Nj句

July 0172013

 木苺やある晴れた日の記憶満ち

                           矢島渚男

う木苺の盛りは過ぎただろうか。気がつけば、木苺を見なくなってから久しい。子どもの頃には山道のあちこちに自生していたから、学校からの帰り道、空の弁当箱にぎっしりと詰めて帰って、おやつ代わりにしたものだった。もっとも、弁当箱の中でつぶれて汗をかいたような木苺は、そんなに美味ではなかったけれど。そんな体験のない若い人には、この句の良さはわかるまい。字面上の意味は誰にでもわかるけれど、木苺という季節の産物とおのれの記憶とが、このようにしっかりと結びつくという心的構造は理解できないはずだ。木苺に限らず、季節の産物に記憶がしみ込むというようなことは、よほど自然が身辺に豊かでなければ起こり得ないからである。図鑑や歳時記なんぞで木苺を検索するような時代になってしまっては、とうてい無理な相談である。そう考えれば、俳句の季語が持つ機能の一つである季節の共有感覚も、いまや失われたと言ってもよいかもしれない。作者や私の木苺と若い読者の木苺とで共有できるのは、その色彩や形状くらいのものだからだ。つまり決して大げさではなく、現代の木苺は鑑賞するものではあっても、生活とともにあるわけではないから、さながら季節の記号のような存在と化してしまっている。それが良いとか悪いとかと言う前に、このようでしかあり得なくなった現代の私たちの環境には、ただ呆然としてしまうばかりだ。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


July 0872013

 雲の峰過去深まつてゆくばかり

                           矢島渚男

そり立つ入道雲。同じ雄渾な雲を仰ぐにしても、若いころとはずいぶん違う感慨を覚えるようになった自分に気がつく。若いころには、別に根拠があるわけではないが、真っ白な雲の峰に、あるいは雲の向こうに、なにか希望のようなものの存在が感じられて、気分が高揚したものだった。それがいつの間にか、そういう気分がなくなってきて、希望的心情は消え果て、ただ意味もなく「ああ」とつぶやくだけのことで終わってしまうのがせいぜいである。自然の摂理で仕方はないけれど、老人になってくると、自然にものの見方は変化してくる。そのことに作者はもう一歩踏み込んで、希望を覚えないかわりに、つまり未来を思わないかわりに、「過去」が深まってゆくのだと言い放つ。その「過去」が豊潤なものであるかないかは別にして、老いはどんどんとおのれの「過去」を深めてゆくばかりなのである。しかも、その気分は悲しいとか哀れだとかという感情とは無関係に、わいてくる。ただ「ああ」というつぶやきとなって、自然にわいてくるのだ。そういう意味で、この句は老いることの内実を、そのありようを淡々と描いていて秀逸だ。刻々と深まりゆく過去を覚えつつ、老いた人はなお生きてゆく。何事の不思議なけれど、老いた身には、そういうことが起きてくる。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)


July 1572013

 山に石積んでかへりぬ夏休

                           矢島渚男

い返してみれば、夏休みは、それがあること自体が重荷であった。戦争の余韻がまだ生活のなかに染みついていた時代であり、夏休みといっても、手放しの解放感が味わえるわけではなかった。ましてや暮していたのが本屋もないような山奥の農村とあっては、およそ娯楽に通じる施設があるはずもなく、学校が休みになった時間だけ、家での手伝い仕事が増える勘定だった。だが、それだけを重荷というのではない。いちばんの重荷は、夏休みを夏休みらしく過ごせないことが、あらかじめ定められていたことだった。学校からはいっちょまえに宿題や自由研究の課題が示されていたし、教師たちは口をそろえて、夏休みらしい成果をあげるようにと私たちを激励したものだった。が、そんな成果へのいとぐちさえ見いだせないというのが、子供たちの生活実態であり、それが高じて焦りや劣等感にもつながっていき、長期休暇の成果達成は慢性的な強迫観念のようにのしかかっていたのだった。いまこの句を読んで、そんなことを思う。この積まれた石は、子どもの成果達成への憧れを見事に象徴している。夏休みらしいことが何ひとつできずにいる子どもの焦燥感が、この空しい石の集積である。子どもは、大人よりもよほどおのれの悲しみのありかを知っている。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


July 2272013

 生前の天体淡きまくわ瓜

                           松下カロ

者の別の句に「薄命の一人ぬけゆく端居かな」がある。むろん、実景ではない。端居からぬけたって、その人が薄命かどうかなんて、誰にもわかりはしない。これは端居している何人かの状態を思い描くとき、作者の心が、その何人かのうちでいちばん先に落命する人がいる、そのことを痛ましく感じるということだ。それが誰かはわからないが、必ず先に逝く人はいるのだから、作者はいつもその誰かに心が動く。気質に近い人生観のあらわれだと言っておく。掲句はこのことがもっとはっきり表現されたもので、亡くなった誰かを回想しながら、その人が存命だったころの環境を天体として捉えたものだ。お盆の供え物の「まくわ瓜」のように淡いみどり色の環境。やさしくもあるが、強固ではないそれが思い浮かぶ。甘美ではあるが、崩れやすい。そんな世界にこの人は生きていたのだ。と、作者は痛ましく感じ、しかしどこかでいささかの羨望の念も覚えている。俳誌「儒艮 JUGON」(2号・2013年8月)所載。(清水哲男)


July 2972013

 横にして富士を手に持つ扇かな

                           幸田露伴

士山が世界文化遺産に登録されたことを記念して、「俳句」(2013年8月号)が「富士山の名句・百人百句」(選・解説=長谷川櫂)を載せている。掲句は、そのなかの一句だ。ゆっくり読み下していくと、富士山を横抱きにするなどは、どんな力持ちかと思えば、なあんだ扇に描かれた富士山だったのかという馬鹿馬鹿しいオチになっている。作り方としては都々逸と同じだ。長谷川櫂はこの句を「江戸文化にあこがれた文人の句」として紹介し、江戸時代の人々は富士に仲間のような親しさを覚えていたと書く。それが明治期になると富士は大日本帝国の象徴となってしまい、この句のような通俗性とは無縁の存在として「君臨」するようになった。そうした風潮へのいわば反発としてこの句をとらえると、馬鹿馬鹿しさの向うに、露伴の切歯扼腕的な息遣いが漏れてくるようで、面白い。世界遺産登録に大喜びしているいまどきの風潮のなかにこの句を放り込んでみると、そこにはまた別の皮肉っぽいまなざしが浮んでくる気がする。「富士山に二度登る馬鹿」と言ったのは、いつごろの時代の人だったのか。私は二度登った。(清水哲男)


August 0582013

 息を吸い息吐くことも戦なり

                           暮尾 淳

悼句である。詠まれている伊藤信吉は、2002年8月3日に97歳で没した。作者はその伊藤と公私ともに親しく兄事した詩人だ。句は、次第に呼吸困難におちいってゆく伊藤の様子を描いているが、呼吸など意識したこともなかった私などにも、この句が少しわかりかけてきた。いかにもこの句が言うような「戦(いくさ)」は、そう遠い日のことではなかろうと、身体が先に納得しているような気がする。というのも、近年徐々に脚が弱ってきて、だんだん一歩一歩を意識させられるので、いずれはそれが呼吸器にも及ぶであろうと、身体が覚悟しているような気分があるからだ。いずれにしても、ほとんどの人がいつかは己の一呼吸一呼吸を意識させられるようになる。ああ、人間は呼吸して生きているのだ。とう変哲もない理屈に納得するときが、最期のときだとは……。盛夏の候、元気な人は元気なうちに人生を楽しんでおくべし、である。句集『宿借り』(2012)所収。(清水哲男)


August 1282013

 窓開けて残る暑さに壁を塗る

                           平間彌生

秋を過ぎてから、尋常でない天気がつづく。猛烈に暑いか、猛烈な降雨か。テレビなどでその理屈は知りえても、この異常な状態を招来している根本的な要因は、さっぱりわからない。東京あたりでは、いやまあその暑いこと。一昨日の武蔵野三鷹地区での最高気温は。38.3度。止むを得ず買い物に出たが、眩暈がしそうな炎天であった。ドイツから里帰りしている娘などは、「東京の残暑に会ひに来たやうな」(浅利恵子)と言っている。掲句の暑さも尋常ではないな。壁を塗るのには時間がかかるから、このときにほんの思いつきで作業をはじめたわけじゃない。何日も前から計画して、いざ実行となったわけだが、ある程度の暑さは覚悟の上ではあるものの、塗りはじめてみると汗が止まらない。むろん、心のどこかで「しまった」とは思うのだけれど、作業を中止するわけにも行かず、そのまま塗りつづけている。これ以上何も説明されなくても、読者にもこの暑さがボディブローのようにじわりじわりと効いてくる。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


August 1982013

 秋暑しあとひとつぶの頭痛薬

                           岬 雪夫

んなにも暑さがつづくと、月並みな挨拶を交わすのさえ大儀になってくる。マンションの掃除をしにきてくれている女の人とは、毎日のように短い立ち話をしているが、最近ではお互いに少し頭をさげる程度になってしまった。会話をしたって、する前から言うことは決まっているからだ。出会ったときのお互いの目が、それを雄弁に語ってしまっている。こうなってくると、なるべく外出も避けたくなる。常備している薬が「あとひとつぶ」になったことはわかっているが、薬局に出かけていくのを一日伸ばしにしてしまう。むろん「あとひとつぶ」を飲みたいときもあるけれど、炎暑のなかの外出の大儀さとを天秤にかければ、つい頭痛を我慢するほうを選んでしまうのだ。こんなふうにして、誰もが暑さを避けつつ暑さとたたかっている。この原稿を書いているいまの室温は、34度。こういうときのために予備の原稿を常備しておけばよいのだが、それができないのが我が悲しき性…。「俳句」(2013年8月号)所載。(清水哲男)


August 2682013

 鳥渡とは鳥渡る間や昼の酒

                           矢島渚男

句には「鳥渡」に「ちよつと」と振り仮名がつけてある。「鳥渡」も、いまや難読漢字なのだろう。私の世代くらいまでなら、むしろこの字を読める人のほうが多いかもしれない。というのも「鳥渡」は昔の時代小説や講談本に頻出していたからである。「鳥渡、顔貸してくんねえか」、「鳥渡、そこまで」等々。「鳥」(ちょう)と「渡」(と)で「ちょっと」に当てた文字だ。同じく「一寸」も当て字だけれど、「鳥渡」はニュアンス的には古い口語の「ちょいと」に近い感じがする。それはともかく、この当て字を逆手にとって、作者はその意味を「鳥渡る間のこと」として、「ちょっと」をずいぶん長い時間に解釈してみせた。むろん冗談みたいなものなのだが、なかなかに風流で面白い。何かの会合の流れだろうか。まだ日は高いのだが、何人かで「ちょっと一杯」ということになった。酒好きの方ならおわかりだろうが、こ「ちょっと」が実に曲者なのだ。最初はほんの少しだけと思い決めて飲み始めるのだけれど、そのうちに「ちょっと」がちつとも「ちょっと」ではなくなってくる。そんなときだったろう。作者は誰に言うとなく、「いや、『鳥渡』は鳥渡る間のことなんだから、これでいいのさ」と当意即妙な解釈を披露してみせたのである。長い昼酒の言い訳にはぴったりだ。これは使える(笑)。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


September 0292013

 こときれてゆく夕凪のごときもの

                           五十嵐秀彦

集では、この句の前に「眠りつつ崩るる夏や父の肺」が置かれているので、同じく父上の末期の様子を詠んだものだろう。島崎藤村が瀕死の床にあった田山花袋に「おい、死ぬってどんな心持ちだ」と呼びかけた話が残っているが、私も年齢のせいで人の死に際には関心が高くなってきた。夢の中で自分の死をシミュレートしていることに、はっと気づいて目覚めたりもする。夏の夕暮れの海岸地域では、海からの風が嘘のようにぱたっと落ちて、息詰まるような暑さに見舞われるが、人生の最後にもまたそのような状態になるのだろうか。つまり、傍目には死の病の苦しみがばたっと止んだように見え、しかし高熱だけは残っていて、そこから死が徐々に確実に忍び寄ってくる。と、作者にはそう思えたのだ。他者の死にはこれ以上深入りできないわけだが、この「風立ちぬ いざ生きめやも」とは正反対のベクトルがはっきりしているという意味で、私にとっては印象深い抒情句となった。『無量』(2013)所収。(清水哲男)


September 0992013

 熊笹に濁流の跡いわし雲

                           矢島渚男

雲の代表格である「いわし雲」は、気象学的には絹積雲(けんせきうん)と言うそうだ。美しいネーミングである。句は、台風一過の情景だろうか。地上では風雨になぎ倒された熊笹の姿がいたいたしいが、目を上げると、真っ青な空にいわし雲がたなびくようにして浮かんでいる。私も山の子なので、この情景は何度も目にしている。目に沁みるような美しさだ。なんでない表現のようだが、作者は雲の表し方をよく心得ている。雲を描くときの基本は、まさにこうでなければならない。すなわち、この句の「いわし雲」のありようを裏づけているのは、泥にまみれた「熊笹」だ。この両者の存在があってはじめて「いわし雲」の美しさはリアリティを獲得できている。『采薇』(1973)所収。(清水哲男)


September 1692013

 老人の暇おそろしや鷦鷯

                           矢島渚男

景としては、老人がのんびりとした風情で日向ぼこでもしている図だろう。付近では「鷦鷯(みそさざい)」が、小さな体に似合わぬ大きな声でなにやら啼きつづけている。静かな老人とは好対照だ。ここまではよいとして、では「暇おそろしや」とは何だろう。作者には、何がおそろしいのだろうか。作句時の作者は五十代。そろそろ老いを意識しはじめる年代だ。みずからの老いに思いがゆきはじめると、自然の成り行きで周辺の老人に目がとまるようになる。詳細に観察するわけでもないけれど、一見暇をもて余しているように見える老人が、実は案外そうでもないらしいとわかってくる。老人がたまさか見せる微細な表情の変化に、彼がときにはまったくの好々爺であったり、逆に憤怒の塊であったりと、さまざまな感情が渦巻いている存在であることに気づくのである。老人の動作はのろいけれど、神経は忙しく働いているのだ。そんな趣旨の詩を晩年の伊東信吉は書き残したが、若者には伺い知れない老人の胸のうちを、作者は「おそろしや」と詠んだのだと思う。その「おそろしさ」の根元にあるのは、むろん「明日は我が身」というこの世の定めである。冬の句だが、敬老の日にちなんで……。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)


September 2392013

 空港の夜長の足を組みなほす

                           坂本茉莉

港でのフライト待ち。その時間はまことに所在ない。予定時刻をだいぶ過ぎても飛ばなかったりすると、苛々感が募ってくる。そんな気持ちを表現した句だと単純に受け取ったが、あとがきを読んで、考えをあらためた。作者はタイ在住26年。「その間に仕事あるいは私用で、幾度日本とタイを往復したことでしょう。空港や飛行機は、私にとって単なる建物や乗り物以上の意味を持ち、ときに二つの文化を行き来する切り替えのための中継点であり、またあるときは日本にもタイにもなじめぬ心身を癒す休息場所でもあります」。つまり作者には、行楽などのために利用する空港というイメージはないわけで、「足を組みなほす」行為にも、たとえば考え事を組み立て直すきっかけ作りの意味があったりしそうである。これからも国際化時代は進行してゆく。伴って、空港のイメージも大きく変わってゆくのである。『滑走路』(2013)所収。(清水哲男)


September 3092013

 転ぶ子を巻く土ぼこり運動会

                           嘴 朋子

年のように、近所の小学校の運動会を見に行く。年々歳々、むろん児童たちは入れ替わっているのだが、競技種目は固定されているようなものなので、毎年同じ運動会に見えてしまう。ともすると、自分が子供だったそれと変わりない光景が繰り広げられる。転ぶ子がいるのも、毎度おなじみの光景である。掲句では「巻く土ぼこり」とあるから、かなり派手に転んでしまったのだろうか。しかし作者は可哀想にと思っているわけではない。転ぶ子が出るほどの子供らの一所懸命さに、拍手をおくっているのだ。いいなあ、この活気、この活発さ。昔住んでいた中野の小学校の運動場は、防塵対策のためにすべてコンクリートで覆われていたことを思い出した。運動会も見に行ったが、転んでも当然土ぼこりは立たない。転んだ子は、どこかをすりむいたりする羽目になりそうだから、見ていてひやひやさせられっぱなしであった。やはり、運動会は砂ぼこりが舞い上がるくらいがよい。『象の耳』(2012)所収。(清水哲男)


October 07102013

 木の蔭の中の草影秋暑し

                           山口昭男

は大気が澄んでくるから、見えるものの輪郭がくっきりとしてくる。影についてもそれは同じで、陽炎燃える春などに比べれば、その差は歴然としている。この句は「木の蔭」と「草の影」を同じ場所に同時に発見することで、澄み切った大気の状態と夏を思わせる強い日差しとを一挙に把握している。それにしても、木陰の中の草影とは言い得て妙だ。ふだん誰もが目にしている情景だが、たいていの人はそのことに気がつかないか、気づいても格別な感想を持つことはないだろう。そうした何でもないようなトリビアルな情景を拾い出し、あらためて句のかたちにしてみると、その情景以上の何かが見えてくるようだ。俳句の面白さのひとつはたぶん、このへんにある。この発見に満足している作者の顔が見えるようで、ほほ笑ましい。『讀本』(2011)所収。(清水哲男)


October 14102013

 ざわざわと蝗の袋盛上る

                           矢島渚男

作農家にとって、「蝗」は一大天敵だ。長い間そう思ってきたけれど、日本の水田に生息するほとんどの蝗は、瞬く間に稲などを食い尽くしてしまういわゆる「蝗害」とは無縁なのだそうである。悪さをするのは「飛蝗」という種類の虫で、その猛烈な悪行は映像などでよく知られている。しかし、子供の頃にはよく蝗捕りをさせられた。稲が食い尽くされないまでも、何か悪さはしていたからだろう。殺虫剤が使われていなかった時代で、稲の実った田んぼに入ると、蝗たちが盛大に跳ね回っていた。あえて捕ろうとしなくても、向こうからこちらの身体にいくらでもぶつかってきた。顔面に体当たりされると、けっこう痛い。そんなふうだから、大きな紙袋の口を開けておいて前進すると、面白いように飛び込んできた。とは言っても、適当なところで口を閉めないと逃げられてしまう。句の状態はそこから先のことで、今度は手で一匹ずつ捕まえては袋に入れていく。そしてだんだん「ざわざわ」と音を立てながら袋が盛り上ってくると、蝗捕りが快感につながってくる。こうなってくると、袋のようにまさに心もざわめいてきて、どんどん弾んでくる。充実してくる。この句を読んで、長らく忘れていたあの頃の充実感を思い出し、田舎の秋の生命の活力感に思いを馳せたのであった。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


October 21102013

 貧しさの戦後の色よ紫蘇畑

                           鍵和田秞子

きごろ亡くなった漫画家のやなせたかしが、こんなことを書き残している。「内地に残っていた銃後の国民のほうがよほどつらい目を見ている。たとえ、戦火に逢わなかったとしても飢えに苦しんでいる」(「アンパンマンの遺書」)。掲句の作者は、敗戦当時十三歳。別の句に「黍畑戦中の飢え忘れ得ぬ」とあるように、戦後七十年近くを経ても、いまなお飢えの記憶は鮮明なのである。当時七歳でしかなかった私などでも、飢えの記憶はときおり恨み言のようによみがえってくる。この句のユニークさは、そんな飢えに代表される貧しさを、「色」で表現している点だろう。通りかかった一面の紫蘇畑を見て、ああこの色こそが「戦後の色」と言うにふさわしいと思えたのだった。紫蘇は赤紫蘇だ。焼け跡のいずこを眺めても、まず目に入ってくるのは瑞々しさを欠いた紫蘇の葉のような色だった。他にも目立つ「色」はなかったかと思い出してみたが、思い浮かばない。埃まみれの赤茶けた色。憎むべき、しかしどこにも憎しみをぶつけようのない乾いた死の色であった。「WEP俳句通信」(76号・2013年10月刊)所載。(清水哲男)


October 28102013

 霜柱土の中まで日が射して

                           矢島渚男

を読んで、すぐに田舎の小学校に通ったころのことを思い出した。渚男句を読む楽しみの一つは、多くの句が山村の自然に結びついているために、このようにふっと懐かしい光景の中に連れていってくれるところだ。カーンと晴れ上がった冬の早朝、霜柱で盛り上がった土を踏む、あの感触。ザリザリともザクザクとも形容できるが、靴などは手に入らなかった時代だったから、そんな音を立てながら下駄ばきで通った、あの冷たい記憶がよみがえってくる。ただ、子供は観照の態度とはほとんど無縁だから、よく晴れてはいても、句のように日射しの行く手まで見ることはしない。見たとしても、それをこのように感性的に定着することはできない。ここに子供と大人の目の働きの違いがある。だからこの句に接して、私などははじめて、そう言われればまぶしい朝日の光が、鋭く土の中にまで届いている感じがしたっけなあと、気がつくのである。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


November 04112013

 図画といふ時間割あり鰯雲

                           赤坂恒子

の時代には「図画工作」という時間割だったような気がする。それはともかく、晴れた日の「図画」の時間は楽しみだった。たいていは好きな場所で好きなものを描けばよいという写生の時間だったから、暗い教室から解き放たれた私たちには、小さな遠足みたいな自由な雰囲気を満喫できるのだった。図画の得意な少数の子らを除いては、写生なんぞははなから眼中にはない。私なんぞは、まずゆっくりと坐るための場所を確保してから、おもむろに顔をあげて、視野の前方に入ってきたもののなかから描く対象物を決める始末であった。空は青空、いい天気。田畑での手伝いをしなくてもよい上天気が、いかに私たちを喜ばせたか。この句を読んで、そんな昔を懐かしく思い出した。クラスでいちばん絵の上手かった久保君は中卒で念願の大工になったが、三十代の若さで亡くなってしまった。よく見れば、鰯雲は寂しい雲だ。『トロンポ・ルイユ』(2013)所収。(清水哲男)


November 11112013

 大部分宇宙暗黒石蕗の花

                           矢島渚男

蕗の花は、よく日本旅館の庭の片隅などに咲いている。黄色い花だが、春の花々の黄色とは違って、沸き立つような色ではない。ひっそりとしたたたずまいで、見方によっては陰気な印象を覚える花だ。それでも旅館に植えられているのは、冬に咲くからだろう。この季節には他にこれというめぼしい花もないので、せめてもの「にぎやかし」にといった配慮が感じられる。そんな花だけれど、それは地球上のほんの欠片のような日本の、そのまた小さな庭などという狭い場所で眺めるからなのであって、大部分が暗黒世界である宇宙的視座からすれば、おのずから石蕗の花の評価も変わってくるはずだ。この句は、そういうことを言っているのだと思う。大暗黒の片隅の片隅に、ほのかに見えるか見えないかくらいの微小で地味な黄色い花も、とてもけなげに咲いているという印象に変化してくるだろう。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


November 18112013

 かつてラララ科学の子たり青写真

                           小川軽舟

ずは「青写真」の定義を、Wikipediaから。「青写真(あおじゃしん、英: cyanotype)は、サイアノタイプ、日光写真ともいい、鉄塩の化学反応を利用した写真・複写技法で、光の明暗が青色の濃淡として写るためこう呼ばれる」。句では「日光写真」を指している。小春日和の午後などに「ラララ科学の子」である鉄腕アトムの種紙で遊んだ子どもの頃の回想だ。当時はそうした遊びに熱中していた自分を立派な「科学の子」だと思っていた。が、日光写真はたしかに科学的な現象を応用した遊びではあったけれども、その遊びを開発したわけじゃなし、とても「科学の子」であったとは言えないなと、微苦笑している図だろう。本格的な青写真はよく建築の設計図に利用されたから、敷延して「人生の青写真」などとも言われる。この句には、そんな意味合いもうっすらと籠められているのだと思う。往時茫々。『呼鈴』(2012)所収。(清水哲男)


November 25112013

 県道に俺のふとんが捨ててある

                           西原天気

あ、えらいこっちゃ。だれや、こんな広い路のど真ん中に、俺のふとんをほかしよったんは。なんでや。どないしてくれるんや……。むろん情景は夢の中のそれだろう。しかし夢だからといって、事態に反応する心は覚醒時と変わりはない。むらむらと腹が立ってくる。しかし、こういう事態に立ち至ると、「どないしてくれるんや」と怒鳴りたくなる一方で、気持ちは一挙にみじめさに転落しがちである。立腹の心はすぐに萎えて、恥辱の念に身が縮みそうになる。この場から逃げだしたくなる。ふとんに限らず、ふだん自分が使用している生活用具などがこういう目にあうと、つまり公衆の面前に晒されると、勝手に恥ずかしくなってしまうということが起きる。手袋やマフラーくらいなら、経験者は多数いるだろう。人に見られて恥ずかしいものではないのに、当人だけがひとりで恥に落ち込んでいく。何故だろうか。この句を読んで、そんな人心の不思議な揺れのメカニズムに、思いが至ったのだった。それにしても「ふとん」とはねえ。『けむり』(2011)所収。(清水哲男)


December 02122013

 おでん食う堅い仕事のひとらしい

                           火箱ひろ

こで作者の目は世間の目である。厳密に「堅い仕事」なんてものがあるわけはないが、世間の目は何でも値踏みをするから、仕事にも硬軟を言わないと気がすまない。そして値踏みの尺度は世の変化に応じて変化するために、今日の物差しが明日は無効になったりもする。おでん屋にはいろいろな人が出入りするので、世間の目の活動には好都合な場所である。それらの人々の好みや食べ方によって、「堅い仕事」の人かどうかなどは、たちまちにしてわかるような気がする。同じようなスーツにネクタイの人間だって、おでんを介在させると、違いが歴然としてくる。店内でちょっと気になった客が、どうやら「堅い仕事」の人らしいと作者は思っているわけだが、だからといってこの値踏みが作者に特段の何かをもたらすことなどはない。こんなことは、すぐに忘れてしまう。しかしながら私たちは、いつだってこの種の世間の目を忙しく働かせて生きていることだけは確かなのである。『火箱ひろ句集』(2013)所収。(清水哲男)


December 09122013

 狐火やある日激しく老いてゆく

                           黒崎千代子

火の正体には諸説ある。遠くの山野で大量に発生し、あたかも松明を掲げた行列のように見えるというが、私は見たことがない。黒澤明の映画に夢をテーマにした作品があって、その第一話に狐の嫁入りの情景が出てきたけれど、あの行列の夜の模様と解すれば、かなり不思議であり不気味でもある。そんな狐火を見たのだろうか。作者はその途端に急激に老いてゆく自分を感じたと言うのだが、こちらのほうはうなづける気がする。普通、老いはじわじわとやってくると思われているけれど、私の実感ではある日一気に老化が進行したような気になったことが何度かある。足腰の弱りなどは、代表的な例だ。そんな肉体の衰えの不思議を狐火に結びつけた作者は、狐火に呆然とするように自分自身にも呆然としている。それが老いることの不思議であり怖さでもある。昔草森紳一が「一晩で白髪になるのだから、逆に一晩で黒髪に戻ることもあるにちがいない」と言ったが、残念なことに若返りのほうの不思議は起こらないようだ。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


December 16122013

 寄鍋の席ひとつ欠くままにかな

                           福山悦子

年会シーズンもたけなわだ。句は、そんな会合での一コマだろう。定刻をかなり過ぎても来ない人を待っているわけにもいかず、先に始めてしまったのだが、待ち人はいつまでたっても現れない。「どうしたんだろう」と気にしながらも、鍋の中身はどんどんたいらげられてゆく。格別に珍しい情景ではなく、類句も多い。が、私くらいの年齢になると、こういう句はひどく身にしみる。いつまでも来ない人に、若いころだったら「先にみんな喰っちゃうよ、知らないよ」くらいですむところを、最近では「何かあったんじゃないか。急病かもしれない」などとその人のいない席を気にしながら、心配しつづけることになる。若い人ならば当人に携帯で連絡を取るところだが、我らの世代にはそんな洒落たツールを持ち合わせている奴は少ない。みんなで「どうしたのか、死んじゃったかも」などと埒もないことを言いながら、結局は時間が来ておひらきとなる。その間のなんとなくもやもやとした割り切れない気持ちを、思い出させる句だ。トシは取りたくないものです。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


December 23122013

 天皇誕生日その恋も亦語らるる

                           林 翔

の恋も、もはやほとんど語られることはなくなった。ロマンスもまた、いつかは風化してしまうのだ。最近は、テレビに写る天皇の姿を注意して見るようになった。べつににわかに皇室崇拝の心が湧いてきたわけではなく、ひとりの老人としての彼の立ち居振る舞いが気にかかるからだ。背中を丸めやや覚束ない足どりで歩く姿を見ていると、自然に「転ぶなよ」とつぶやいている自分に気がつく。天皇は私より五歳年長である。だから彼の姿を注視することは、そのまま近未来の自分のそれをシミュレートしている理屈だ。軽井沢の恋などと騒がれたころには何の関心もなかった人だったが、いまはそんなふうにして大いに気になっている。どこかで真剣に「元気で長生きしてほしい」と願っている。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


December 30122013

 何時の間に冬の月出てゐる別れ

                           稲畑汀子

書に「昭和二十八年十二月」とある。年も押し詰まってきての「別れ」は、作者か相手どちらかの、よんどころない事情によるそれだろう。しかもいま別れると、もう当分会えそうもない。なかなかに別れ難くて縷々話し込んでいるうちに、ふと窓外の闇に目をやると、いつの間にか、冷たく輝く冬の月がかかっていた。美しいというよりも、凄まじい冷ややかさを湛えている。二人の話が深刻だっただけに、余計に冷たさが増幅して感じられたのだ。余談になるが、私は最近、ほとんど月を見ることがない。名月だの満月だのと周囲に言われても、結局は見逃してしまう。理由はしごく単純で、めったに夜間は外出しなくなったからだ。月を愛でることよりも、夜道での転倒のほうが怖いのである。その昔に、「侍だとて忘れちゃならぬ、それは風流、風流心」なんて流行歌もあったっけ。ましてや侍でもない当方としては、だんだん身の置き場がなくなってくる。『月』(2012)所収。(清水哲男)




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