選挙カーも通らないし、電話での投票依頼も一本だけ。静かだ。(哲




2013ソスN7ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1072013

 天の川の水をくみきて茶の湯かな

                           有吉佐和子

夕は過ぎてしまったけれど、天の川が消え去ったわけではないから、七夕句会で詠まれた一句を取りあげる。佐和子が元気な(活発な人だった)頃のある年、佐和子邸で「七夕の茶会」なるものが催された。ドナルド・キーン、加東大介、他らと一緒に招かれた車谷弘が、その時の様子を書いている。お茶席の床の間に掲げられた掛軸は、天の川にちなんだ勝海舟の書で、佐和子のお点前による濃茶が振る舞われた。やがて「句会をやりましょう」ということになり、掛軸は漱石の俳句のものに替えられた。花瓶の花も漱石にちなんで、「猫のひげ」に替えられるという趣向。掲句はその席での一句。「天の川の水」はさらりとしゃれていて趣があるではないか。「あけ放した二階座敷から、仄明るく、雨気をふくんだ夜空がひろがり、夜ふけの感じが濃くなっていた。散会したのは十一時近く」と車谷弘は書いている。茶会と句会のダブル・ヘッダーとは、なかなかおしゃれである。「天の川」は秋の季語だが、七夕に作られた句ということでここに紹介した。佐和子はどれくらい俳句を嗜んだのだろうか。その席でキーンさんは「文月や筆のかわりに猫のひげ」と詠んだ。車谷弘『わが俳句交遊記』(1976)所載。(八木忠栄)


July 0972013

 帆を張れば船膨らみし青葉潮

                           河原敬子

日、日本丸の総帆展帆(そうはんてんぱん)を見に行く機会があった。青空の下、一時間ほどかけて乗組員たちの掛け声とともに29枚すべての帆を広げた帆船は、見ているものの誰もが息をのむ美しさだった。それはまるで、大きな蝶が羽化しているさまを目の当たりにしているような、帆船が帆船として息を吹き返しているような、なんとも不思議な時間が海の上に流れていた。かつてはその姿の美しさから「太平洋の白鳥」と称されたとの説明を読み、そのとき感じたどこと言えない胸のわだかまりがなんであるかに気づいた。それは、船が繋留されたままであるという不自然さだった。太平洋の白鳥は岸に繋がれたまま羽を広げていたのだ。動物園に飼われた雄々しい動物を見るときに感じる胸の痛みであった。総帆展帆して帆を風に膨らませても進むことは叶わないのだ。いつか大海に浮かぶ帆船の本当の美しさを見ることはできるだろうか。〈サングラス外しほんたうの海の色〉〈花の名を後ろ送りに尾瀬の夏〉『恩寵』(2013)所収。(土肥あき子)


July 0872013

 雲の峰過去深まつてゆくばかり

                           矢島渚男

そり立つ入道雲。同じ雄渾な雲を仰ぐにしても、若いころとはずいぶん違う感慨を覚えるようになった自分に気がつく。若いころには、別に根拠があるわけではないが、真っ白な雲の峰に、あるいは雲の向こうに、なにか希望のようなものの存在が感じられて、気分が高揚したものだった。それがいつの間にか、そういう気分がなくなってきて、希望的心情は消え果て、ただ意味もなく「ああ」とつぶやくだけのことで終わってしまうのがせいぜいである。自然の摂理で仕方はないけれど、老人になってくると、自然にものの見方は変化してくる。そのことに作者はもう一歩踏み込んで、希望を覚えないかわりに、つまり未来を思わないかわりに、「過去」が深まってゆくのだと言い放つ。その「過去」が豊潤なものであるかないかは別にして、老いはどんどんとおのれの「過去」を深めてゆくばかりなのである。しかも、その気分は悲しいとか哀れだとかという感情とは無関係に、わいてくる。ただ「ああ」というつぶやきとなって、自然にわいてくるのだ。そういう意味で、この句は老いることの内実を、そのありようを淡々と描いていて秀逸だ。刻々と深まりゆく過去を覚えつつ、老いた人はなお生きてゆく。何事の不思議なけれど、老いた身には、そういうことが起きてくる。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)




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