O謔「句

July 0472013

 いっぱいの打水宇宙ステーション

                           紀本直美

いた庭に打水をする。水が黒い後になって点々と敷石に散り、土を濡らし、庭木の葉を濡らし、湿った水の匂いが立ち上る。マンション住まいになってから如雨露で植木に水をやることはあっても、庭に打水をする。玄関の掃除のあとにちょいと水を撒く、あの気持ちよさは味わえずにいる。それにしても打水から宇宙ステーション。この大胆な飛び方に脱帽。俳句の枠組みに頭を縛られていると出てこない発想だ。確かに点々と乾いた土に広がる水の跡は暗黒の宇宙にさんざめく星々のきらめき。そして回転しながら水を撒いてゆく私そのものが宇宙ステーションなのかもしれない。そんな想像に身をゆだねて勢いよく水を撒けば、ますます打水が楽しくなりそうだ。『さくさくさくらミルフィーユ』(2013)所収。(三宅やよい)


July 1172013

 暗算の途中風鈴鳴りにけり

                           村上鞆彦

の頃は町中を散歩していても風鈴の音を聞かない。風鈴を釣る縁側の軒先もなくなり、風鈴の音がうるさいと苦情が来そうで窓にぶら下げるにも気を遣う。風鈴の音を楽しめるのは隣近所まで距離のある一軒家に限られるかもしれぬ。気を散らさぬよう暗算に集中している途中、風鈴がちりんと鳴る。ほとんど無意識のうちに見過ごしてしまう些細な出来事を書き留められるのは俳句ならではの働き。宿題を広げた座敷机、むんむんと気温が上がり続ける夏の午後、かすかな微風に鳴る風鈴の音にはっと顔を上げて軒先に広がる夏空を見上げる。掲句を読んで昔むかし小学生だった自分と、宿題に悩まされつつ過ごした夏休みの日々を久しぶり思い出した。『新撰21』(2009)所載。(三宅やよい)


July 1872013

 真夏日の名画座冷えてゆくばかり

                           笠井亞子

天下を避けてふらりと入った名画座。話題の新作でもなく、もとより観客の数は少ない。外は焼けるような暑さなのに人気のない映画館の冷房はしんしんと冷えてゆくばかり。ホームビデオの普及で上映された新作を数か月遅れでビデオ屋に並んでいるのを借りてきて、ソファーに寝転がって見ることが多い。日々雑用に追われてなかなか映画館へ行けないが、他の観客とともに暗闇の中で大画面を見上げる映画館の雰囲気は捨てがたい。昔の映画は前編と後編に分かれていて、フィルム交換の時間にロビーに出てコーラを飲んだりトイレに並んだりと悠長なものだった。フィルムが切れたら映写技師が修復をして再開していたっけ。(こんな話をすると年がわかる!)いまやタブレット端末で、電車の中でも映画を見ることができる。銀座の名画座も閉館してしまった。やがて映画館そのものが消えてしまうかもしれない。掲句の「名画座」の響きに冷房の効きすぎた映画館へ一昔前の映画を見に行きたくなった。『東京猫柳』(2008)所収。(三宅やよい)


July 2572013

 ひまはりのこはいところを切り捨てる

                           宮本佳世乃

彩画教室に通っていた頃、ベテランの一人がすっかり枯れて頭をがっくり垂れたひまわりばかり描いているのを不思議に思った。大きな花びらもちりじりに干からびて黒い種子がびっしりと詰まったその姿に興味を引かれて描き続けているのだという。この人にとってひまわりの美は太陽の下でカンと頭をふりあげている姿ではなく、種をびっしり抱えながら干からびてゆく姿だったのだろう。美しさを感じるポイントが人それぞれのように「こはいところ」も人によって変わるかもしれない。ひまわりのどこがこわいのか、どこを「切り捨てる」のか、いろいろ探っているうち、具体的な部分ではな「ひまはり」の存在自体が「こはい」ように思えてきた。堂々とした向日葵の原型に対峙した句が「向日葵や信長の首切り落とす」(角川春樹)の句だとしたら、「ひまはり」の「こはいところ」にあえて向かい、切り捨てるこの句からは健気さが感じられる。『鳥飛ぶ仕組み』(2012)所収。(三宅やよい)


August 0182013

 空蝉の薄目が怖い般若湯

                           須藤 徹

若湯とは僧侶が使う隠語で「酒」を表すという。この句は「飲む」という題詠句会で出された句だったと思う。俳句で兼題と言えば名詞か季語が多いのだか、この時は川柳人との合同句会で「題詠での動詞をどう扱うか」で両者の差異を探ろうと試みた。掲句では「飲む」を僧侶が飲む酒とその行為へ転嫁している。空蝉の「薄目」に見られることがお釈迦様の半眼に見られているような後ろめたさを感じさせる。「般若湯」の一語に隠れて「飲む」行為が隠されているわけで、それをどう読み解くかが鍵と言える。須藤さんの句は俳句への知識と自らの思想に裏打ちされた言葉が多く、おいそれと近づくのを許さない雰囲気があった。しかし、句会では私をはじめ多くの若手俳人が「般若湯」の意味を解せず、「銭湯の名前かと思った」という意見もあって大笑いになったが、そんな発言もおおらかに受け止めてくれる人だった。東京へ来て数知れぬ恩を受けたが、この数年言葉を交わす機会もなく逝ってしまわれたことに悔いが残る。『荒野抄』(2005)所収。(三宅やよい)


August 0882013

 日の丸の白地に赤がかなしけれ

                           長澤奏子

いむかし「白地にあかく/日の丸そめて/ああ美しい/日本の旗は」と歌った思い出がある。今ネットで調べるとこの歌は明治44年作になっている。作られた時代背景を思うと、1910年の日韓併合の翌年になる。朝鮮半島を足掛かりに大陸へ出てゆく体制を作るうえでも国旗、国歌、国への忠誠をより強化する意図があったのだろう。日の丸の意味はその人の抱える経験、思想、信条によってもさまざまな意味に解釈されるだろう。本来、日の丸の赤は太陽を象徴しているそうだ。戦後廃されたが、昭和16年に作られた上記の一番に続く二番は「勢い見せて/ああ勇ましい/日本の旗は」日本の勢いにまかせて大陸に渡った155万以上の人たちは終戦とともに置き去りにされた。作者の場合は幼児期に上海に渡り、昭和21年3月に長崎に引き揚げ、その後は広島で暮らしている。「かなしけれ」と静かに呟いてはいるが、7歳での引き揚げ体験には筆舌に尽くしがたい思いがあっただろう。日の丸の赤があの戦争で流された血で染まっているように思える。『うつつ丸』(2013)所収。(三宅やよい)


August 1582013

 水際に兵器性器の夥し

                           久保純夫

のところ必要があって戦争に関する書籍を30冊余り読んだ。戦地から帰還できた人達の背中には遠い異国で戦死した人々の無念が重くのしかかっている。戦線の攻防は川や海で、繰り広げられる。戦闘が終わった水際に、戦死者の身体や武器が夥しく投げ捨てられている。戦いの終わったあとの静寂を戦死者の局部と打ち捨てられた武器の並列で言い放つことで、名前も過去も剥ぎ取られ横たわっている骸と水漬く兵器がなんら変わりのないことをえぐりだす。前線で命を落とすのは大上段から号令を発する上層部からは遠い名のない人間ばかりである。今回、さまざまな記録を読んでいたく考えさせられたが、幼い頃山積みにされた戦死者を写真で見たときのおびえをいつまでも忘れたくないと思う。『現代俳句一00人二0句』(2003)所載。(三宅やよい)


August 2282013

 父と姉の藪蚊の墓に詣でけり

                           澤 好摩

盆には連れ合いの実家のある広島に帰り山のふもとにある先祖代々の墓所に詣でるのが習いだった。田舎の墓は都会の墓と違い藪蚊が多い。周辺の草を抜き、花を供え線香をあげる間も大きな藪蚊が容赦なく襲いかかってくる。掲句の墓もそんな場所にある墓なのだろうか。この句の情景を読んで明治28年に東京から松山に帰って静養した子規が、久しぶりに父の墓参りをしたときに綴った新体詩「父の墓」の一節を思った。「見れば囲ひの垣破れて/一歩の外は畠なり。/石鎚颪来るなへに/粟穂御墓に触れんとす。/胸つぶれつつ見るからに、/あわてて草をむしり取る/わが手の上に頬の上に/飢ゑたる藪蚊群れて刺す」故郷を離れてしまうと係累の墓を訪れることもままならず、久しぶりに訪れた墓の荒れた様は心に甚くこたえるものだ。遠くにある墓を思うことは故人を思うことでもある。今年の盆も墓参りに行けなかった。草刈もせず、お供えもしないまま過ぎてしまった。と、苦い思いを噛みしめている人もいることだろう。『光源』(2013)所収。(三宅やよい)


August 2982013

 ネクタイのとける音すずしい

                           岡田幸生

由律俳句である。5・5・4の構成で俳句を聞きなれた耳には、その字足らずが句の内容と相まって風通し良く感じられる。季語の「新涼」は少し爽やかな風を感じたとき、「涼し」は暑さの中に見出す涼気であるが、この句の「すずしい」はあくまで固いネクタイの結び目をとく音に付随したものだから、季語の本意とかかわりはないだろう。クールビズのいきわたった今は通勤電車を見渡してみてもネクタイをしていない人の方が多いが、ちょっと前までほとんどサラリーマンは夏でも背広にネクタイの暑苦しい姿で出勤していた。そう考えると一日中締めていた襟元を緩めて絹のネクタイをほどく音が涼しげに聞こえるのはこの季節ならではと思える。帯を解く音、ネクタイをとく音、シルクのワンピースの裾をさばく音、そういえば絹には「すずしい」音があるなぁと句を読んで思った。『無伴奏』(1996)所収。(三宅やよい)


September 0592013

 西空にして雷神の快楽(けらく)萎え

                           馬場駿吉

年の夏の暑さは尋常ではなかった。40度近い気温に温められた空気が上昇し規模の大きな積乱雲となり、恐ろしいほどの夕立と雷鳴に襲われた日も多かった。今までに経験した雷は空が暗くなるにしたがって、遠くから少しずつ音が近づいてきて、まず先触れのように夕立が降りだしピカッと空が光るのと雷の音がだんだんと誤差がなくなってくる。光ってから、「いち、にい、さん」と雷と自分がいる場所の近さを測ったものだった。しかし今年はとんでもない量の雨が降りだすのも突然だし、間合いもおかず雷が頭上で暴れ出す激しさだった。思い切り雷鳴を轟かす、あれが「雷神の快楽」というものだろうか。「天気が変わるのは西から」とむかし教えてもらったことがある。西空が明るんできて、雨の勢いも弱ってゆく。秋の訪れとともに雷神のお楽しみもそろそろ終わりと言ったところだろうか。『幻視の博物誌』(2001)所収。(三宅やよい)


September 1292013

 新涼や夕餉に外す腕時計

                           五十嵐秀彦

井隆の『静かな生活』に「腕時計せぬ日しばしば手首みる小人(こびと)がそこにゐた筈なんだ」という一首がある。腕時計は毎日仕事にゆく生活をしている人にはなくてはならない小道具。分割された時間に動く自分を縛るものでもある。岡井の短歌は手首で時を刻む腕時計そのものを勤勉な小人の働く場所と見立てのだろうが、「腕時計」をはずすときは自分の時間を取り戻すときでもある。掲句では、家族とともに囲む夕餉に腕時計をはずす、その行為自体に新涼の爽やかさを感じさせる。腕時計と言えばベルトも革製のものとメタルのものがあるが、少し重さを感じさせるメタルの質感がこの句の雰囲気にはあっているように思う。昼の暑さが去り、めっきり涼しくなった夕餉時、ひと仕事終えた解放感とともに、食卓に整えられた料理への食欲も増すようである。『無量』(2013)所収。(三宅やよい)


September 1992013

 雀蛾に小豆の煮えてゐる匂ひ

                           ふけとしこ

に「イモムシ」と呼ばれるものは雀蛾の幼虫のようである。雀蛾の幼虫は地中にもぐって蛹になり、独特の三角形の翅をもつ成虫に羽化するという。以上はネットで得た雑駁な情報だけど、何より「雀蛾」という名前が魅力的だ。色鮮やかな蝶にくらべ夜間活動する蛾は色も地味であまり歓迎されない。掲句では、迷い込んだ雀蛾が台所のどこかに止まっているのだろう。蛾は蝶のように翅をたたまない。水平に翅を広げたままじっとしている雀蛾は壁に展翅されたように見える。そんな雀蛾に暗赤色の小豆が煮える匂いがしみ込んでゆく。何気ない日常の情景だが夏から秋へとゆっくり変わってゆく夜の時間と秋の色彩を感じさせる佳句だと思う。「ほたる通信 II」(2012.10)所収。(三宅やよい)


September 2692013

 ショーウィンドウのマネキン家族秋高し

                           山田露結

ョーウィンドウの中に母、父、男の子、女の子の家族が最新ファッションに身を包み、楽しそうに微笑みあっている。この頃はピクニックにも遊園地にも無縁な生活をしているので、昨今の家族がどのように休日を過ごしているのか、とんと疎くなってしまった。時々電車で見かける家族はショーウィンドウの中にいる家族のように上機嫌でもなく、おしゃべりも弾んでいないように見える。それが現実の家族で、気持ちのよい秋晴れに行楽地へ繰り出しても子供は駄々をこね、父と母はささいなことで怒りだすこともしばしば。せっかくの休日が出かけたことで台無しになることだったあるのだ。ウインドウの中の家族は葛藤がない、身ぎれいなマネキンの家族と澄み切った秋空は空々しい明るさで通い合っているように思える。『ホームスウィートホーム』(2012)所収。(三宅やよい)


October 03102013

 爪先から淋しくなりぬ大花野

                           山岸由佳

句を始める前までは「花野」といえば春だと思い込んでいた。春と秋では咲く花の種類も空気も違い、まったく異なった野の風景になる。尾花、萩、女郎花、撫子、吾亦紅、赤のまま、色鮮やかな春の花とは違い、色も姿も控え目で寂しさを感じさせる。花を輝かせる日ざしもうつろいやすく、花野の花を楽しんでいるうち、たちまちに夕刻になり心なしか風も寒く感じられる。爪先から感じる冷えがしんしんと身体に伝わってきて心細さが身体全体を包んでゆく。「花野」のはかなさが「淋しい」冷たさになって、読み手にも伝わってくるようだ。「風」(炎環新鋭叢書シリーズ6『風』)(2012)所載「海眠る」より。(三宅やよい)


October 10102013

 豆菊や昼の別れは楽しくて

                           八田木枯

い先日、人と別れるのに「さようなら」と言ってその語感の重さにぎくりとした。数日後に顔をあわせる人や職場の同僚、親しい友人には「じゃあまた」と手を挙げて挨拶する程度の別れの挨拶であるし、目上の人には「失礼します」で日常過ごしていることに改めて気づかされた。よく人生の時期を季節に例えるけれど、自分の年齢も人生の秋から冬へ移行しつつある。一日の時間帯で言えば夜にさしかかりつつあるのだろう。人と別れるのは永遠の別れを常にはらんでいることを若い時には考えもしなかった。そう考えると掲句の青春性が眩しい。豆菊は道端の野菊のように可愛らしい小菊のことだろうか。はしゃぎながら別れる女子高生や、元気な子供たちが想像される。別れの言葉は?「バイバイ」って手を振るぐらいだろな。三々五々散ってゆく人たちの去ったあとの豆菊の存在が可憐に思える。『八田木枯少年期句集』(2012)所収。(三宅やよい)


October 17102013

 大学に羊生まれぬ秋の風

                           押野 裕

学になぜ羊がいるのだろう?農学部の牧場なのかドリーのように実験用の羊なのか。この句の眼目は羊が生まれた場所と季節だと思うが、普通羊は秋に交配時期が来て春に生まれる。とすると、この子羊は「大学」で何らかの処置をほどこされた親羊から生まれたのではないだろうか。そう考えると秋生まれの羊が人工的で華奢な存在に思われる。春に生まれた動物は気温も高くなり食べ物も豊富に育つが、秋生まれの子羊には厳しい生活環境がすぐやってくる。野良猫の場合も秋生まれの仔猫はほとんどが死んでしまうそうだ。これからの寒さの予感を感じさせる秋風のあわれさが子羊の存在の弱弱しさを暗示しているように思われる。『雲の座』(2011)所収。(三宅やよい)


October 24102013

 中也忌の透明傘の中の空

                           斉田 仁

明のビニール傘の中から空を見ているのは自分だろうか。「の」の助詞のたたみかけで読み手を透明傘の中まで引っ張ってゆく。中原中也は丸い帽子を被った写真が有名で中也と言えば教科書にあったその写真が思い出される。透明傘は丸い帽子の形状と連想が結びつくし、透明傘を透かして見る空に中也の詩にある叙情性を思う。哀しみを宿す人の心に直に語りかけてくるような中也の詩。掲句から「生い立ちの歌」の一節を思った。「私の上に降る雪はあられのやうに降りました/私の上に降る雪は雹であるかと思われた/私の上に降る雪はひどい吹雪とみえました」きっと彼は触れると飛び上がるほど鋭敏な感受性を持っていたのだろう。ことに幼い息子を失った中也の嘆きは何にも癒されることがなかった。息子を亡くした翌年死去。忌日は十月二十二日、墓は故郷の山口市にある。『異熟』(2013)所収。(三宅やよい)


October 31102013

 木の葉髪鐡といふ字の美しき

                           玉田憲子

鴎外の『羽鳥千尋』に自分の好きな漢字を列挙してゆくくだりがあった。「埃及」「梵語」「廃墟」等々。鏡花は豆腐の「腐」の字が許せなくて「豆府」と表記していたという。字の好き嫌いに関する逸話は多い。掲句の「鐡」は鉄であるが金を失うと意味がつくのでわざわざ作りを「矢」と変えて使用していたら子供が漢字を間違って覚えるからやめてくれとクレームが入ったそうだ。旧字体を社名にしているところもある。「木の葉髪」はパラパラと抜け落ちる毛を落葉に例えての季語。掲句では旧字体の「鐡」の緻密な字画と堅牢な質感と「木の葉髪」の語感の柔らかさと頼りなさとの絶妙な釣り合いが感じられる。両者を結び付けるものは「黒」であり、美しきという一言もそこから響いてくるように思う。『chalaza』(2013)所収。(三宅やよい)


November 07112013

 剃刀の刃が落ちて浮く冬の水

                           田川飛旅子

い剃刀の替刃が冬の水に浮いている。ただそれだけの様子なのだが心に残る。剃刀が落ちて浮くのは「春の水」でも「秋水」や「夏の河」ではなく「冬の水」というのがこの句の眼目なのだろう。「冬の水一枝の影も欺かず」と草田男の有名な句があるが、冬の水は澄んではいるが動きが少なく、水自体は重たい印象だ。掲句では剃刀の刃の鋭さがそのまま冬の空気の冷たさを感じさせる。そして、浮いている剃刀の単なる描写ではなく「落ちて浮く」とした動きの表現で冬の水の鈍重さも同時に伝える、相反する要素を水に浮く剃刀に集中させて詠み、蕭条とした冬そのものを具体化している。『田川飛旅子選句集』(2013)所収。(三宅やよい)


November 14112013

 壺割れてその内景の枯野原

                           東金夢明

くら上から覗き込んでも口がつぼまった壺の内側を見るのは難しい。割れて初めて薄暗い壺の内側に光があたり、そこに描かれた景色が広がるとは極めて逆説的だ。なだらかな球形であるべき壺の内側が破壊されたことで一枚の枯野原となる、低く垂れこめた空の下、モノトーンの寂しい景色がどこまでも続く。様々な想像を呼び寄せる句だ。こうした句に出会うと日常、見過ごしている物にさまざまに異なる世界が被さっていることに気づかされる。ふとした瞬間に異次元の世界への扉が開く、そうした世界によく分け入る人は、俳句の言葉で別の世界の入り口を探し当てられる人なのだろう。『月下樹』(2013)所収。(三宅やよい)


November 21112013

 休日出勤冬木の枝の燦々と

                           押野 裕

さっては勤労感謝の日。「勤労を尊び感謝する日」が土曜日と重なっているけど、休日出勤の方もいるかもしれない。皆がのんびりしている休日に電車に乗るといつもは混んでいる時間帯も座れるぐらいすいている。向かいの窓からは冬木の梢が凛と輝いて見える。「休日出勤」と言っても平日に代休がある出勤と普段の仕事が片付かないで休日に出てやるのを余儀なくされるのではだいぶ事情が違う。後者の場合は、下手をすると休みなしで連続して仕事をしないといけないわけで、冬木の枝が輝くのを見ている心持も嬉しいとは言えないだろう。そう思うと「燦々」と輝く冬木と鬱屈した気持ちとの対比がより際立ってくるように思う。『雲の座』(2011)所収。(三宅やよい)


November 28112013

 巻貝の渦ゆきわたる冬銀河

                           花谷和子

気が冴えてくると星の輝きにも寒々とした光が宿る。巻貝の渦とは螺旋状に巻く殻の形状を表しているのだろう。銀河系の星の渦を巻貝の殻のかたちと重ね合わせたことで、海辺に生息する巻貝から数知れぬ星々を巻く銀河系宇宙とへと想像が広がっていく。まさに極小の詩形である俳句が極大なものを表現することができる見本のような句だ。巻貝の殻を「渦」と捉えたところに冬銀河との隠喩が生まれるのだが、その類似をつなぐのに「ゆきわたる」という言葉を配したことがこの句に宇宙へと広がる躍動感を与えているように思う。『歌時計』(2013)所収。(三宅やよい)


December 05122013

 寒鴉歩く聖書の色をして

                           高勢祥子

の少ない今の時期、電柱などに止まってゴミ出しの様子を伺っている寒鴉の翅の色は冴えない。祈祷台にあり多くの人の手で擦れた聖書はくたびれた黒色をしている。街角にひっそりたたずみ、道行く人に聖書を説く人の多くは黒っぽい服を着ていてまるで鴉のようだ。「とんとんと歩く子鴉名はヤコブ」の素十の句なども響いてくる。そんな連想をいろいろと呼び込む聖書の色と寒鴉の結びつきに着目した。同句集には「曼珠沙華枯れて郵便受けの赤」という句もあって、植物や動物の色をリアルに感じさせる色彩の比喩がうまく句に組み込まれている。『昨日触れたる』(2013)所収。(三宅やよい)


December 12122013

 寒卵割つてもわつても祖母の貌

                           玉田憲子

ヴィナスは他者の顔と出会うことが自分の生を見いだす契機になると説く。自分の支配に取り込もうとしてもできない他者の顔、特にそのまなざしは不可侵であり根源的な問いかけを持って相手の目をじっと見返す。寒卵をいくつも、いくつも割る。滑り落ちた黄身に重なって祖母の顔が浮かび上がってくる。これはなかなか怖い。寒卵は、「寒中には時に栄養豊富で生で食べるのが良い」と歳時記にある。とすると、祖母は自分の顔を食べろと寒卵の中から現れるのか。祖母が向けるまなざしはどんな感情を含んでいるのだろう。寒卵を二つに割るたび浮かび上がる祖母の顔。思いもかけぬときに生々しく蘇ってくる肉親の顔は、寂しく、孤独で、生きているうちに伝えきれなかった思いを無言で問うてくるかのようだ。『chalaza』(2013)所収。(三宅やよい)


December 19122013

 ふゆのまちふうせんしぼむやうに暮れ

                           岡 正実

京に来て何時まで経っても慣れないのはあまりに日暮れが早いことだ。3時ごろになるともう日ざしが衰え4時過ぎると早くも薄闇がせまってくる。仕事をしていて、ふっと窓の外を見るとすっかり暗くなっていることもたびたびである。秋の落日は「つるべ落とし」というけれど、冬の日の暮れ方はどう形容したものか。掲句では、風船の空気が抜けてだんだんとしぼんでゆく様子を冬の町が暮れてゆく様に例えている。平仮名の表記とくぐもったウ音の響きが冬の頼りない暮れ方を実感させる。もうすぐ冬至、一陽来復また日が長くなっていくのが待ち遠しい。『風に人に』(2013)所収。(三宅やよい)


December 26122013

 薔薇型のバターを崩すクリスマス

                           花谷和子

てもクリスマスらしい雰囲気を持った句である。私が子供の頃は今ほど街のイルミネーションも家に飾る大きなツリーもなく、普段と変わらない晩御飯の後こちこちに固められたバターケーキがクリスマスを感じさせる唯一のものだった。ケーキなどほとんど口にすることのない子供にとっては待ち遠しいものだった。ケーキにはデコレーションのピンクの薔薇と露に見立てた甘い仁丹(?)の露がついていた。掲句の薔薇はそんな時代めいたしろものではなく、ホテルなどで出される薔薇を象ったバターだろう。「崩す」という言葉がありながらクリスマスの特別な晩餐と、その華やいだ雰囲気を楽しく連想させるのは「薔薇」と「バター」の韻を踏んだ明るい響きと「クリスマス」に着地する心地よいリズムがあるからだろう。思えば日本のクリスマスも昔憧れた外国のクリスマスのように垢抜けたものになりつつある。さてそんなクリスマスも終わり今日からは街のにぎわいも正月準備一色になることだろう。『歌時計』(2013)所収。(三宅やよい)




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