572013

 本を買い苺の箱と重ねもつ

                           田川飛旅子

あこれぞ「写生」だ。苺の必然性を問題にすると苺は苺らしくあらねばならず、この句の場合だと苺の箱の大きさが本の大きさとちょうど合っているというような議論になる。あるいは赤い色が鮮烈だとか。みんな後講釈に思える。箱の大きさが本と重ねもつことができる大きさでそれが即ち季語であれば御の字ということになる。たとえば苺の箱の代りに玩具の箱だと大きさもぴったり、韻律もぴったり、子供へ買ったという生活感も出るが、季語になりませんからな。俳句にはなりませんな。ということになる。どこかおかしいような気がする。季語が季節感のために必要ならそもそも冬でもスーパーで売っている苺は季節感を持つのか。苺は夏が旬だとしてもなぜそんなことが絶対的教条になるのか。写生というのは目の前のものをよくみて写すことだ。今を切り取ることだ。田川さんはそういうところを攻めた俳人。この句にもそんな主張がアイロニーのように込められている。『花文字』(1955)所収。(今井 聖)


July 0672013

 すばらしい乳房だ蚊が居る

                           尾崎放哉

日兼題で、蛆、が出され初めは困惑したが、箱根での田舎暮らしが長かった身には、親しいとまでは言わないが思い出す光景はあれこれあった。蠅、蜘蛛、羽蟻、百足にゲジゲジ、そしてもちろん蚊。虫と一緒に暮らしていた夏が何となく懐かしくもある。同時に、どこかいつも小暗かった古い平屋が懐かしい。そんなうすい闇の中でこそ乳房は仄白く美しく、美しいからこそ蚊の存在がなんともおかしくもあり、切りとられた一瞬にリアリティが生まれている。掲出句は、先週亡くなられた村上護氏編『尾崎放哉全句集』(2008・筑摩書房)より。句と共に、写真や書簡も豊富に収められた読み応えのある一冊である。幾度となく酌み交わした際の穏やかな笑顔など思い出しつつ、合掌。(今井肖子)


July 0772013

 浴衣着てロールキャベツは大口で

                           火箱游歩

いうちに、ロールキャベツを食べたい。作りたい。そして僕は、この夏、初めて浴衣に袖を通して、ロールキャベツを丸ごと、大口をあけて食べるんだ。俳句を読んで、まれに、それを生き方にとり入れられる場合があります。句のとおりに生きられる句。それは、かりそめながら、人生のお手本といえるでしょう。よく、酒場のトイレで、拙い筆文字の箴言らしきひらがなを目にしますが、生き方を臆面もなく語り文字にされることに気恥ずかしさを感じながら抵抗してきました。しかし、掲句であれば、そのとおりにやってみたいと思います。まずは、一人で、浴衣を着て、ロールキャベツを大口で食ってみます。うまくできたら、俳句の友を招待して、「第一回、ロールキャベツ大口浴衣会」を開きます。掲句にもどって、浴衣も、ロールキャベツも、身を包んで納めているところに品があります。『雲林院町』(2005)所収。(小笠原高志)


July 0872013

 雲の峰過去深まつてゆくばかり

                           矢島渚男

そり立つ入道雲。同じ雄渾な雲を仰ぐにしても、若いころとはずいぶん違う感慨を覚えるようになった自分に気がつく。若いころには、別に根拠があるわけではないが、真っ白な雲の峰に、あるいは雲の向こうに、なにか希望のようなものの存在が感じられて、気分が高揚したものだった。それがいつの間にか、そういう気分がなくなってきて、希望的心情は消え果て、ただ意味もなく「ああ」とつぶやくだけのことで終わってしまうのがせいぜいである。自然の摂理で仕方はないけれど、老人になってくると、自然にものの見方は変化してくる。そのことに作者はもう一歩踏み込んで、希望を覚えないかわりに、つまり未来を思わないかわりに、「過去」が深まってゆくのだと言い放つ。その「過去」が豊潤なものであるかないかは別にして、老いはどんどんとおのれの「過去」を深めてゆくばかりなのである。しかも、その気分は悲しいとか哀れだとかという感情とは無関係に、わいてくる。ただ「ああ」というつぶやきとなって、自然にわいてくるのだ。そういう意味で、この句は老いることの内実を、そのありようを淡々と描いていて秀逸だ。刻々と深まりゆく過去を覚えつつ、老いた人はなお生きてゆく。何事の不思議なけれど、老いた身には、そういうことが起きてくる。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)


July 0972013

 帆を張れば船膨らみし青葉潮

                           河原敬子

日、日本丸の総帆展帆(そうはんてんぱん)を見に行く機会があった。青空の下、一時間ほどかけて乗組員たちの掛け声とともに29枚すべての帆を広げた帆船は、見ているものの誰もが息をのむ美しさだった。それはまるで、大きな蝶が羽化しているさまを目の当たりにしているような、帆船が帆船として息を吹き返しているような、なんとも不思議な時間が海の上に流れていた。かつてはその姿の美しさから「太平洋の白鳥」と称されたとの説明を読み、そのとき感じたどこと言えない胸のわだかまりがなんであるかに気づいた。それは、船が繋留されたままであるという不自然さだった。太平洋の白鳥は岸に繋がれたまま羽を広げていたのだ。動物園に飼われた雄々しい動物を見るときに感じる胸の痛みであった。総帆展帆して帆を風に膨らませても進むことは叶わないのだ。いつか大海に浮かぶ帆船の本当の美しさを見ることはできるだろうか。〈サングラス外しほんたうの海の色〉〈花の名を後ろ送りに尾瀬の夏〉『恩寵』(2013)所収。(土肥あき子)


July 1072013

 天の川の水をくみきて茶の湯かな

                           有吉佐和子

夕は過ぎてしまったけれど、天の川が消え去ったわけではないから、七夕句会で詠まれた一句を取りあげる。佐和子が元気な(活発な人だった)頃のある年、佐和子邸で「七夕の茶会」なるものが催された。ドナルド・キーン、加東大介、他らと一緒に招かれた車谷弘が、その時の様子を書いている。お茶席の床の間に掲げられた掛軸は、天の川にちなんだ勝海舟の書で、佐和子のお点前による濃茶が振る舞われた。やがて「句会をやりましょう」ということになり、掛軸は漱石の俳句のものに替えられた。花瓶の花も漱石にちなんで、「猫のひげ」に替えられるという趣向。掲句はその席での一句。「天の川の水」はさらりとしゃれていて趣があるではないか。「あけ放した二階座敷から、仄明るく、雨気をふくんだ夜空がひろがり、夜ふけの感じが濃くなっていた。散会したのは十一時近く」と車谷弘は書いている。茶会と句会のダブル・ヘッダーとは、なかなかおしゃれである。「天の川」は秋の季語だが、七夕に作られた句ということでここに紹介した。佐和子はどれくらい俳句を嗜んだのだろうか。その席でキーンさんは「文月や筆のかわりに猫のひげ」と詠んだ。車谷弘『わが俳句交遊記』(1976)所載。(八木忠栄)


July 1172013

 暗算の途中風鈴鳴りにけり

                           村上鞆彦

の頃は町中を散歩していても風鈴の音を聞かない。風鈴を釣る縁側の軒先もなくなり、風鈴の音がうるさいと苦情が来そうで窓にぶら下げるにも気を遣う。風鈴の音を楽しめるのは隣近所まで距離のある一軒家に限られるかもしれぬ。気を散らさぬよう暗算に集中している途中、風鈴がちりんと鳴る。ほとんど無意識のうちに見過ごしてしまう些細な出来事を書き留められるのは俳句ならではの働き。宿題を広げた座敷机、むんむんと気温が上がり続ける夏の午後、かすかな微風に鳴る風鈴の音にはっと顔を上げて軒先に広がる夏空を見上げる。掲句を読んで昔むかし小学生だった自分と、宿題に悩まされつつ過ごした夏休みの日々を久しぶり思い出した。『新撰21』(2009)所載。(三宅やよい)


July 1272013

 言葉出雲となり麦のびをる

                           入沢春光

治16年、鳥取県日野郡生まれ。俳句を鳥取中(現鳥取西高)の先輩である子規門の坂本四方太の指導を受ける。その後河東碧梧桐が鳥取を訪れたの契機に「新傾向俳句」に参加。自由律の句を作った。中学一年上級の尾崎放哉とも親交を結ぶ。後年は村長、県会議員などを歴任し地元の政治家として活躍。酒豪として知られ宴席で食べた河豚の毒にあたって44歳で亡くなった。詩人の入沢康夫は親戚筋。あぎゃんこと、そぎゃんこと(あんなこと、そんなこと)。だんだん(ありがとう)など出雲弁も独特。米子で長く暮らした僕は出雲弁を話していた。同窓会などあると今でもみんな出雲弁だ。ああ懐かしい。『広江八重桜と山陰の明治俳人』(1992)所載。(今井 聖)


July 1372013

 まみゆるは易し涼風ある限り

                           上迫和海

松遊子に〈涼しさは淋しさに似て夜の秋〉があるが、涼し、と、淋し、はどこか通じるものがある気がする。涼風の中にいるとき人は、なんとなく遠い目をしてそこに身をゆだねる。心地よい中に、どこか遠くへ誘われるような心地がするからだろうか。掲出句、作者にどんな思い出があるのかはわからないが、深い哀悼の心と愛情、穏やかな中に静かな決意のようなものも感じられる。二度と会うことはできないけれど、ここに来てこうして涼風の中にいると、その人の声が聞こえるような気がしてくるのだ。涼風の一つの姿がそこにある。『句集 四十九』(2012)所収。(今井肖子)


July 1472013

 七月のなにも落さぬ谷時間

                           秋元不死男

月は、花も散らない。木の葉も落ちない。蝉の脱け殻が落ちてくるには少し早すぎる。梅雨が明け、雨も降らない。空は雲もなく晴れていて風もなく、谷の斜面の樹木は、濃い緑の葉を繁らせている。動くもののない谷間の時間は静止している。秒針が動いて、日が傾いて時の経過を知るわけですが、なにも落ちてくるものがない真昼の谷間では、静止画の中に入れられたような感覚に陥って、時間の迷子になった気持ちなのかもしれません。あるいは、なにも落とさぬ樹木や生物に、生命の緊張を感じとり、谷の空間に平衡が保たれている状態を谷時間としたのかもしれません。七月は、一年の中でも中間に位置します。植物や動物と、空と地形とが、あるバランスをとっていて、俳人は、偶然にもその中点に立つことができた。谷時間とは、そのような立ち位置に居て、初めて感得できる言葉なのかもしれません。詩の言葉であり、哲学の、自然科学の言葉のようでもあります。詩と哲学と自然科学の中点。なお、前書に「秩父・高麗郷」とあります。昭和五十年、七十四歳の作。二年後第四句集『甘露集』(1977)に所収するも、刊行を待たずに永眠されました。(小笠原高志)


July 1572013

 山に石積んでかへりぬ夏休

                           矢島渚男

い返してみれば、夏休みは、それがあること自体が重荷であった。戦争の余韻がまだ生活のなかに染みついていた時代であり、夏休みといっても、手放しの解放感が味わえるわけではなかった。ましてや暮していたのが本屋もないような山奥の農村とあっては、およそ娯楽に通じる施設があるはずもなく、学校が休みになった時間だけ、家での手伝い仕事が増える勘定だった。だが、それだけを重荷というのではない。いちばんの重荷は、夏休みを夏休みらしく過ごせないことが、あらかじめ定められていたことだった。学校からはいっちょまえに宿題や自由研究の課題が示されていたし、教師たちは口をそろえて、夏休みらしい成果をあげるようにと私たちを激励したものだった。が、そんな成果へのいとぐちさえ見いだせないというのが、子供たちの生活実態であり、それが高じて焦りや劣等感にもつながっていき、長期休暇の成果達成は慢性的な強迫観念のようにのしかかっていたのだった。いまこの句を読んで、そんなことを思う。この積まれた石は、子どもの成果達成への憧れを見事に象徴している。夏休みらしいことが何ひとつできずにいる子どもの焦燥感が、この空しい石の集積である。子どもは、大人よりもよほどおのれの悲しみのありかを知っている。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


July 1672013

 飛石に留め石苔の庭涼し

                           鳥井保和

本の庭園の美しさは植栽であり、水であり、そして石も大きな役割を持つ。庭石や蹲(つくばい)、石灯籠、石橋、石畳、どれも日本人の感性が導き出した実用と鑑賞の美である。留め石は関守石、極石、踏止石とも呼ばれ、茶道の作法では露地の飛石や敷石の上に置かれる。安定のよい丸い石に黒の棕櫚縄を十文字に掛けたもので、初めてみたときはなんのいたずらかと思うような可愛らしい姿だが、しかしこの石には、ここから先入るべからず、の問答無用の強い意思を持つ。「立入禁止」の四文字より、どれほど簡素で、粋で、そして美しいものであろうか。また、岐路では一方を塞ぐことで、正しい道を案内する意味も持たせることができる。掲句の下五、「庭涼し」が水をたっぷりと打った露地に馥郁とした風を誘っている。『星天』(2013)所収。(土肥あき子)


July 1772013

 この先を考へてゐる豆のつる

                           吉川英治

のように詠まれてみれば、豆にかぎらず蔓ものは確かに「さて、これからどちらの方向へ、どのように伸びて行こうか…」と思案しているようにも見える。また、作家としての英治自身の先行き、といった意味が込められているようにも読める。マメ科の蔓植物は多種ある。考えながらも日々確実に伸びて行くのだから、植物の見かけによらない前向きの生命力には、目を見張るばかりである。豆ではないが、わが家のプチ・モンステラなどは休むことなく、狭い部屋で日々その先へ先へと蔓を伸ばしていて、驚くやら感心するやらである。蔓ではないが、天まで伸びる「ジャックと豆の木」を思い出した。壮大な時代小説を書いた英治は多くの俳句を残したが、それにしても「豆のつる」という着眼は卑近でほほえましいし、「考へてゐる」という擬人化には愛嬌が感じられる。もちろんそのあたりは計算済みなのであろう。何気ないくせに、思わず足を止めてみたくなる一句である。ほかに「蝉なくや骨に沁み入る灸のつぼ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 1872013

 真夏日の名画座冷えてゆくばかり

                           笠井亞子

天下を避けてふらりと入った名画座。話題の新作でもなく、もとより観客の数は少ない。外は焼けるような暑さなのに人気のない映画館の冷房はしんしんと冷えてゆくばかり。ホームビデオの普及で上映された新作を数か月遅れでビデオ屋に並んでいるのを借りてきて、ソファーに寝転がって見ることが多い。日々雑用に追われてなかなか映画館へ行けないが、他の観客とともに暗闇の中で大画面を見上げる映画館の雰囲気は捨てがたい。昔の映画は前編と後編に分かれていて、フィルム交換の時間にロビーに出てコーラを飲んだりトイレに並んだりと悠長なものだった。フィルムが切れたら映写技師が修復をして再開していたっけ。(こんな話をすると年がわかる!)いまやタブレット端末で、電車の中でも映画を見ることができる。銀座の名画座も閉館してしまった。やがて映画館そのものが消えてしまうかもしれない。掲句の「名画座」の響きに冷房の効きすぎた映画館へ一昔前の映画を見に行きたくなった。『東京猫柳』(2008)所収。(三宅やよい)


July 1972013

 木五倍子折るために掴まる木を探す

                           青柳志解樹

人の平均年齢が高いと必然的に俳句は老いを詠むことになる。別に老いを詠まねばならないということはないが、自分に正直な詠み方であればそうなる。老人が老いを詠まないという選択肢があるとして、では何を詠むか。老人がモダンを詠むと往々にして古いモダンになる。かつての前衛ふうやかつてのモダンふうを詠むのは読者から見ると痛々しいことになる。「新しい歌を歌います」と宣言してピンクレディを歌うようなものだ。では、老人は普遍的なものを希求して詠むか。そうするとお決まりの「花鳥諷詠」が待ち受けている。「岸壁の母」の方がまだましとはとても言えない。では老人は生きてきた経験と信念を披瀝することにして後進のために社会正義や倫理を詠うか。これは最悪で説教爺になる。どっちに行ってもあんまり良いことはなさそうだ。だから老人は自分の老いを正直に詠むのがいい。木五倍子(きぶし)を折るために掴まる木を探すのは自分に正直な述懐だ。なんで木五倍子を折るの?と問われれば、いいじゃないか、そのくらい。余計なお世話だ!と怒ってみせるしかない。『里山』(2013)所載。(今井 聖)


July 2072013

 いつになく酔ひたる喪主のはだか踊り

                           山田露結

めて身近に死を見たのは一緒に住んでいた祖父が亡くなった時。自宅の離れに置かれたその眠っているような顔を不思議な気持ちで眺めていたことを鮮明に覚えている。夏休みも終わりに近い、やりきれないほど暑い日だった。そのせいか、毎年巡ってくる真夏の暑さの記憶の片隅には、かすかな不安がずっと残っている。掲出句の、はだか踊り、形式的分類は夏季ではないのかもしれないが、作者が喪主となられたのは夏だったと思われる。なんともせつないはだか踊り、飲んでも飲んでも酔えない、酔っても酔ってもどうしようもない。句集で読んでから思い出すたび、へろへろと手足を動かしながら全身で泣いているような後ろ姿が浮かんでしまう。〈なきがらに花のあつまる大暑かな〉『ホームスウィートホーム』(2012)所収。(今井肖子)


July 2172013

 蚊柱やふとしきたてて宮造り

                           正岡子規

治26年の作。前書に、「神社新築」とあります。江戸時代と明治時代では、政治体制から生活様式まで、大きな転換がありましたが、神社仏閣にも変革がありました。江戸時代は、今でも口に出して言う「神さま仏さま」が、神社や寺院で混然と一体化していましたが、明治政府は「神仏判然令」を出し、神社と寺院を分離します。神社は、宗教施設としてではなく、国家の宗祀として、国家が尊び祀(まつ)る公的な施設として位置づけられたので、新築も多かったはずです。明治39年には「神社合祀令」が発令されて、大規模な統廃合がおこなわれ、19万社から13万社へと整理されました。かつては、村の鎮守の森、氏神さまだった神社が、中央集権の影響を受けるようになってきた背景があります。掲句の「ふとしき」は、「太敷く」で、柱をいかめしく、ゆるがぬように建てることです。子規は、その手前に蚊柱が立っているのを見て、面白がったのでしょう。不安定にうごめく蚊柱と、地中奥深く突き立てて、地と天のかけ橋を造ろうとする神柱。ところで、中七は、全てひらがなになっています。これは、もしかしたら、それほど大規模な社殿ではなく、蚊柱と同じ視野に納まるほどの構図を示しているのかもしれません。神を数える助数詞は「一柱」ですが、その語源は二十以上の説があり、定まっていません。諏訪大社「御柱祭」の関係者は、「天と地との架け橋が有力」とおっしゃっていますが、いかに。なお、「蚊柱」の中心には一匹の雌が居て、その周りを有象無象の雄たちが、惑星、衛星、すい星のようにぐるぐる回っているそうです。子規は、この事実は知らなかったでしょうね。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(小笠原高志)


July 2272013

 生前の天体淡きまくわ瓜

                           松下カロ

者の別の句に「薄命の一人ぬけゆく端居かな」がある。むろん、実景ではない。端居からぬけたって、その人が薄命かどうかなんて、誰にもわかりはしない。これは端居している何人かの状態を思い描くとき、作者の心が、その何人かのうちでいちばん先に落命する人がいる、そのことを痛ましく感じるということだ。それが誰かはわからないが、必ず先に逝く人はいるのだから、作者はいつもその誰かに心が動く。気質に近い人生観のあらわれだと言っておく。掲句はこのことがもっとはっきり表現されたもので、亡くなった誰かを回想しながら、その人が存命だったころの環境を天体として捉えたものだ。お盆の供え物の「まくわ瓜」のように淡いみどり色の環境。やさしくもあるが、強固ではないそれが思い浮かぶ。甘美ではあるが、崩れやすい。そんな世界にこの人は生きていたのだ。と、作者は痛ましく感じ、しかしどこかでいささかの羨望の念も覚えている。俳誌「儒艮 JUGON」(2号・2013年8月)所載。(清水哲男)


July 2372013

 蟻の列吸はるるやうに穴の中

                           柿本麗子

は仲間の匂いをたどることで巣へ戻ることができるという。炎天下の一団が与えるイメージは、ルールを守り、ひたすら働き続け一生を終えるような、悲壮感にあふれる。くわえて、その身体の小ささと、漆黒であることも、切なさを倍増させているように思える。点は破線となり、密集し直線となって、巣穴へと続く。掲句の中七「吸はるるやうに」によって、蟻の列のゴールは得体の知れないおそろしげな暗黒の地底となった。童謡「おつかいありさん」とは対極にある蟻の素顔を見てしまったような気持ちにとらわれる。またこのたびあらたに、道を見失った蟻の列はDeath Spairalと呼ばれる弧をひたすら描くことや、働き蟻がすべてメスだということを知った。調べるほどにやるせなさは増すばかりである。『千の祈り』(2013)所収。(土肥あき子)


July 2472013

 河童忌に食ひ残したる魚骨かな

                           内田百鬼園

日七月二十四日は河童忌。芥川龍之介は昭和二年のこの日に自殺した。龍之介の俳号が「我鬼」だったところから「我鬼忌」とも呼ばれる。百鬼園(百けん)は漱石の門下だったけれども、俳句は虚子に師事した。「自分が文壇人かどうか疑わしい」としたうえで、「文壇人の俳句は、殆ど駄目だと言って差支えない」と書いており、漱石の俳句については「そう高く買っていない事は、明言し得る」としている。また龍之介の句についても「あまりいいと思っていない」と率直に書いている。もっとも「文壇人の俳句」に限らず「俳人の俳句」にも、ピンからキリまであることは言うまでもない。龍之介の俳句に対しては厳しいけれど、それはそれとして昭和九年から十三年にかけて、毎年「河童忌」の句を六句作り、『百鬼園俳句』(1943)に収めている。「河童忌の夜風鳴りたる端居かな」(昭九)、「河童忌の夕明りに乱鶯啼けり」(昭十三)、それらに先がけて、昭和七年に田端の自笑軒で「膳景」と前書きして詠まれたのが掲句である。膳のものをすべてたいらげたわけではなく、食べ残した魚の骨にふと心をとらわれ、改めて故人を偲んだということだろう。魚は何であってもかまわない。美食家の百けん先生といえども、すべてけろりと食べ尽したのでは、龍之介への気持ちは届かなかったかもしれない。龍之介に対する深い心がこめられている。『内田百けん俳句帖』(2004)所収。※「百けん」のけんは門に月です。機種依存文字につき表示できません。(八木忠栄)


July 2572013

 ひまはりのこはいところを切り捨てる

                           宮本佳世乃

彩画教室に通っていた頃、ベテランの一人がすっかり枯れて頭をがっくり垂れたひまわりばかり描いているのを不思議に思った。大きな花びらもちりじりに干からびて黒い種子がびっしりと詰まったその姿に興味を引かれて描き続けているのだという。この人にとってひまわりの美は太陽の下でカンと頭をふりあげている姿ではなく、種をびっしり抱えながら干からびてゆく姿だったのだろう。美しさを感じるポイントが人それぞれのように「こはいところ」も人によって変わるかもしれない。ひまわりのどこがこわいのか、どこを「切り捨てる」のか、いろいろ探っているうち、具体的な部分ではな「ひまはり」の存在自体が「こはい」ように思えてきた。堂々とした向日葵の原型に対峙した句が「向日葵や信長の首切り落とす」(角川春樹)の句だとしたら、「ひまはり」の「こはいところ」にあえて向かい、切り捨てるこの句からは健気さが感じられる。『鳥飛ぶ仕組み』(2012)所収。(三宅やよい)


July 2672013

 波のなき水をひろげて錦鯉

                           鷹羽狩行

の短い詩形の中で、言葉の通念的な組み合わせはまさに陳腐な情緒しかもたらさないはずなのだが、そうはならない「奇跡」もときに起こる。波と水、水と鯉、錦鯉の華麗。これらは予定調和のつながりであり、錦という言葉であらかじめ説明されている装飾的華麗さである。その類型的詩興しかもたらさないはずの組み合わせが「なき」と「ひろげて」で手品のように新鮮な風景を構成する。「なき」と「ひろげて」は知の力。風景を知の力で再構成するのだ。澄んだ水の中の鯉の鰭のうごきが克明に見えてくる。こういう句をみると俳句の可能性、「写生」ということの可能性を信じないわけにはいかない。どんな大差がついた試合でも九回の裏のツーアウトまで大逆転の可能性は残されている。『十七恩』(2013)所収。(今井 聖)


July 2772013

 石といふもの考ふる端居かな

                           上野 泰

リラ豪雨の去った後のベランダに椅子を出して、まだ濡れている風にぼんやり吹かれながら、これもまあ端居と呼べないこともないな、と思った。でもやはり、縁側に蚊遣りをたいて団扇片手に遠くを見ていた記憶の中の祖母の姿が、本来の端居なのだろう。掲出句は、昭和四十七年の作。本来の端居と思われるが、石か。以前知人から、ヒトの興味は歳を重ねるに従って動から静に変わっていき最後は石にたどりつく、と聞いたことがある。翌四十八年に亡くなった作者、〈天地の一興月見草ひらく〉〈蜥蜴駆け大地太古をなせりけり〉〈五月闇神威古潭をすぎにけり〉など同年の句の中にあると、ふとその横顔を見たような気になるのだった。『城』(1974)所収。(今井肖子)


July 2872013

 月とてる星高々と涼しけれ

                           原 石鼎

和16年の作。55歳。この数年、数々の病で入退院をくり返し、この年の五月、松沢病院を退院して、神奈川県二宮の新居に入ります。自身は、病と幻聴に苦しみ、かつての後輩たちは、「京大俳句事件」で検挙され、軍靴が高鳴る中、掲句が生まれています。げんざいと違って、冷房や扇風機のない時代の納涼は、避暑地に行くか、夜を待つしかなかったでしょう。『枕草子』の「夏は夜。月のころはさらなり。略。雨など降るもをかし」には、月と雨の情景を愛でているのと同時に、すずやかな肌の心地に一日の熱を冷ますひとときを読みとります。石鼎が、「涼しけれ」と詠嘆の助動詞で切っているのも、肌の実感です。また、これを「けり」ではなく已然形の「けれ」にすることで、炎熱の余韻を伝えています。月を眺め、高々にある星をみつめる遠きまなざしには、昼間の余熱をクーリングダウンさせながら、幻聴から逃れられている静かな時があります。『原石鼎全句集』(1990)所収。(小笠原高志)


July 2972013

 横にして富士を手に持つ扇かな

                           幸田露伴

士山が世界文化遺産に登録されたことを記念して、「俳句」(2013年8月号)が「富士山の名句・百人百句」(選・解説=長谷川櫂)を載せている。掲句は、そのなかの一句だ。ゆっくり読み下していくと、富士山を横抱きにするなどは、どんな力持ちかと思えば、なあんだ扇に描かれた富士山だったのかという馬鹿馬鹿しいオチになっている。作り方としては都々逸と同じだ。長谷川櫂はこの句を「江戸文化にあこがれた文人の句」として紹介し、江戸時代の人々は富士に仲間のような親しさを覚えていたと書く。それが明治期になると富士は大日本帝国の象徴となってしまい、この句のような通俗性とは無縁の存在として「君臨」するようになった。そうした風潮へのいわば反発としてこの句をとらえると、馬鹿馬鹿しさの向うに、露伴の切歯扼腕的な息遣いが漏れてくるようで、面白い。世界遺産登録に大喜びしているいまどきの風潮のなかにこの句を放り込んでみると、そこにはまた別の皮肉っぽいまなざしが浮んでくる気がする。「富士山に二度登る馬鹿」と言ったのは、いつごろの時代の人だったのか。私は二度登った。(清水哲男)


July 3072013

 水を打つ曲りさうなるこゝろにも

                           笙鼓七波

辞苑によると打ち水とは「ほこりをしずめたり、暑さをやわらげたりするため、道や庭先などに水を撒くこと」とある。夏休みの夕方、水を打つ音が聞こえると、ふわっと空気がゆるみ、土や草木が香り立つ。夕立の匂いとも違う、やわらかい水の匂いを覚えている。打ち水には少々のこつがあり、ひとところに水が溜まるようではいけない。平らに平らに水を広げるようにして撒く。きらきらと太陽の光を弾きながら、放物線を描く水には見とれるような美しさがある。作者は打ち水によって生き返る庭や草花をみながら、わが身にも一滴の打ち水を与えて、心をしゃんと立て直したのだ。いっせいに打ち水をすれば、気化熱によって真夏の気温を2度下げられるという。7/23から8/23まで打ち水強化月間だそうなので、いざと腰をあげてみれば、東京の暮らしではまず柄杓がないことに気がついた。『花信風』(2013)所収。(土肥あき子)


July 3172013

 かたつむり口に這わせて微笑仏

                           ジェームズ・カーカップ

句は「Stone face of Buddha/on his gently-smiling lips/a snail is crawling」。カーカップはかつて東北大、日本女子大、他で英語を教えた親日家で知られたイギリスの詩人、劇作家で、連作詩「海の日本」がある。頭の運動にハイクを作ったという。原句を直訳すれば「ブッダの石の顔、そのやさしく微笑している唇の上をかたつむりが這って行く」となる。石仏の唇の上を這うかたつむり、石仏と微笑ーー三者の硬軟の取り合わせがポイントである。おもしろいというか、幾分なまぐさい。読んでいるほうも思わず微笑したくなるような光景である。掲句のスタイルに和訳したのは、俳句の国際化に貢献し、世界の俳句に詳しい佐藤和夫の試訳である。カーカップには「一日にリンゴ一個は医者いらず」という諺をもじって、「一日一つハイクを作れば医者いらず」と言っていたという。中原道夫の句集『蝶意』を英訳(共訳)している。かたつむりと言えば「舞へ舞へかたつぶり、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏みわらせてん……」という『梁塵秘抄』のうたがよく知られている。佐藤和夫『海を越えた俳句』(1991)所載。(八木忠栄)




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