今日は作家の岡本敬三君を偲ぶ会。年下の友人の死は辛い。合掌。(哲




2013N88句(前日までの二句を含む)

August 0882013

 日の丸の白地に赤がかなしけれ

                           長澤奏子

いむかし「白地にあかく/日の丸そめて/ああ美しい/日本の旗は」と歌った思い出がある。今ネットで調べるとこの歌は明治44年作になっている。作られた時代背景を思うと、1910年の日韓併合の翌年になる。朝鮮半島を足掛かりに大陸へ出てゆく体制を作るうえでも国旗、国歌、国への忠誠をより強化する意図があったのだろう。日の丸の意味はその人の抱える経験、思想、信条によってもさまざまな意味に解釈されるだろう。本来、日の丸の赤は太陽を象徴しているそうだ。戦後廃されたが、昭和16年に作られた上記の一番に続く二番は「勢い見せて/ああ勇ましい/日本の旗は」日本の勢いにまかせて大陸に渡った155万以上の人たちは終戦とともに置き去りにされた。作者の場合は幼児期に上海に渡り、昭和21年3月に長崎に引き揚げ、その後は広島で暮らしている。「かなしけれ」と静かに呟いてはいるが、7歳での引き揚げ体験には筆舌に尽くしがたい思いがあっただろう。日の丸の赤があの戦争で流された血で染まっているように思える。『うつつ丸』(2013)所収。(三宅やよい)


August 0782013

 あくせく生きて八月われら爆死せり

                           高島 茂

和二十年の昨日、広島市に原爆が投下され、三日後の九日に長崎市に原爆が投下されたことは、改めて言うまでもない。つづく十五日は敗戦日である。二つの原爆忌と敗戦忌が日本の八月には集中している。掲句の「八月」とはそれらを意味していて、二つの「爆死」のみならず、さらに広く太平洋戦争での「戦死」もそこにこめられているだろう。二つの「原爆」の深い傷は今もって癒えることはない。三・一一以降セシウムの脅威はふくらむばかりである。それどころか、今まさに「安全よりお金を優先させる」という、愚かしい政治と企業の論理が白昼堂々とまかり通っている。「あくせく生き」た結果がこのザマなのであり、「爆死」の脅威のなかで、フクシマのみならずニッポンじゅうの市民が、闇のなかを右往左往させられている。そのことをあっさり過去形にしてしまう権利は誰にもない。戦中戦後を「あくせく生き」た市民たちにとって、死を逃がれたとはいえ「爆死」状態に近い日々だったということ。茂は新宿西口の焼鳥屋「ぼるが」の主人だった。私も若いころ足繁くかよった。ボリウムのあるうまい焼鳥だった。主人と口をきくほど親しくはなかったが、俳人であることは知っていた。壁に蔦がからんだ馴染みの古い建物そのままに営業していることを近年知って驚き、私は一句「秋風やむかしぼるがといふ酒場」と作った。かつて草田男や波郷もかよったという。文学・芸術関係の客が多く独特の雰囲気があった。茂の句は他に「ギター弾くも聴くも店員終戦日」がある。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)


August 0682013

 みんみんや子に足し算の指足らず

                           入部美樹

休みといえば宿題が思い出されるほど、課題には手を焼いた。算数や漢字のドリルを始め、読書感想文、絵日記、工作と、小さいながらよくやったものだ。繰り上がりや繰り下がりなどの計算と出会うのは小学一年生だろうか。初めての夏休みになんとも痛ましいことだが、いつかは乗り越えなければならない数字の概念の壁でもある。「指を使っちゃいけないといったでしょ」と若い母は繰り返し、子どもは幼い手をぎゅっと握りしめる。多くの母親は、わが子を愛するあまり、折々ほかの子と比較してそのわずかな差に押しつぶされそうになる。みんみん蝉の執拗な鳴き声が、思わず声を荒げてしまった母の後悔のように尾を引いて響く。子どもはみんな、ゆっくりゆっくり大人になればいい。『花種』(2013)所収。(土肥あき子)




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