リ檀句

July 0372013

 夏の旅雑技(サーカス)の象に会ひてより

                           財部鳥子

性六人(高橋順子、嵯峨恵子、他)による歌仙「上海渡海歌仙・雑技の巻」の発句である。いずこのサーカスにせよ、サーカスの〈花〉は何といっても象である。馬や熊、ライオンなど多くの動物が登場しても、あの巨体でのっそりとけなげな芸を披露してくれる象こそ、サーカスの花形であることはまちがいあるまい。上記の歌仙に付して森原智子が「いつか中国旅行の途次、財部鳥子、高橋順子といった方たちと歌仙を捲いたことがあった…」と書いている。この歌仙全体を読みこんでみると、遣われている言葉から推して、どうやら中国旅行に出かけたときの成果のように思われる。この発句は旅先上海への挨拶であろう。私事になるが、十数年前に鳥子を含む詩人たちで中国を公式訪問した際、サーカスではないけれど、上海雑技団のいくつかの曲芸などの舞台公演を見て、その高度なワザに度肝をぬかれた思い出がある。掲句は、やはり「象に会ひて」より上海雑技(サーカス)は始まり、旅が始まったということなのだろう。どこかしら夏の旅心も異国にあって、うれしそうにはずんで感じられる。歌仙での鳥子の俳号は杜李子。同じ歌仙の「月」の座で、杜李子は「満月をそのままにして子は眠り」と付けている。『歌仙』(1993)所収。(八木忠栄)


July 1072013

 天の川の水をくみきて茶の湯かな

                           有吉佐和子

夕は過ぎてしまったけれど、天の川が消え去ったわけではないから、七夕句会で詠まれた一句を取りあげる。佐和子が元気な(活発な人だった)頃のある年、佐和子邸で「七夕の茶会」なるものが催された。ドナルド・キーン、加東大介、他らと一緒に招かれた車谷弘が、その時の様子を書いている。お茶席の床の間に掲げられた掛軸は、天の川にちなんだ勝海舟の書で、佐和子のお点前による濃茶が振る舞われた。やがて「句会をやりましょう」ということになり、掛軸は漱石の俳句のものに替えられた。花瓶の花も漱石にちなんで、「猫のひげ」に替えられるという趣向。掲句はその席での一句。「天の川の水」はさらりとしゃれていて趣があるではないか。「あけ放した二階座敷から、仄明るく、雨気をふくんだ夜空がひろがり、夜ふけの感じが濃くなっていた。散会したのは十一時近く」と車谷弘は書いている。茶会と句会のダブル・ヘッダーとは、なかなかおしゃれである。「天の川」は秋の季語だが、七夕に作られた句ということでここに紹介した。佐和子はどれくらい俳句を嗜んだのだろうか。その席でキーンさんは「文月や筆のかわりに猫のひげ」と詠んだ。車谷弘『わが俳句交遊記』(1976)所載。(八木忠栄)


July 1772013

 この先を考へてゐる豆のつる

                           吉川英治

のように詠まれてみれば、豆にかぎらず蔓ものは確かに「さて、これからどちらの方向へ、どのように伸びて行こうか…」と思案しているようにも見える。また、作家としての英治自身の先行き、といった意味が込められているようにも読める。マメ科の蔓植物は多種ある。考えながらも日々確実に伸びて行くのだから、植物の見かけによらない前向きの生命力には、目を見張るばかりである。豆ではないが、わが家のプチ・モンステラなどは休むことなく、狭い部屋で日々その先へ先へと蔓を伸ばしていて、驚くやら感心するやらである。蔓ではないが、天まで伸びる「ジャックと豆の木」を思い出した。壮大な時代小説を書いた英治は多くの俳句を残したが、それにしても「豆のつる」という着眼は卑近でほほえましいし、「考へてゐる」という擬人化には愛嬌が感じられる。もちろんそのあたりは計算済みなのであろう。何気ないくせに、思わず足を止めてみたくなる一句である。ほかに「蝉なくや骨に沁み入る灸のつぼ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2472013

 河童忌に食ひ残したる魚骨かな

                           内田百鬼園

日七月二十四日は河童忌。芥川龍之介は昭和二年のこの日に自殺した。龍之介の俳号が「我鬼」だったところから「我鬼忌」とも呼ばれる。百鬼園(百けん)は漱石の門下だったけれども、俳句は虚子に師事した。「自分が文壇人かどうか疑わしい」としたうえで、「文壇人の俳句は、殆ど駄目だと言って差支えない」と書いており、漱石の俳句については「そう高く買っていない事は、明言し得る」としている。また龍之介の句についても「あまりいいと思っていない」と率直に書いている。もっとも「文壇人の俳句」に限らず「俳人の俳句」にも、ピンからキリまであることは言うまでもない。龍之介の俳句に対しては厳しいけれど、それはそれとして昭和九年から十三年にかけて、毎年「河童忌」の句を六句作り、『百鬼園俳句』(1943)に収めている。「河童忌の夜風鳴りたる端居かな」(昭九)、「河童忌の夕明りに乱鶯啼けり」(昭十三)、それらに先がけて、昭和七年に田端の自笑軒で「膳景」と前書きして詠まれたのが掲句である。膳のものをすべてたいらげたわけではなく、食べ残した魚の骨にふと心をとらわれ、改めて故人を偲んだということだろう。魚は何であってもかまわない。美食家の百けん先生といえども、すべてけろりと食べ尽したのでは、龍之介への気持ちは届かなかったかもしれない。龍之介に対する深い心がこめられている。『内田百けん俳句帖』(2004)所収。※「百けん」のけんは門に月です。機種依存文字につき表示できません。(八木忠栄)


July 3172013

 かたつむり口に這わせて微笑仏

                           ジェームズ・カーカップ

句は「Stone face of Buddha/on his gently-smiling lips/a snail is crawling」。カーカップはかつて東北大、日本女子大、他で英語を教えた親日家で知られたイギリスの詩人、劇作家で、連作詩「海の日本」がある。頭の運動にハイクを作ったという。原句を直訳すれば「ブッダの石の顔、そのやさしく微笑している唇の上をかたつむりが這って行く」となる。石仏の唇の上を這うかたつむり、石仏と微笑ーー三者の硬軟の取り合わせがポイントである。おもしろいというか、幾分なまぐさい。読んでいるほうも思わず微笑したくなるような光景である。掲句のスタイルに和訳したのは、俳句の国際化に貢献し、世界の俳句に詳しい佐藤和夫の試訳である。カーカップには「一日にリンゴ一個は医者いらず」という諺をもじって、「一日一つハイクを作れば医者いらず」と言っていたという。中原道夫の句集『蝶意』を英訳(共訳)している。かたつむりと言えば「舞へ舞へかたつぶり、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏みわらせてん……」という『梁塵秘抄』のうたがよく知られている。佐藤和夫『海を越えた俳句』(1991)所載。(八木忠栄)


August 0782013

 あくせく生きて八月われら爆死せり

                           高島 茂

和二十年の昨日、広島市に原爆が投下され、三日後の九日に長崎市に原爆が投下されたことは、改めて言うまでもない。つづく十五日は敗戦日である。二つの原爆忌と敗戦忌が日本の八月には集中している。掲句の「八月」とはそれらを意味していて、二つの「爆死」のみならず、さらに広く太平洋戦争での「戦死」もそこにこめられているだろう。二つの「原爆」の深い傷は今もって癒えることはない。三・一一以降セシウムの脅威はふくらむばかりである。それどころか、今まさに「安全よりお金を優先させる」という、愚かしい政治と企業の論理が白昼堂々とまかり通っている。「あくせく生き」た結果がこのザマなのであり、「爆死」の脅威のなかで、フクシマのみならずニッポンじゅうの市民が、闇のなかを右往左往させられている。そのことをあっさり過去形にしてしまう権利は誰にもない。戦中戦後を「あくせく生き」た市民たちにとって、死を逃がれたとはいえ「爆死」状態に近い日々だったということ。茂は新宿西口の焼鳥屋「ぼるが」の主人だった。私も若いころ足繁くかよった。ボリウムのあるうまい焼鳥だった。主人と口をきくほど親しくはなかったが、俳人であることは知っていた。壁に蔦がからんだ馴染みの古い建物そのままに営業していることを近年知って驚き、私は一句「秋風やむかしぼるがといふ酒場」と作った。かつて草田男や波郷もかよったという。文学・芸術関係の客が多く独特の雰囲気があった。茂の句は他に「ギター弾くも聴くも店員終戦日」がある。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)


August 1482013

 金魚売りの声昔は涼しかりし

                           正宗白鳥

在でも下町では金魚売りがやってくるのだろうか? 若いときに聞いた「キンギョエー、キンギョー」という昼下がりのあの売り声は妙に眠気を誘われた。今も耳の奥に残っているけれど、もう過去の風物詩になってしまった。クーラーのない時代の市井では、騒音も猛暑日も熱中症も関係なく、金魚売りののんびりとした声がまだ涼しく感じられたように思う。そう言えば、少年時代の夏、昼過ぎ時分になると自転車で鈴を鳴らしながら、アイスキャンデー売りのおじさんがやって来た。おじさんは立ち小便した手をそのまま洗うことなく、アイスボックスの中からとり出して、愛想笑いをしながら渡してくれた。それはおいしい一本五円也だった。風鈴売りもやって来たなあ。さて、車谷弘の『わが俳句交遊記』(1976)によると、昭和二十九年八月の暑い日、向島で催された作家たち(久保田万太郎、吉屋信子、永井龍男他)の句会に誘われた白鳥は、佃の渡しから隅田川を遡って出かけ、初めてのぞむ句会で一句だけ投じた。それが掲句である。披講のとき、小さな声で「白鳥……それはぼくだよ」と名乗った。林房雄が「うん、おもしろいな」と言ったという。「金魚売り」の句と言えば、草間時彦に「団地の道はどこも直角金魚売」がある。(八木忠栄)


August 2182013

 秋刀魚の目ひたすら遠し三尾買う

                           岡本敬三

三さんが私たちの余白句会に、何回かゲスト参加した時期があった。参加されなくなってしばらく経つなあと思っていたら、六月三日に亡くなったとの報に驚いた。以前は酒乱気味だったと聞いていたが、お会いした頃は目立ちたがらず、句会でも静かな存在だった。店先の秋刀魚であろう、その目に向けられたまなざしは静かに慈愛に満ちていて、「おいしそうに輝いているから買おう」という気持ちは、ここには働いていない。掲句を引用して、清水哲男は「秋刀魚を買うというごく普通の行為にしても、その底に、死んだ魚の目のありように触発されたからだと述べずにはいられない」とコメントしている。「一尾」ではなく、せめて「三尾」買ったところになぜかホッとできる。秋刀魚の「ひたすら遠」い目に惹かれて買ったのであろう。他に「君はただそこにいるのか茄子の花」という句があり、私には「茄子の花」に敬三自身が重なって感じられる。合掌。「ににん」51号(2013)所載。(八木忠栄)


August 2882013

 夏終る腹話術師の声の闇

                           高橋修宏

形を抱いて愛嬌たっぷり登場する腹話術師、その唇をほとんど動かさずにしゃべるという珍しい芸に、子どもの頃から見とれて感心するばかりだった。パクパクする人形の唇と腹話術師の唇を、秘密を探るがごとく交互に見比べる。いまだにそうだ。もともとは呪術や占いとして使われ、紀元前五世紀頃にはギリシアの聖職者が腹話術を使ったりしたのだという。それが十八世紀頃から次第にショー化してきたという歴史があるようだ。現在の日本では芸人「いっこく堂」のすぐれた腹話術がよく知られている。彼は二体の人形も見事に使い分ける。日本腹話術師協会には三百人以上の会員がいるらしい。唇をほとんど動かさずに人形の言葉を発する芸には、感心してただポカンと見とれているわけだが、それを修宏は「声の闇」ととらえたところが、ただのポカンとはちがって緻密である。もともと呪術や占いとして発生したことを思えば、「声の闇」の神秘性には測り知れない奥行きがありそうだ。「夏終る」という季語と相俟って、その闇の神秘性を一層考えさせ、闇はむしろ素敵に深まるばかりではないか。他に「首都五月屈めば見ゆるされこうべ」がある。詩人にして俳人。『虚器』(2013)所収。(八木忠栄)


September 0492013

 橋多き深川に来て月の雨

                           永井龍男

川…江東区一帯には河川や運河が多い。したがって橋の数もどれほどあるのか詳しくは知らないけれど、大小とりまぜて多いはずである。まだ下町情緒が濃く残っていた時代、月をめでながら一杯やろうと意気ごんで深川へやって来たのだろう。ところが、あいにく雨に降られてせっかくの名月が見られない。あるいは雨はこやみになって、月かげがかすかに見えているのかもしれない。そうした情緒も捨てたものではないだろうけれど、やはりくっきりとした名月を眺めたいのが人情。下五を「雨月かな」とか「雨の月」などと、文字通り月並みにおさめずに「月の雨」としたことで、句がグンと引き締まった。口惜しさも嫌味なくにじんでいる。「秋の暮」ではなく「暮の秋」とするといった伝である。龍男の句は多いが、月を詠んだものに「月知らぬごとく留守居をしてゐしが」「月の沓萩の花屑辺りまで」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 1192013

 かきくわりんくりからすうりさがひとり

                           瀬戸内寂聴

字を当てれば「柿榠樝栗烏瓜嵯峨一人」となろう。一読して誰もが気づくように、四つの果実の「K」音がこころよい響きで連続する。しかもすべて平仮名表記されたやわらかさ。京都・嵯峨野の寂庵に住まいする寂聴の偽りない静かな心境であろう。秋の果実が豊富にみのっている嵯峨にあって、ひとり庵をむすんでいることの寂寥感などではなく、みのりの秋のむしろ心のやすらかさ・感謝の気持ちがにじんでいる、と解釈すべきだろう。「さがひとり」の一言がそのことを過不足なく表現している。この句を引用している黒田杏子によれば、この俳句は「二十数年も前にNHKハイビジョンの番組で画面に大きく出た」もので、愛唱している女性が何人もいるという。寂聴は高齢にもかかわらず、今も幅広く精力的に活躍している人だが、杏子は昭和六十年以来、寂庵での「あんず句会」の第一回から選者・講師をつとめて親交を結んでいる。寂聴句のことを「その俳句も私俳句であり、世にいう文人俳句という分類にははまらない」と指摘している。寂聴句には他に「御山(おんやま)のひとりに深き花の闇」がある。黒田杏子『手紙歳時記』(2012)所載。(八木忠栄)


September 1892013

 いささかのしあわせにゐて秋燈

                           安藤鶴夫

月中旬くらいまでは残暑がつづく。これは酷暑の連続だった今年に限ったことではなく、例年のことであると言っていい。歳時記では「秋燈(あきともし)」とならんで「燈火親しむ」がある。同じあかりでも、大気が澄んできて少々涼しさが感じられてくる秋は、あたりの静けさも増して、ようやく心地よい季節である。秋燈はホッとできるあかりである。掲句の場合、身に余るような大袈裟な「しあわせ」ではなく、庶民にふさわしい「いささか=ちょいとばかり」だが、うれしい幸せ感なのであろう。その幸せの中身は何であれ、秋のあかりのもとにいると、どことなくうれしさが感じられるということであろう。『巷談本牧亭』(直木賞受賞)や『寄席紳士録』などの名著のある“あんつる”さんの仕事を、江國滋は「含羞の文学」と評し、「詩人である」とも指摘していた。掲出句はいかにもそう呼ばれた作家にふさわしい、ほのぼのとした一句ではないか。他に「とりとめしいのちをけふは草の市」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 2592013

 いつ来るとなく集りし踊かな

                           三遊亭圓朝

ろいろな踊りがあるけれど、俳句で「踊り」といえば盆踊りのこと。盆踊りはもともと、盆に戻ってきた先祖の霊もまじって、人が一緒になって踊るというもの。踊り手が手拭や編み笠で顔を隠すようにして踊るのは、亡者を表わしている。夕刻から盆太鼓が打ち始められ、次第に踊り手が増えて輪ができていく。まさに「いつ来るとなく」、いつしか人が集まって踊りの輪が広がっていく。圓朝のことだから、そのなかに尋常ならざる者も、幾人かまじっているのかもしれない。私もその昔、見よう見真似で踊ったりしたものだった。さかんなときは二重三重の輪ができることもあった。仮装大会などもあると一段と盛りあがった。私の母は若い頃には、乳飲児の私を姑に預けて、踊りに夢中になったこともあった、とよく聞かされた。私が今住む町の公園で、町内会の祭りが十年以上つづけられている。独自な盆唄をもたないから、いまだにあの♪月が出た出た……の炭鉱節のCDをくり返し流しつづけている。踊るアホーより見るアホーのほうが多く、自治会が運営する露店のビールや焼そばが繁昌しているようだ。盆踊りも時代とともに様変わりしたり、ちっとも代わり映えしなかったり、さまざまである。圓朝には他に「其なりに踊り込みけり風呂戻り」の句がある。永井啓夫『三遊亭圓朝』(1962)所収。(八木忠栄)


October 02102013

 コスモスと電話をかける女かな

                           古川ロッパ

スモス(秋桜)については説明するまでもなく、秋を代表する色さまざまな花である。その可憐さには誰もがホッとする。可憐でありながら、じつはなかなかしぶとく強い花で、風によって地になぎ倒されても、そこからまた伸びあがってくるのを見て、子どもの頃に舌を巻いたものだ。掲句の「コスモス」は電話の女の「モシモシ」が訛っているという、むしろ川柳。この場合の「コスモス」は季語とは言えまい。男爵の息子だったロッパは、なかなかのインテリ・コメディアンであった。逆にそこに悩みもあった。東京生まれだが、方言をよく学び、特に東北弁が独特のニュアンスを持っていて、可笑しかった。いまだに忘れがたい。「モシモシ」を「コスモス」と聴いて、オッフォンとほほえんでいる巨漢ロッパの風体が見えてくる。ロッパは「声色(こわいろ)」を「声帯模写」と新たに命名したことで知られるし、「イカす」も彼の発明。舞台・映画関係では「ロッパ」を名乗り、文筆では「緑波(りょくは/ロッパ)」と使い分けた。もう若い人には馴染みがないだろうが、往時エノケンとならび「喜劇王」と称された。私などの世代はラジオの連続ドラマ「さくらんぼ大将」や「アチャコ青春手帖」でロッパに親しんだ。厖大な『昭和日記』や『ロッパの悲食記』などはなかなか貴重な歴史的記録である。「読売新聞」(2013年8月16日)所載。(八木忠栄)


October 09102013

 石を置く屋根並べをり秋の蝶

                           和田芳恵

屋根ではなくて、何軒もの家々の屋根には石がならべられている、それはどこかに実在する集落であろう。そうした素朴な集落の家々の軒先や屋根高くまで、秋風に吹かれて飛んでいる蝶の風景が見えてくる。「並べをり」で切れる。蝶は四季を通じて見られるけれども、単に「蝶」だと春の季語であることは言うまでもない。春の蝶は可愛さも一入だし、小型種が多いと言われる。秋の蝶だから、風にあおられて屋根まで高く飛んでいるのだろう。石も蝶も、どことなくさびしさを伴っている。今はどうか、かつては屋根に石を置く地域があった、掲句はそれを目の当たりにして詠まれている。何をかくそう、私の生まれ育った実家の屋根も、広い杉皮を敷きつめ、その上にごろた石がいくつも置かれていた。雪下ろしの際にはそれらが長靴やシャベルにぶつかって、作業がやりにくかったことをよく覚えている。近所にはそういう家はなかったようだから、わが家では瓦を上げる資金がなかったのかーー。小学五年頃にめでたくコンクリート瓦にかわり、子ども心に晴れ晴れした気持ちになった。芳恵には他に「病む妻と見てをりし天の川」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 16102013

 来るわ来るわ扱(こ)くあとへ稲を引担(ひつかつ)ぎ

                           泉 鏡花

々稲刈りは機械化し、時期も早くなっているようだ。だから、今の時期はもう晩稲もとっくに米粒となっておさまっているだろう。しかし、あの鏡花にしてこの滑稽味あふれる一句を、ここでとりあげておきたい。「扱く」は「脱穀」のことで、機械が籾を扱く。「稲扱き」とも呼ばれる。掲句は稲扱きの作業風景を詠んでいる。私などは農家の子として、田植えに始まって、稲刈り、稲扱きまで手伝わされたから、この句にはどうしても心が寄ってしまう。作業場に高く積み上げられた稲が、脱穀機のそ脇に次々に運ばれてくる。脇に立ってそれを脱穀械で扱く父親に一束ずつ突き出すのが、私の役割だった。機械から撒きあがる細かい稲塵が首のあたりから入るから、チクチクしてたまらなくせつない。でも稲の山はなかなか減らない。夜の作業だとチクチクするやら眠いやら。「来るわ来るわ」に始まって、「引担ぎ」で止めるまで、鏡花にしては滑稽味あふれる描写である。「引担ぎ」に作業のリアリティーがこめられていて、しかも可笑しさが感じられる表現だ。つい自分の子どもの頃のしんどかった作業経験を重ねてしまったけれど、今は田んぼで機械が稲を刈り取り、一挙に籾にして袋詰めしてしまう。あの忘れもしないチクチクは、今や昔のモノガタリ。鏡花には他に「片時雨杉葉かけたる軒暗し」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 23102013

 Now the swing is still:/a suspended tire/Centers the autumn moon.

                           ニコラス・ヴァージリオ

意→「ぶらんこは静止していて/つるされたタイヤの/まんなかに秋の月がある」(佐藤和夫訳)。作者はNicholas Virgilio(アメリカ。1928年生まれ)。掲句は『ザ・ハイク・アンソロジー』(ニューヨーク/1986)に収録されている。「つるされしタイヤのまんなか秋の月」とでも拙訳しておこうかーー。誰もが知っているブランコそのものではなく、ブランコの代用として吊るされているタイヤだろう、それが静止している。そのまんなかから丸い月が眺められる。静かな秋の夜である。ーーそんな情景としてとらえていいだろう。どこかの家の庭だろうか、小さな公園だろうか。日中は子どもたちが、乗っかったり揺さぶったりして遊ばれていたタイヤも、夜にはさすがに静止したままだ。作者はうってつけのように、そのタイヤのまんなかから月をうっとり眺めているのだろう。そのとき思わず「これは俳句になるぞ!」と思って作ったのかどうか。ニコラスは、ペンシルヴァニア大学で開催された第1回国際ハイク・フェスティバルの共同主催者だったという。各地で、今もさかんに国際的なハイク・フェスティバルが開催されている。佐藤和夫『俳句からHAIKUへ』(1987)所載。(八木忠栄)


October 30102013

 人生これ二勝一敗野分あと

                           斉藤凡太

太(本名:房太郎)は、新潟県出雲崎で十三歳からずっと漁業に従事している人で、八十七歳の達者な現役漁師。台風で舟が壊れて漁業をやめようと思ったが、「これは人生のうちの一敗。一つぐらい勝ち越したい」と本人が念じての「二勝一敗」である。よけいに欲張らずに、あくまでも現役の骨太く力強い決意の句ではないか。「人間生きているうちは夢を持て」と日頃おのれを鼓舞しているという、説得力をもった一句である。七十歳のとき奥さんを亡くしてから、町の句会に入会したという。今や「新潟日報」紙・毎週の俳壇(選者:黒田杏子)の常連で、熱心に投稿して高い成績をおさめ、注目されている。「年を取って、転ばないように支えてくれるのは杖。俳句も杖のようなもの」と述懐する。今年の「新潟日報・俳壇賞」(10月)で、最高入賞を果たした凡太の句は「つばめ来てわれに微笑む日の光」だった。他に「海鳴りもうれしく聞ゆ雪解風」という漁師らしい句もある。句集に『磯見漁師』がある。「ラジオ深夜便」(2013年10月号)所載。(八木忠栄)


November 06112013

 モカ飲んでしぐれの舗道別れけり

                           丸山 薫

ごろの時季にサッと降ってサッとあがる雨が「しぐれ(時雨)」である。「小夜時雨」「月時雨」「山めぐり」他、歳時記には多くの傍題が載っている。それだけ日本人にとって身近な天候であり、親しまれている季語であるということ。しぐれは古書にもあるように「いかにももの寂しく曇りがちにして、軒にも雫の絶えぬ体……」(『滑稽雑談』)といった風情が、俳句ではひろく好まれるようで、数多く詠まれている。丸山薫には俳句は少ないようだが、「モカ」にはじまって「しぐれ」「舗道」とくるあたり、どこかロマンを感じさせる道具立てである。詠まれている通り、何やら長時間モカコーヒーを飲みながら話しこみ、しぐれで濡れている舗道で淋しく別れたのである。若い男女であろう。題材も詠み方もとりたてて変哲がある句とは言えないけれど、これはこれでさらりと詠まれていてよろしいではないか。「モカ」というと、どうしても寺山修司の歌「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」を避けて通れない。芥川龍之介の句に「柚落ちて明るき土や夕時雨」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 13112013

 この子らに未来はありや七五三

                           清水 昶

五三に限らないけれど、着飾ってうれしそうな子どもたちを見るにつけ、昶ならずとも「未来はあるか」という懸念が、身うちでモグモグしてしまうことが近年増えてきた。こちらがトシとって、未来の時間がどんどん減ってきていることと、おそらく関係しているのだと思う。それにしても、先行き想定しようのない嫌ァーな時代が仄見えている気がする。私などが子どもの頃、わが田舎では「七五三」といった結構な祝いの風習などなかった。いわんや「ハッピーバースデイ」なるものだって。だから、わが子の「七五三」や「ハッピーバースデイ」などといった祝い事では、むしろこちとら親のほうが何やら妙に照れくさかったし、落着かなかった。子どもに恵まれなかった昶の句として読むと、また深い感慨を覚えてしまう。もちろん「この子ら」の未来だけでなく、自分たち親の未来や人類の未来への思いを、昶は重ねていたはずである。掲句は、サイト「俳句航海日誌」の2010年11月15日に発表されている。亡くなる半年前のことである。亡くなる一週間前の句は「五月雨て昏れてゆくのか我が祖国」である。「子らの未来」や「我が祖国」などが、最後まで昶の頭を去ることはなかったかもしれない。『俳句航海日誌』(2013)所収。(八木忠栄)


November 20112013

 ひれ酒や愚痴が自慢にかわるとき

                           岡田芳べえ

さが一段と厳しくなってきた。酒場では「アツカンもう一本!」といった注文が聞かれる時季。しかし、ほんとうは上等な酒は「ヌルカン」で飲むのがおいしいーーと私は信じて実行している。でも、酒場での「アツカン!」の声はいかにも寒さが吹っ飛ぶようで、場が盛りあがる。アツカンを飲むならば、ひれ酒の熱いやつをじっくりぐびりとやりたくなる。あぶったフグのひれのあの香ばしさ。誰がこんなおいしい飲み方を発明してくれたか!と飲むたびに、感謝の気持ちがわいてくる。気のおけない仲間と居酒屋でひれ酒をじっくりやりながら、口をついて出てくるのは景気のいい話題よりも、やっぱり愚痴が多いか。人によっては酔うほどに、いつの間にかそれが自慢話に変わっている、なんてことがある。自慢話はご免蒙りたいけれど、そういう手合いが結構いるんだなあ。「あいつのクセが始まった…」と持てあましながらも、知った仲間であればそれも愛嬌かもしれない。「俳句は自分の句を後になって読み返す楽しみがいちばん大きい。人さまの句はいくらいい句でもそれ以上のものではない」と芳べえは正直に記す。一理あるかもしれない。他に「かくれんぼだれも見つけに来ぬ師走」がある。「毬音」3号(2011)所収。(八木忠栄)


November 27112013

 サンルーム花と光のさざめける

                           神保光太郎

句としてすぐれた出来ではないと思うけれど、詩人・神保光太郎の俳句は珍しい。しかも「サンルーム」を季語にした俳句を、私はこれまであまり見かけていない。サンルームと言わないまでも、寒気が強くなるとともに暖かい陽ざしが恋しくなってくる。そんな今日この頃。暑いときはあんなに日陰を選んで歩いていたのに、今は逆に誰しも日当りを求めて歩きたい。サンルームのなかでは、日ざしによって汗ばむほどになる。掲句の「花」はいったい何という花だろうか? シクラメンだろうか……季節の花なら何であってもかまわない。花と光があふれさざめいて、冬にはとても快適なスペースである。光太郎は若いときは短歌も作った。のち「日本浪漫派」の同人として活躍し、堀辰雄らの第二次「四季」にも参加した。今は光太郎をよく知らない人が増えているかもしれない。じつは私は大学時代に、神保教授のドイツ語の授業を受けたことがある。たいていベレー帽をかぶり、笑いを絶やさない先生だった。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 04122013

 ふるさと富士から順に眠りだす

                           丸谷才一

いていの日本人は富士山が好き。全国各地にあって地元の人たちに親しまれている山で、かたちが富士山に似て恰好いい山を「〇〇富士」と呼んでいる。たとえば北海道の羊蹄山を「蝦夷富士」と呼び、筑波山を「筑波富士」と呼ぶ。そんな「ふるさと富士」が全国に350以上もあるという。富士を模した人工の「富士塚」も各地に多い。富士山は広く愛されているだけでなく、信仰を集めている山でもある。冬の山のことを意味する季語「山眠る」があるけれど、掲句は冬の「ふるさと富士」を詠んでいる。冬の到来とともに北から順に「ふるさと富士」は、次々と冬化粧をして眠りに就く。じつは「〇〇富士」は日本国内ばかりに限っていなくて、台湾、インド、ロシアをはじめ世界各地にあるというから驚きである。掲句を含む才一句は、彼の全集の付録『八十八句』(2013/非売品)に収められた。他に「白魚にあはせて燗をぬるうせよ」もある。「今の作家が詠まないのはじつに淋しい。小説家諸氏よ、俳句を詠まれたし」と長谷川櫂は挑発している。売れっ子諸氏は、そんな暇がないのだろうか。いや、才能がないのだろうか?(八木忠栄)


December 11122013

 学ぶときをいとほしんで冬ごもり

                           三遊亭らん丈

の寒さを避けて暖かい屋内にこもることを、「冬ごもり」は意味している季語だが、今日では交通機関や施設を含めて、どこでも暖房が効いている。また一般の人は冬だからと言って、とじこもって外出しないわけにいかない日々でもある。「冬ごもり」はきれいな響きをもつ言葉で好きだけれど、私たちの生活実感としてあまりピンとこない季語になってしまっている。もともと草木も花も葉もなく、霜雪に埋もれていることを「冬籠」とか「冬木籠」と称していたものらしい。句の意味合いは、冬ごもりして、じっくり時間をいとおしむようにして、いろんなことを学ぶことに精出す、勉強するということであろう。らん丈は三遊亭円丈の一番弟子で真打。早稲田大学と一橋大学それぞれの大学院で学んだというインテリ。このごろは大学卒などのインテリさんが多い。「学ぶ」と落語家は一見釣り合わないようだけれど、前座・二ツ目の修業時代からして学ぶことは多いのだから、「学ぶ」が不自然というわけではない。石田波郷の句に「背に触れて妻が通りぬ冬籠」がある。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)


December 18122013

 月一つ落葉の村に残りけり

                           若山牧水

の時季、落葉樹の葉はすっかり散り落ちてしまった。それでも二、三枚の枯葉が風に吹かれながらも、枝先にしがみついている光景がよくある。あわれというよりもどこかしら滑稽にさえ映る。何事もなく静かに眠っているような小さな村には、落葉がいっぱい。寒々と冴えた月が、落葉もろとも村を照らすともなく照らし出しているのであろう。季重なりの句だが、いかにも日本のどこにもありそうで、誰もが文句なく受け入れそうな光景である。牧水が旅先で詠んだ句かもしれない。この句から「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」の名歌が想起される。作者は冬の月を眺めながら、どこぞでひとり酒盃をかたむけているのかもしれない。暁台に「木の葉たくけぶりの上の落葉かな」がある。牧水には他に「牛かひの背(せな)に夕日の紅葉かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 25122013

 鮭舟の動き動かぬ師走かな

                           山岡荘八

鮭は今でこそ家庭の食卓に年中あがるけれど、小生が子どもの頃の地域では鮭は貴重だった。年に一度、大晦日の夜に厚切りにした串焼きの塩引きが食卓にならんだ。それを食べることで年齢を一つ加えた。飼猫も一切れ与えられて年齢を加えた。あのほくほくしたおいしさは、今も忘れられない。焼かれた赤い身の引きしまったおいしさ。今どきの塩鮭の甘辛・中辛の比ではなかった。鮭は北海道に限らず本州各地の川でも、稚魚の放流と水揚げが行われている。南限は島根県と言われる。定置網漁が多いが、掲句は漁師が川で舟に乗って網を操って鮭漁をしている、その光景を詠んでいる。大ベストセラー『徳川家康』全26巻を著した荘八は、越後・魚沼(小出)の農家の長男として生まれた。同地を流れる魚野川では、現在も網を操る鮭漁が行われている。シーズンに入って、厳しい寒気のなか鮭舟をたくみに操る漁師が、昔ながらの漁に精出している様子が見えてくる。魚野川の小出橋のたもとに、掲句は刻まれている。荘八には他に「菊ひたしわれは百姓の子なりけり」がある。「新潟日報」(2013年12月2日)所載。(八木忠栄)




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