ム子句

July 0672013

 すばらしい乳房だ蚊が居る

                           尾崎放哉

日兼題で、蛆、が出され初めは困惑したが、箱根での田舎暮らしが長かった身には、親しいとまでは言わないが思い出す光景はあれこれあった。蠅、蜘蛛、羽蟻、百足にゲジゲジ、そしてもちろん蚊。虫と一緒に暮らしていた夏が何となく懐かしくもある。同時に、どこかいつも小暗かった古い平屋が懐かしい。そんなうすい闇の中でこそ乳房は仄白く美しく、美しいからこそ蚊の存在がなんともおかしくもあり、切りとられた一瞬にリアリティが生まれている。掲出句は、先週亡くなられた村上護氏編『尾崎放哉全句集』(2008・筑摩書房)より。句と共に、写真や書簡も豊富に収められた読み応えのある一冊である。幾度となく酌み交わした際の穏やかな笑顔など思い出しつつ、合掌。(今井肖子)


July 1372013

 まみゆるは易し涼風ある限り

                           上迫和海

松遊子に〈涼しさは淋しさに似て夜の秋〉があるが、涼し、と、淋し、はどこか通じるものがある気がする。涼風の中にいるとき人は、なんとなく遠い目をしてそこに身をゆだねる。心地よい中に、どこか遠くへ誘われるような心地がするからだろうか。掲出句、作者にどんな思い出があるのかはわからないが、深い哀悼の心と愛情、穏やかな中に静かな決意のようなものも感じられる。二度と会うことはできないけれど、ここに来てこうして涼風の中にいると、その人の声が聞こえるような気がしてくるのだ。涼風の一つの姿がそこにある。『句集 四十九』(2012)所収。(今井肖子)


July 2072013

 いつになく酔ひたる喪主のはだか踊り

                           山田露結

めて身近に死を見たのは一緒に住んでいた祖父が亡くなった時。自宅の離れに置かれたその眠っているような顔を不思議な気持ちで眺めていたことを鮮明に覚えている。夏休みも終わりに近い、やりきれないほど暑い日だった。そのせいか、毎年巡ってくる真夏の暑さの記憶の片隅には、かすかな不安がずっと残っている。掲出句の、はだか踊り、形式的分類は夏季ではないのかもしれないが、作者が喪主となられたのは夏だったと思われる。なんともせつないはだか踊り、飲んでも飲んでも酔えない、酔っても酔ってもどうしようもない。句集で読んでから思い出すたび、へろへろと手足を動かしながら全身で泣いているような後ろ姿が浮かんでしまう。〈なきがらに花のあつまる大暑かな〉『ホームスウィートホーム』(2012)所収。(今井肖子)


July 2772013

 石といふもの考ふる端居かな

                           上野 泰

リラ豪雨の去った後のベランダに椅子を出して、まだ濡れている風にぼんやり吹かれながら、これもまあ端居と呼べないこともないな、と思った。でもやはり、縁側に蚊遣りをたいて団扇片手に遠くを見ていた記憶の中の祖母の姿が、本来の端居なのだろう。掲出句は、昭和四十七年の作。本来の端居と思われるが、石か。以前知人から、ヒトの興味は歳を重ねるに従って動から静に変わっていき最後は石にたどりつく、と聞いたことがある。翌四十八年に亡くなった作者、〈天地の一興月見草ひらく〉〈蜥蜴駆け大地太古をなせりけり〉〈五月闇神威古潭をすぎにけり〉など同年の句の中にあると、ふとその横顔を見たような気になるのだった。『城』(1974)所収。(今井肖子)


August 0382013

 美術館より白日傘黒日傘

                           浦川聡子

み手それぞれの中に浮かぶ絵画の色彩と、ひとつまたひとつと開いてはゆっくりと行く日傘の白と黒、その対比が美しい。美術館より、ということは、作者はこれから美術展に行くところで、少し離れたところから出てくる日傘を見ているのだろうか。それとも、美術展を見終わって、その余韻の中で自身も日傘を開きつつ歩き出したのだろうか。いずれにせよ、白と黒を詠むだけで限りない彩りを感じさせる句だな、と印象深かったのだが、今回読み直したところ集中の前後の句から見て、秋それも深まった頃の作と思われる。それならきっと遠景、秋日傘に色濃く日が差し深い空の青に紅葉や黄葉が映えてますます美しい。分類は夏季になると思われ、立秋前の最後の一句とした。『眠れる木』(2012)所収。(今井肖子)


August 1082013

 アルバムは燃やしてしまえ遠花火

                           樋口由紀子

者はひとり部屋の中で遠花火を聞いている。かすかな中に時折確かに響くその音に、昔家族で見た花火のことなど思い出されるのだろう。遠花火の音をきっかけによみがえってくる数々の記憶が、失ったものへの追慕となってやりきれない感情と共に、燃やしてしまえ、という強い言葉を生む。その口調の強さと遠花火の静けさとの対比が、作者の慟哭を際立たせているようにも思える。掲出句の数句前に〈父が逝く籠いっぱいに春野菜〉とある。しばらく時が経って季節が動いた頃ふと感じる淋しさ、娘にとって父親はやはり特別な存在なのだと、亡くしてみてわかるこの頃である。『樋口由紀子集』(2005)所収。(今井肖子)


August 1782013

 去る時が来る爽涼の滝の前

                           松尾隆信

涼は、爽やか、の傍題で初秋。滝は夏季だが、この句には初秋の風が吹いている。かなり長い時間を、滝の飛沫を浴びながら過ごしていた作者である。滝を間近で見続けていると不思議な感覚にとらわれる。一点を見ていると水の勢いが感じられるが、上から下へ水の動きを目で追っていると、白い水の塊が意外にゆっくり落ち続けていて、引きこまれそうになる。そして落ち切った水は何事もなかったかのように、一枚の静かな流れとなって滝を後にして行くのだ。滝からの涼風とは別の風に、季節が移って来ていることを感じている作者なのだろう。『美雪』(2012)所収。(今井肖子)


August 2482013

 ふれて紙の表か裏か天の川

                           佐藤文香

、天の川を検索して出てくる画像と、子供の頃見ていた天の川の印象はかなり違う。満天の星空を仰いだ記憶の中の天の川は、川というより確かにミルキーウェイ、白くうすく流れていて、あの天の川の向こう側からこっちが透けて見えるかな、と思ったほどだった。そのうち天の川の向こう側、つまり裏側は無いのだ、と学習する。目に見えていながら実体がない、掲出句はそんな理屈を言っている訳ではないだろうが、メビウスの輪など持ち出すまでもなく、ひょいと返したパンケーキは裏が表に表が裏に、表と裏はあやうく不確かな存在である。たとえば水彩画の画用紙、少しざらっとした方が概ね表だが表裏は別として、指にふれたその感覚だけは確かなものなのだ。『俳句』(2013年8月号)所載。(今井肖子)


August 3182013

 露の身を置く宮殿の鏡の間

                           大木さつき

の身、露の世、露けし、など人生の儚さにたとえて詠まれることの多い、露。未だそういう露の句は自分ではできないのだが掲出句の、露の身、には実感があるように思えた。栄華の歴史を象徴する美しい宮殿の大広間、壁も天井も鏡が張り巡らされているのだろうか。そんな異国の色彩の中に、ぽつんと映る自分の姿がある。しばらくそこに立っているうちにふと浮かんだ、露の身、であったのだろう。ドイツの旅十句のうちの一句、他に〈古城はるか座せば花野に沈みけり〉〈身に入むやみづうみにある物語〉など。『遙かな日々』(2007)所収。(今井肖子)


September 0792013

 さりさりと梨むくゆびに朝匂ふ

                           清水 昶

朝も梨をむいた、いただき物の二十世紀梨。とにかく早く食べないと日に日に味が落ちてしまう、とばかりどんどんむいて食べ、母や妹のところに持っていき、残りは保存容器に入れて冷蔵庫に。暑い中帰宅して食べると、冷やしすぎで甘みは落ちているかもしれないが、みずみずしくて美味しい。さりさり、は梨を食べている感じだが、この句の梨は、さりさりと剥かれている。私など急いでいるからさっさと四等分して芯を取ってしまうが、この梨は包丁を皮と実の間にうすく入れられながら、ゆっくり回っているのだ。その清々しい香りを、朝匂ふ、と詠んだ作者は、隣で梨を剥く妻の指をじっと見ているのかもしれない。平成十二年九月十二日の作。『俳句航海日誌 清水昶句集』(2013)所収。(今井肖子)


September 1492013

 かたすみのかたいすすきを描く絵筆

                           宮本佳世乃

週はじめ、小さい向日葵とすすきが数本ずつの花束が花屋の店先に。暑さが残りながらも秋めいてきた今時分らしいようにも思えて買い求めた。一緒に投げ入れてみるとなかなかおもしろく、すすきの穂はまだ硬いけれどふれるとなめらかで、窓際に置くと空を恋うように光って揺れる。来週の名月までは持たないなと思いながら本棚の俳誌をめくっていたら掲出句が目に止まった。まず一叢のすすきがありありと見えて、それから細い絵筆がすっすっと動き次々にすすきのかたちが生まれてゆくのが見えてくる。揺れるすすき、絵の中のすすき、絵筆の先、それぞれの曲線が美しい。俳誌「豆の木」(2012年4月・16号)所載。(今井肖子)


September 2192013

 丁寧に秋のビールを注がるる

                           澤田和弥

は一年中ほとんどビールしか飲まなかった。四季を問わず、トマトと豆腐とラガーの大瓶で始まる晩酌、気に入りの小さいグラスでゆっくり延々と飲むのが好きだったがそのうちさすがに、あと一本は飲めない、と調節用に缶ビールを買うようになった。缶はどれも同じだなあ、などと言いながら、グラスに注いでいたのを思い出す。そんな光景がしみついているからか、ビールといえば夏、と実感しにくいのだが、秋のビール、と言われると、しみじみとした季感と共に冷えすぎていない茶色の壜麦酒が浮かぶ。麦酒が注がれるグラスにそそがれる二人の視線、静かに注いでくれているその人と、それを丁寧と表現する作者、美味しい麦酒と一緒に長い夜がつづく。『革命前夜』(2013)所収。(今井肖子)


September 2892013

 遠まきの星にまもられ今日の月

                           林さち子

風が去って空が洗われ、今年は待宵から名月、十六夜と佳い月の日々が続いた。ことに満月の夜の東京は雲一つ無く、街の灯りがぼんやりと照らすあたりにはかすかな星が浮かんでいたが、月はひたすらな光を放ちながら天を巡っていった。そんな月を、孤高の月、ととらえて、月が星を遠ざけている、と言うとそれは思い入れの強いありがちな見方になるだろう。この句の作者はそんな月が、遠まきの星にまもられている、と言い、今日の月、と結ぶことで、長く人と親しんできた円かな月が浮かんでくる。〈さはりなく今宵の月のふけしかな〉と同じ作者の句が二句並んで『ホトトギス雑詠選集 秋の部』(1987・朝日新聞社)にある。昭和六年の作、作者について詳細は分からなかったが、あたたかい人柄を思わせる。(今井肖子)


October 05102013

 背の高きことは良きこと秋立ちぬ

                           宮田珠子

秋からほぼ二ヶ月経ってしまったのだが今日の一句とした。平成二十一年秋の作とわかっているが、活字になっていないので出典はない。秋立つのは一日のこと、たいていまだまだ暑いので季感も含めて、暦の上では秋、と思いながら一日過ごしても句を為しづらい。この句が、秋の晴、であったら平凡な発想、秋立つ、であるから、ふと清々しいのだろう。当時小学六年生だったお嬢さんを詠んだ一句、と知ると、背が高いことを気にしている娘に対する母の眼差しと共に、母と娘の立秋の一日が思われる。先週、作者は五十年の生涯を閉じられ、その葬儀に参列した。初めてお目にかかったお嬢さんは今は高校一年生、すらりと伸びた脚に制服がよく似合っていた。(今井肖子)


October 12102013

 わがいのち菊にむかひてしづかなる

                           水原秋桜子

の菊、と題された連作五句のうちの一句。五句のちょうど真ん中、三句目である。菊の美しさを描こうと、朝夕菊をじっと眺めて作ったという。昭和八年の作というから、四十一歳になったばかりというところか。のちにこの連作について「力をこめたものであるが、菊の美しさを描き出すにはまだまだ腕の足らぬことが嘆かれた句」と自解している。しかし、一句だけをすっと読むと、どうすればこの菊の美しさを表現できるだろうか、という言わば雑念のようなものが消えて、菊の耀きと向き合うことによって作者の心が言葉となって自然にこぼれでているように感じられる。以前も一句を引いた『秋櫻子俳句365日』(1990・梅里書房)、俳句と共にその人となりが味わえて興味深い。(今井肖子)


October 19102013

 打てばひゞくわれと思ふや秋の風

                           久保よりゑ

らを、打てば響く、とはなかなか言えないだろう、自信家だったのかと最初は思った。事実、そういう側面も持っていた作者であるようだ。大正十四年、四十代初めの作だが『ホトトギス雑詠選集 秋の部』(1987・朝日文庫)の中でも『虚子編歳時記』の中でも、秋風の項にあって趣の異なる一句である。ただ、何度か読み返していると、打てば響く自分を打って欲しい、どうして打ってくれないのか、と言っているようにも思えてくる。はげしくあらく、身にしみてあはれをそふる、という秋風。その中に身を置きながら何を思っていたのだろう。(今井肖子)


October 26102013

 潮騒の人ごゑに似て温め酒

                           上田日差子

暦九月九日が寒暖の境い目、その後は酒を温めて飲むと体によいとされていたという。今年は先週の日曜日、十月十三日だったが、立て続けの台風襲来で寒暖の差が激しく、なかなかそんな気分にもなれなかった。まあでもさすがに日が落ちれば肌寒く、あたためざけ、ぬくめざけ、がしっくりくるようになって来たこのところだろう。温め酒は一人で、せいぜい二人差し向かいでやるのが似合っている。広い居酒屋などでゆっくり飲むうちに酔いがやや回って来て、周囲のざわめきの中に身を置いていることが妙に心地良くなってくることがある、なるほど潮騒か。人ごゑの潮騒に似て、では広がりがなくなる。などと思ったが普通に考えれば、作者はかすかな潮騒に耳を傾けながら少し人恋しくなっているのだろう。いずれにしても、温め酒、に趣が感じられる。『和音』(2010)所収。(今井肖子)


November 02112013

 秋燈のひたひた満ちてゐる畳

                           西原天気

在の我が家のリビングの床は六十センチ四方のタイルが敷き詰められていて、汚れたら思いきり水拭きできて楽だけれど、照明が床に反射していつも明るい。思えば畳は、四季折々の光がしみこんだり流れたり明暗の表情を持ち、夜の灯はゆっくり部屋を包んでいった。ことに秋も深まってくると色濃い秋日に濡れ、やがてうすうす寒くなりつつ暮れた部屋が灯されると、そのあかりは静かに夜長の時を満たしてゆく。数えてみると、三年前に建て替えた現在の家が、仮住まいも含めるとちょうど十軒目の住まいとなるが、畳の部屋が無いのは初めてだったなと、今さらながらやや淋しい。『けむり』(2011)所収。(今井肖子)


November 09112013

 白湯一椀しみじみと冬来たりけり

                           草間時彦

起きて水を一杯飲むと良い、という話をしていたら、お湯の方がいいですよ、と言われた。その人は夏は常温、冬でもほどほどに温かいものしか口にしないのだと言う。え、冷たい麦酒は、と思わず聞くと、麦酒の味は好きなんですよ、でも冷やしません、麦酒によっては美味しいんですよ・・・ちょっと調べるとそれは本当だった。さらに、白湯健康法なるものもにも行き当たる。50℃位の白湯を少しずつ啜るのが良いという。掲出句、まさにお椀を両てのひらで包んで、ゆっくりと啜りながら味わっている風情。もちろん、今の私のようにちょこちょこ検索しては生半可な知識を得ているのではなく、体がすこし熱めの白湯を欲してその甘さに、しみじみ冬の到来を実感しているのだ。八冊の句集から三七九句を収めた句集『池畔』(2003)の最後のページには〈年よりが白湯を所望やお元日〉の一句もある。(今井肖子)


November 16112013

 花束の冷たさを抱き夜のバス

                           川里 隆

られた大きなその花束は美しくラッピングされていて、抱えた腕にずっしりと重い。バスにはほとんど乗客はいなくて、ぼんやり車窓に目をやりながら揺られているのだろう。さっきまで送別会の主役だったのか、などともの寂しい方へ気持ちがゆくのは、冷たし、の持つ心情的な印象からか。そういえば、結婚が決まってささやかな式をあげることになった時、それまで何も口出しをしなかった父が、花束贈呈は止められないか、と言ったのを思い出した。結局諸事情があって止められなかったのだが、式の後の二次会で私の教え子に囲まれて楽しそうにしている父を見てどこかほっとしたのだった、三十年前の話。花束の冷たさは、通っている水の冷たさであると同時に、それを抱えている作者の心持ちでもあるのだろう。『薔薇の首』(2013)所収。(今井肖子)


November 23112013

 旅に出て忘れ勤労感謝の日

                           鷹羽狩行

書や歳時記には、新嘗祭を起源とするとあるが、他のいくつかの国民の祝日同様、その意義を考えることが少なくなってしまった勤労感謝の日である。俳句にするには正直、音が多くなかなか難しく、何もしないでゆっくり過ごす、といった詠み方をよく見かけるが掲出句は、忘れ、といっている。紅葉もいよいよ美しくまさに旅に出るにはよい季節だが、勤労感謝の日であることを忘れていた、というより、どこか釈然としない、現在の国民の祝日のあり方に対する皮肉のようにも感じられる。『合本俳句歳時記第四版』(角川学芸出版)所載。(今井肖子)


November 30112013

 嬰のまはりはことばの華よ冬満月

                           熊谷愛子

には、やや、とふられている。泣き声と話し声、生まれたばかりの赤子を包む幸せがまず音として感じられ、それから風景となって見えてくる。花を思わせる、嬰、の文字と、華、が呼応しているところに、冬満月の円かでありながら冴え冴えとした光が加わって余韻を生む。二人の子を持つ友人がだいぶ離れた三人目を授かった時、二人でいいかなって思っていたのだけど、赤ちゃんを囲んでいる時の家族がなんだかなつかしくなったの、と言っていたのを思い出す。生まれたての命は無条件に幸せをもたらしてくれるのだろう。前出の友人の末娘も大学生、甘やかされているはずが二人の兄より強く逞しく、ずっと母を幸せにしている。『旋風』(1997)所収。(今井肖子)


December 07122013

 朴落葉反り返りつつ火となれり

                           原 夏子

週間ほど前、久しぶりに朴落葉と遭遇。冬紅葉がまだあざやかな武蔵野の落葉径、ひときわ大きく反り返る朴落葉にどきりとさせられた。葉裏の色は散りたての銀色からだんだん石のように青ざめ、魚をも連想させる。しばらく佇んで見ていたものの、言葉は同じところをぐるぐるするばかりだったのだが、掲出句を見てあの時見た朴落葉が、冷たい色のまま最後の生気を失ってやがて枯色となってゆく様が見えるような気がした。実際は落葉を焚いているのだろう、その中でひときわよく燃えている朴落葉なのだ。すぐそう思ったが一瞬、よみがえった記憶の中の朴落葉に不思議な命の火の色が見えた気がしたのだった。『季寄せ 草木花 冬』(1981・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


December 14122013

 試験憂し枯木にさがりゐる縄も

                           沢木欣一

書きに「共通一次試験、東京芸大」とある。作者は昭和四十一年、当時の文部省から東京芸術大学助教授に転任、その後教授となり、この句を引いた句集『往還』(1986)出版の翌年、同大学を定年退職されている。試験会場となっている大学構内を歩いているのだろうか。次々に受験生とすれ違いながら、試験があるからこんな思いつめたような生気のない顔になってしまうのだと思っているのか、枯木にさがりゐる縄が象徴的だ。ただ、真剣に勉強している受験生の顔はとても凛々しく美しい。大学入試センター試験までほぼ一ヶ月、講習の準備をしたり過去問の質問に答えたりしながら、今の自分の美しさを彼女等は知らないだろうなと思ったりしている。(今井肖子)


December 21122013

 吹雪くなり折々力抜きながら

                           関 木瓜

森県鰺ヶ沢に住む知人から、ぜひ真冬に一度いらっしゃい、と言われているがなかなかその機会がない。雪らしい雪といえば北海道に流氷を見に行った折に出会ったくらいで、ましてや吹雪を体感したことなど皆無なのだが、この句の、力を抜く、という表現には臨場感があるように思う。ただただ吹雪いている中、風に緩急があるのだろう、それがいっそう生きものが襲ってくるような恐ろしさを感じさせる。網走に旅した時の作と思われるが、吹雪に慣れていない旅人らしい視点で作られた一句。『遠蛙』(2003)所収。(今井肖子)


December 28122013

 焼藷がこぼれて田舎源氏かな

                           高浜虚子

前初めて『五百句』を読んだ時、その一句目が〈春雨の衣桁に重し戀衣〉で、いきなり恋衣か、と思ったが、必ずしも自分の体験というわけではなく目に止まった着物から発想したのだと解説され、え、そういう風に作っていいの、と当時やや複雑な気分になった。その後「戀の重荷」という謡曲をもとにしていると知り、昔の二十歳そこそこはそういう面は大人びているなと思いながら、恋衣と春雨にストレートな若さを感じていた。掲出句の自解には「炬燵の上で田舎源氏を開きながら燒藷を食べてゐる女。光氏とか紫とかの極彩色の繪の上にこぼれた焼藷」とある。ふと垣間見た光景だろうか、五十代後半の作らしい巧みな艶を感じるが、春雨と恋衣、焼藷と光源氏、対照的なようでいて作られた一瞬匂いが似ている。『喜壽艶』(1950)所収。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます