午前6時過ぎにコンビニに行ったら、けっこう客がいました。(哲




2013ソスN8ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1182013

 乾坤のこの一球ぞ甲子園

                           松本幸四郎

台上で見得を切る幸四郎、その人の句です。歌舞伎はもとより、演劇・映画でご活躍中ですが、なかでも、蜷川幸雄演出「リア王」の凋落ぶりと、デビット・ルヴォー演出「マクベス」の陰影のある演技が印象的です。もちろん、代表作「ラ・マンチャの男」は圧倒的ですが、この方の演技は、声が低くなった時も、はっきりと伝わってくる滑舌のよさと節回しの巧みさにあると感じてきました。聞くところによると大のジャイアンツファンで、球場に足を運ばれることもあるそうです。掲句は『仙翁花』(2009)に所収されている「甲子園六句」の中の一句。すり鉢状の球場で、四万人を超える視線は投手の投げる一球に、打者の打つ一球に、野手が捕獲する一球に、一点集中して注がれています。ふだんは舞台上で観客の視線を一身に浴びている作者が、甲子園球場では、マウンド場に向けて熱いまなざしを注いでいる。観客を熱くさせる役者であり続けるためには、まず、自身が熱い観客でなくてはならないということでしょう。今夏も甲子園から、千両役者が生まれることを祈ります。(小笠原高志)


August 1082013

 アルバムは燃やしてしまえ遠花火

                           樋口由紀子

者はひとり部屋の中で遠花火を聞いている。かすかな中に時折確かに響くその音に、昔家族で見た花火のことなど思い出されるのだろう。遠花火の音をきっかけによみがえってくる数々の記憶が、失ったものへの追慕となってやりきれない感情と共に、燃やしてしまえ、という強い言葉を生む。その口調の強さと遠花火の静けさとの対比が、作者の慟哭を際立たせているようにも思える。掲出句の数句前に〈父が逝く籠いっぱいに春野菜〉とある。しばらく時が経って季節が動いた頃ふと感じる淋しさ、娘にとって父親はやはり特別な存在なのだと、亡くしてみてわかるこの頃である。『樋口由紀子集』(2005)所収。(今井肖子)


August 0982013

 金魚玉とり落しなば鋪道の花

                           波多野爽波

魚玉は、玉状に造られたガラス器に金魚を入れ、軒先などに吊して涼を楽しむもの。この句、金魚玉を実際に落としたわけではない。「とり落し」+「な」+「ば」であって、「な」は完了の助動詞の未然形。「もし、落としてしまったら」という順接の仮定条件である。光景としては、金魚玉を提げて、鋪道を歩いているのだろうか。その時、ふと、淡い強迫観念のような心情が過ぎったのである。もし、この金魚玉を落としてしまったら、割れてしまい、金魚は、鋪道の花のようになるであろうと。作者の美意識と繊細な感受性が表れた作品である。『鋪道の花』(1956)所収。(中岡毅雄)




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